蒼天堀で郷田龍司と再会する



 やってしまった。例え十二歳そこらの子供でも分かるほど、状況は圧倒的に不利で、かなりよろしくないものだった。彼はもう逃げてくれただろうか、ガラの悪い中学生に絡まれていた同い年くらいの男の子。

 幼い正義感が突き動かされたのは下校中の帰路にて。困っている彼と怖い中学生の彼らを置いて、一人家に帰ることなんてなまえには出来なかった。
 声をかければ、あっという間に標的が自分へと変わり、怖い学生服の群れに囲まれる。たまに視線を辺りに逃がして、あの男の子の姿を探してみれば、無事に逃げられたようで安堵する自分がいた。しかし、この状況で安堵のため息は吐き出せそうになく、困惑した表情のまま、学生服をじっと見つめ続けている。黒に塗れて沈黙に口を閉ざしていると、こんな状況で中学生達に声を掛ける人物がいた。


「邪魔や。こないな道端で自分らより弱そうな小学生囲んどらんと、さっさと退けや。」

 先程の自分と同じでこの中学生達に声を掛けたのは、淡い金髪を靡かせた、この中学生達の誰よりも背丈の高い男だった。威圧的な口調と眼光に中学生達は怯んでいるようだったが、やはり引き下がれないのが不良と呼ばれる中学生で、なまえをその場に置き去りにすると、金髪の男に近付いて行く。複数人である強みを全面的に出していたものの、次の瞬間には金髪の彼に手際良く捌かれ、あの中学生達は道の上で伸びていた。大して時間のかからない一方的な喧嘩を前に、なまえは逃げることを忘れ、ただ彼を見ていることしか出来なかった。

「なんや、自分。もう行ってええで。」
「あの、お兄さん。……ありがとうございました。」

 男の声になまえは傍へと駆け寄り、深く頭を下げれば背負っていたランドセルが後頭部にぶつかる。顔を上げた先で、彼が少しだけ複雑な顔をしているように見えたのは気のせいだろうか。

「んなもんええから、はよ帰り。またしょうもないアホに絡まれてまうで。」
「うん、本当にありがとう…、ってあれ?お兄さん、背中に背負ってるのって、」
「…一つだけ言うとくわ。ワシはお兄さんやない、自分と同じ小学生や。」

 ええ?!となまえの大きな声が路地に響く。なまえは不意に彼が複雑そうな顔をしていた理由を知る。あ、あの、ごめんね、と急いで謝ってみるものの、彼はそこまで気にしてはいないようで、ほな、帰るわ、となまえを置いて歩き出した。

「ね、ねぇ……!」
「なんや、ワシもそない暇やないんや。」
「また会えたり、する…?」

 知らんわ、と言い残し、金髪の小学生は一人で路地を行ってしまった。なまえはあのランドセルの似合わない背中を見つめ、偶然にも帰路が同じであることに気付いた。そして、この道の先には小さな児童公園があり、もしかしたら、と期待に膨らむ胸でこの日は真っ直ぐ家へと帰って行った。


 翌日、なまえは帰路の途中にある児童公園で金髪の彼を待っていた。どうしてそこで彼のことを待っていたのか、きちんとした理由など無く、ただもう一度会いたいから、と公園のブランコに腰掛けて待つ。
 退屈そうな足元と目の前の通りを交互に見る、彼の姿はない。一人でいても考える事はたくさんあった。彼の金髪の由来だとか、ランドセルが似合わないくらいに良すぎる育ちについてだとか、中学生を負かしてしまえる腕っ節の強さだとか。あ、でもそんなことより、もっと大事なことがあると、なまえの頭に電球が浮かぶ。

「あの子の名前、聞きたいなあ。どんな名前なんだろう、」
「誰のや、」

 独り言に割って入ってくる声に足元を見ていた顔を上げると、そこには高すぎる身長故に威圧的に見える、あの彼が立っていた。

「こないなとこで寄り道せんと、はよ帰らんかい。また昨日みたいに絡まれても知らんで。」
「やっぱり、ここ通るんだね。私もこの道通ってお家帰ってるんだ。」
「話くらい聞けや。…ま、ええわ、」

 そう言って彼は隣の空いていたブランコに腰掛ける。ランドセルもそうだが、ブランコも似合わない彼の姿に笑みが零れる。ここまで子供らしいものが似合わないのも珍しいとなまえは笑いを堪えられずにいた。彼はムッとした顔でなまえを見つめると、不機嫌そうな視線になまえは我に帰り、ごめんね、と告げた。

「フッ…、こないなことで怒るようなヤツちゃうわ、ワシは。」

 不機嫌そうに見えた表情が不敵な笑みで塗り替えられる。

「そっか、ありがとう。」


 彼も笑うんだと思うとなまえも何故だか嬉しくなって、他愛もない会話や聞きたかったこと、その時その時でなんとなく浮かんだことを夕暮れまで話していた。それから二人は帰路につき、またね、となまえが手を振れば、彼も、龍司も同じように返す。
 今まで一人ぼっちだった帰り道が楽しくなったのはこの日からで、なまえはいつも帰りの時間を待ち遠しく思うようになっていた。龍司と話をするようになってからは、あの児童公園で約束していたかのように顔を合わせ、たっぷり話をして、暗くなる前に二人で帰る。そんな日々の繰り返しだった、翌年の桜が花開く季節を迎えるまでは。なまえは龍司に何かを告げることなく、蒼天堀を出て行った。



***



 彼との記憶はいつもそこで終わる。大好きだった時間を取り出しては、いつもそこで切なくなってしまう。大阪、蒼天堀。思い出深いその地へ、なまえは帰って来た。

 いつも同じ所で終わる記憶の先を明かせば、なまえが中学に上がる前、両親の仕事の関係で東京へ引っ越さなければならなかった。それは所謂、転勤というもので、龍司にその全てを打ち明ける間もなく、なまえは両親に連れられ、蒼天堀を出た。中学、高校、大学も東京で通い、就職を機に蒼天堀へ戻る決心をしたなまえは、懐かしく、けれど、どこか真新しい大阪での新生活に奮闘している。

 昔とはまるで別人のように変わってしまった街の、昔から何も変わらないものを確かめたくて、当時の自分の記憶と照らし合わせてみたくて、なまえはざわめく街を歩いていた。どこもかしこも人懐っこい関西弁が飛び交う。訛りの混ざらなかった自分の口調を惜しいと思った。そう言えば、あの金髪の彼もコテコテの関西弁だったなあ、と思いを馳せる。それがきっかけだった、なまえがあの児童公園へと向かおうと思った、ちょっとしたきっかけである。


 小学生の自分が何度も登下校時に通っていた道を歩いて行く。あの頃見上げていた建物や塀が今となってはこじんまりとして見え、年季の入った景観に時間の流れを感じていた。長年この道の風景として居続けた屋根や植木、ひっそりと佇む電柱、どこまでも続いている寂れた側溝。道路の白線に沿うように、あの公園へ続く道を歩けば、見慣れた遊具が視界に飛び込んで来た。塗装が所々剥がれて物悲しい斑模様の遊具に、なまえは歩く足を早める。

 数年ぶりに見た思い出の場所は随分と質素で、遊んでいる子供の姿もなくて、ただただ寂しい場所に思えた。小さな自分と同い年なのに大きなあの子の姿がぼやけて甦る。公園の奥のブランコに腰掛けて時間が許す限り、彼と話し込んでいたのだ。先生に出された宿題の面倒さや今流行っているもの、お互いの家族のことなど他愛もないことばかり。しかし、それが今となってはとても大切で、手の届かない綺麗な思い出で、やはり切ない。
 なまえが公園の前で佇んでいようと声を掛けてくれるあの子は、あの人はもう居ない。寂しくなり過ぎる前にここを立ち去ろうと踵を返す。それと同時に誰かの声がなまえ目掛けて飛んできた。


「なぁ、アンタ、」

 渋い男の声だった。身に覚えはないが声を掛けられた手前、それを無視するということは出来ず、なまえは声のする方へと振り向く。そこには自分より大柄でベージュのロングコートを羽織った金髪の男が立っていた。

「は、はい。なんでしょうか…、」

 口元に深く残された傷、背格好が高い故に威圧的で圧迫感のある男の雰囲気、じっとこちらを貫くように見つめる瞳。それら全てがなまえに恐怖を抱かせる。どう見ても極道者にしか見えない風貌の男は声を掛けておきながら、その次を話そうとはせず、なまえの顔をじろじろと見ているだけだった。
 あ、あの、ともう一度声を掛けてみれば、男は無口なままでなまえとの距離を詰めていく。気付けば体は後退りしており、なまえが逃げるのだろうと思った男は、そこでようやく次を口にした。

「ちょい待ちぃや、姉ちゃん。」

 その言葉にもなまえの足は止まらず、男は仕方ないと言うように一気に距離を詰め、なまえの腕を取る。

「待て言うとんのや。」
「ご、ごめんなさい、」
「そないなことはどうでもええ。俺は姉ちゃんに聞かなあかんことがあんねん、」
「私に……?」
「姉ちゃん、ここで何しとったんや。こんな寂れた公園の前で。」

 答えを急かすような男に、なまえは先程までの自分について話すことにした。見ず知らずの男、しかも、その筋の男に腕を掴まれている状況では逃げることなんて出来ないと悟ったからだ。

「私はここで昔のことを思い出していたんです。私が小学生の時のことを。」
「姉ちゃんみたいないい歳した女が、何を今更。」
「…ここには、蒼天堀には、小学校を卒業するまでしか居られなかったんです。だから…、」

 なまえの次を遮ったのは、男の苛ついた声だった。

「……その当時、姉ちゃんには仲良うしとった子がおったか、」
「え?……えっと、確か一人だけ、学校も違うのに仲良くしてくれた子がいました。」
「そいつとはどうなったんや、」
「その子は、……きっと私が引っ越したことを知らないと思います。そのことを伝えられないまま、私も東京へ行ってしまったので、」

 そうか、と目の前の男は何かに納得したようで、なまえの腕を放した。彼の苛立ちもどこかへ行ったようで、なまえは自分を見つめる男の顔を見ていた。最初に抱いていた恐怖は薄れ、彼の言葉や視線、そして何よりその見た目がなまえの遠い記憶に何かを訴えている。そんな気がしたのと、不思議とこの男から懐かしさを感じている自分がいて、更にはこの男にあの子を重ねてしまう自分がいた。

「すまんかったな、姉ちゃん。もうええわ。」
「あ、あの…、どうしてお兄さんはこんなことを聞きたかったんですか、」
「……すまんがな、姉ちゃん。ワシもそない暇やないんや。」

 ほな、と立ち去ろうとした男の背中に声を掛ける。

「あの…!」

 振り向く男の顔はなまえを見た。

「また会えたり、する…?」

 龍司くん、となまえは一つの答えを導き出す。男は、あの頃似合わないランドセルを背負っていたあの子は、郷田龍司は微かに目を丸くしてその場で足を止めた。

「…アンタはまた今度でええんか。」
「え?」
「ワシはまた今度なんぞ言うつれない口約束より、今アンタを連れてく方が性に合っとんねん。」
「……なんか変わったね、龍司くん。」
「自分がワシっちゅう男を知らんだけや。ちゃうんか?」

 そうかもしれないね、と笑うなまえに龍司は再び近付くと、ほな、行きましょか、と強引に肩を抱き、公園から少し離れた所にある車へと向かって歩き出す。密かに見上げた、龍司の横顔になまえはぼんやりと思うことがあった。これは多分昔から、あの時から今まで何一つ変わらなかったもの。

「…龍司くんって、やっぱりかっこいいね、」
「アホ、知っとるわ。」
「そう言うんじゃなくて、もっと、こう……、」
「せやから、知っとる言うてるやろ。なまえが昔っからそないな目してワシを見とったことくらい、ワシには分かっとんねん。」
「わ、私は、別に……!」
「もうええやろ。ワシらも大人や、お友達言う関係やのうて、男と女の仲になっても、」
「ほ、本当に龍司くんは変わっちゃったんだね…!」

 心臓に悪いことばかり吐かれてもなまえは龍司の腕を解かず、龍司はなまえのころころと変わる表情や態度を見て愉しんでいた。遠くで待つ車は二人を乗せると、蒼天堀の明るい喧騒の中を走って行った。



***



 なまえが蒼天堀に戻ってきてから数年が経った頃。二人の関係はと言えば、可もなく不可もなくと言った所だった。感情で通じ合えても立場がそうさせてはくれず、形にならない関係の日々を送ってきたある日、突然龍司との連絡がつかなくなったのだ。
 不安に、焦燥に駆られ、気が気でない毎日を送る。相手は極道者だ。いつ、そうなってもおかしくはないと知っていたのに、いざこうなってしまうと心が脆くなってしまうようで、何度も彼とのやり取りを携帯の画面越しに見つめては睫毛を濡らす。

 悲しみに終わりを告げるかのようにチャイムが鳴った。なまえは急いで涙を拭い、玄関先へと駆ける。ドアスコープを覗いた先に立っていたのは見慣れた彼で、ここ何週間も音沙汰無しの彼で、なまえは衝動的にその扉を開けた。


「やっと顔見せに来れたわ、」
「りゅ、龍司くん、」
「何泣きそうな顔しとんねん。みっともないで。」
「だって、急に連絡取れなくなるから…、
「分かっとったやろ、こうなる日が来ることぐらい。」
「それに、たくさん怪我してるし……、」
「…しばらく世話になってもええか、」
「……もちろん、好きなだけ居て。」
「おおきにな、」

 怪我で包帯ばかりが巻かれた龍司を部屋に上げると、なまえは安堵からか泣き出してしまった。龍司はそれを宥めるようになまえを抱き締めると何度も頭を撫で、すまんかった、と呟く。
 龍司くんの馬鹿、大馬鹿、と泣きながら悪態をつくなまえに、うんうんと頷きながら、ホンマにそうやな、と相槌を打ち、小さな体をより強く抱き締めた。どれだけ離れようとも、いつも帰るのは君の傍であると、身をもって体験した、そんな二人の話である。



| きみに続く帰り道 |


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