酔った彼女とハンニャマン ふう、と溜息を漏らせば、それは白い靄になって薄れていく。体には心地よい痛みが所々で鈍く残り続けている。今日も良い喧嘩だったと黒スーツに般若の面を着けた男、真島は口元に笑みを浮かべた。この奇抜な恰好に加えて終始無言を貫いたハンニャマンでのサプライズは成功だった。無言で近付いて行った時の桐生のあの驚く様は何度思い出しても、口元が緩んでしまうほど。
入口である公衆便所を抜け出た先で、真島は公園前通りをふらふらと歩く女の姿を見た。夜の神室町に女が一人ふらふらと歩いている、真島は何故だかその彼女の事が気になった。何か厄介事に巻き込まれないと良いが、と考えながら、同じ通りを歩く。たまたま行先が同じだった、彼女は一体どこへ向かうのだろう。すると、不意に彼女が何かに躓き、その場に転倒した。真島は余計に彼女から目が離せなくなり、気が付けば彼女の元へと駆け出していた。
いてて…、と一人呟いている彼女は地べたに座り込み、自分へ駆け寄る真島に気付くと、微かに潤んだ瞳で真島を見上げた。真島の恰好に一度目を丸くしていたが、瞬きを何度か挟んだ後には怖がる素振りを見せず、あなたは…?と口にした。
「お、俺は…、」
「俺、ってことはお兄さん、なんだね。」
「…ああ、まァ、そうやな。」
「白いお面のお兄さん、こんな所でどうしたの、」
それはこっちの台詞や、と膝を擦りむき、尻餅をついたままの彼女の手を取り、その場に立たせる。ありがとう、と真島の手を握り締めたままの彼女は、転んだことも忘れて、にこにこと人懐っこい笑顔を見せていた。
「転んだっちゅうのに、ご機嫌な姉ちゃんやなァ、」
「お兄さん、関西弁なんだ。珍しいね、こっちじゃあんまり聞かないから。」
「俺の事はええ、姉ちゃんは膝大丈夫なんか、」
「うん、大丈夫。お兄さんが助けてくれたから。」
そない大層なことちゃうやろ、と真島が溜息混じりに吐き出せば、そうかな、と彼女は顔を綻ばせて笑う。その時にふわりと匂ったのは、微かな酒の匂いだった。彼女は酔っ払っているのだと理解した真島は、彼女の表情が緩い理由を知る。
「姉ちゃん、こんな時間まで飲んどったんか。」
「あれ、なんで私がお酒飲んだの知ってるの?お兄さんって、そういうの分かっちゃう凄い人?もしかして、」
「ちゃう。姉ちゃんが酒臭いだけや。ぷんぷんしとる。」
「ええ…?それ、ちょっとやだなぁ…、」
くんくんと自分の腕や肩の匂いを嗅いでいるものの、酒の匂いと言うのは本人には分からないものだ。真島はいつの間にか彼女と言う厄介事に、自らが巻き込まれに行っているのだと気付く。しかし、酔っ払いであると知っている彼女を今更一人に出来る筈もなく、真島は彼女の目の前で足を止めたまま。
「ほんで、姉ちゃんはこれからどうすんねん。」
「私?そうだなぁ、どうしようかなぁ。」
「帰るんなら、はよ帰った方がええ。変な奴に絡まれても知らんで。」
ね、ね、と真島を呼び掛ける彼女の瞳がキラキラと輝き始める。
「お兄さんとちょっとだけお話したいな。」
「あァ?何言うとんのや。そないな事より、姉ちゃんははよ帰れっちゅうねん。」
「お願い、白いお面のお兄さん。お話してくれたら、ちゃんとお家に帰るから、ね?」
彼女の輝く眼差しが真島に向けられ、期待に胸を膨らませている様を目の当たりにすると、やはり弱いものがあるようで、真島は仕方なく彼女の為に時間を割くことにした。
二人は公園前通りから移動し、七福通りにある七福パーク内の自動販売機近くの車止めに腰を下ろしている。
「お兄さん、意外と優しいんだね。私、相手にされないと思ったのに。」
「ホンマは俺も帰りたいんや。せやけど、酔っ払っとる姉ちゃんを一人ほっとく訳にも行かんやろ。」
「ありがとう。白いお面のお兄さん。」
それから彼女の話は懐っこい口調のまま、様々なことを零す。ぽろぽろ、ぼろぼろ、ごろごろ、と次から次へと他愛もない彼女の話が続き、真島はたまに相槌を、たまに返事を挟んではその会話に付き合っていた。
「それで姉ちゃんは一人で飲んどったんか?」
「ううん、今日はたまたま会社の飲み会があったの。それでさっき解散してきたところ。」
「せやったら、余計に家帰らなあかんのとちゃうか。」
寂しくなっちゃって、と赤く染まる頬で呟いた。すっかり血が滲んで固まってしまった膝の傷口にそっと触れている。真島には彼女が感じる寂しさの理由が分からなかった。
「ねぇ、お兄さんはさ、普段何してる人なの?」
「……俺か、そやな、」
「お兄さんスーツ着てるから、サラリーマンだったりする?」
いや、これは、と言い出しそうになった口を噤み、一言そうだと答えた。
「やっぱりそうなんだ。変なお面着けてるけど、ちゃんとした人なんだ。」
「ま、まァな、」
「お兄さんは毎日楽しい?」
「なんや突然、」
突拍子の無い言葉が真島の元を訪ねてくる。彼女がそう問い掛けてくるということは、きっと彼女はそうではないのだろう。にこやかだった顔が困ったような笑みを浮かべ、真島の返事を待つ。
「俺は自分のやりたいようにやっとる。せやから、毎日が楽しいかどうかは俺次第や。ほんで、そう言う姉ちゃんはどうなんや。」
「私は……、楽しくないなぁ。」
彼女の口から、苦々しい本心が吐き出された。伏し目がち、口元は無理矢理にでも緩やかなまま。自動販売機の冷たい光に照らされながら、寂しさの理由がゆっくりと顔を覗かせる。
「最近は変に落ち込んでばっかり、お仕事もミスしがちで。でも、それは私がうっかりしてるのがいけないんだ。今日もそれをちょっとだけ引き摺ってる。」
自分のいる極道の世界とは違う、真っ当である堅気の世界に生きる彼女の言葉が無人の駐車場に消えていく。堅気の世界を知らない訳じゃない、寧ろ堅気であることの苦労すら知っている身だ。彼女が背負っている苦労は見えない、彼女にも真島が背負っている苦労は見えない。最初は適当に聞き流すつもりでいたが、その本心を聞いてしまってからは彼女の言葉に耳を傾けている自分がいた。
「きっと本当はいつも楽しいんだと思う。ただ自分がそんな毎日からはぐれちゃってるだけで、本当は凄く楽しい毎日なんだよね。」
気遣い、良好な人間関係、効率の良い仕事、理想とのギャップ。少しでも理想に追いつこうとして日々心がすり減っていく。そんな日常を繰り返す内に彼女は心身共に疲労してしまったのだろう。彼女は自分だけが賑やかで楽しい日常からはぐれているのだと、一人だけ行く宛が無いのだと言う。その深い思い込みに、寂しく切ない瞳に、真島はどうしても彼女に言っておきたいことが出来た。
「そうでもないで。俺は姉ちゃんとはちゃうが、毎日が必ずしも楽しいもんやとは思うてへん。面倒事が重なる日もあれば、何もしたくない日もある。」
せやから、姉ちゃんがそこまで思い詰める必要はないやろ、と軽い相槌のつもりが、まるで彼女を労るような言葉を口にしていた。あ、いや、これは、と取り繕う間を与えず、彼女は嬉しそうに曇っていた表情を薄めていった。
「…慰めてくれるの?ありがとう、お兄さん。」
「そんなんちゃうわ。俺は、別に、」
「お兄さんも照れたりするんだね。そのお面がなければ、照れてる顔が見れたのに。残念だなぁ…。」
「こちとら、人に見せるような顔ちゃうねん。」
それってどういうこと?と首を傾げ、頭の上で白い雲を大きくさせていく彼女に、余計なこと考えとらんと帰るで、と真島は一人立ち上がる。
「ま、姉ちゃんの気持ちが分からんこともないで。せやけど、ずっと悩んで、引き摺っとってもなぁんにも変わらへん。せやったら、今日みたいに酒飲んで、愚痴零して、スッキリした方がよっぽどええわ。」
それで姉ちゃんが明るくなれるんやったらな。駐車場の暗闇に吸い込まれたその言葉は、他の誰でもない彼女へと。自分でも、くさい台詞だと思った。しかし、彼女の気持ちがこのまま荒んでいってしまうよりかはマシだと思った。
振り返り、低い位置にある彼女の姿を捉える。彼女は未だ座り込んでは膝を抱えて俯いていた。なんや、姉ちゃん、まだ帰りたないんか、と真島はしゃがみ込んでその顔を覗けば、静かな寝息を立て始めた彼女の寝顔があった。
「……ホンマかいな、姉ちゃん。」
がっくりと項垂れたのは真島ことハンニャマン。先程より更に緩い表情の寝顔に、知っとるか、姉ちゃん。ハンニャマンっちゅうのは喋らないのがええんやで。と聞こえていないだろう彼女へ不満を零す。今度は大きな溜息を逃がし、真島は懐から携帯電話を取り出すとどこかへ電話を掛け始めた。相手に繋がったと分かると真島は、七福パークに居るから車回して来いや、と言い残し、縮こまって眠る彼女の隣に腰掛けた。
***
差し込む朝日に眠りを妨げられ、目覚めれば、頭がズキズキとする。何でだろう?と記憶に問い掛ければ、中途半端にしか思い出せない昨晩の出来事が朧気に浮かぶ。辺りは見慣れた自分の部屋、昨晩は一体どのようにして家まで帰って来れたのだろうか。
おはよう代わりの溜息を一つ、なまえは痛む頭を押さえながらベッドを抜け出す。昨日は確か会社の飲み会があって…、それから……、と空白の時間を手繰り寄せるが、やはりその全てを思い出すことは出来なかった。綺麗に抜け落ちてしまった時間のことを思えば、胸に靄が掛かり、むず痒くなるのと同時に何故か胸が満たされていることにも気付く。そして、ただ漠然と晴れた心があるだけだった。なまえのここ数日における心の荒み様は酷いもので、だからこそ、余計にこの晴れた心を疑問に思う。
なまえが寝室を出てリビングにやって来た時だった。近くのテーブルに何かが無造作に置かれているのを見つけ、そこには乱雑に開けられた絆創膏の箱と適当なメモが一枚置かれていた。自分で開けたのだろうか、しかし、なまえ自身、自分がどこを怪我したのか分からない。絆創膏の箱は一旦保留にするとして、なまえは隣にあったメモを手に取ると、達筆な文面に目を通す。
"勝手に上がって、すまんかった。"
ただそれしか書かれていないメモに、なまえは更に胸の靄を濃くさせた。
「このメモ書きを残してくれた人が、私をここまで、」
優しい記憶は朧気、きっとこの相手には迷惑を掛けてしまっただろう。顔を思い出せないのが悔しくてもどかしい。一度でいいから、ありがとうと伝えたい、自分に優しさを注いでくれた人に。
「どんな人だったんだろう。」
なまえは昨日の記憶を紐解いていく。昨日を追い掛ける瞳はまだ気付けなかった。擦りむいた膝の傷口をしっかりと覆う、不格好で斜めに貼り重ねられた絆創膏の存在を。それだけがなまえの消えてしまった記憶の全てである。
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