立華鉄と食事に行ってエスコートされる「みょうじさん。行きましょう、外に車を待たせてあります。」
「は、はい…、」
社長室のドアノブに手を掛けた立華に続いて、なまえも部屋を出た。一定間隔の靴音、もう一つは慌ただしく不規則に鳴る靴音、その二つが静まり返った廊下を行く。会話は無い。ただ立華が時折足を止め、後ろを振り返り、なまえと離れ過ぎていないかどうかを確かめる。なまえはその度に何度も大丈夫だと返せば、立華は穏やかに笑う。どぎまぎとうるさい鼓動がある、立華との先程の会話が、立華の浮かべた不敵な笑みが忘れられない。
『みょうじさん。あなたさえ良ければ、この後の時間を頂けませんか?』
仕事終わりの疲労を忘れてしまうくらいに、自分が緊張しているのがわかる。立華は何を考えているのだろうか、自分を連れてどこへ行こうとしているのか。社長室を出た廊下の突き当たりにあるエレベーターの前で足を止めると、黒い三角が下を向いているボタンを押し込んだ。
「緊張していますか、みょうじさん。」
「……ええ、実は少し、」
「そうじゃないかと思っていました。さっきからずっと硬い表情のままですから。」
「す、すみません、」
「いえ、私のせいでしょう。あなたが何度も困った顔をするのは。」
ですが、私はその困った顔が嫌いではないようです。と立華にしては珍しく感情の読み取りやすい表情をした。簡単に言えば悪い顔、しかし、それは可愛げのある幼い少年のような顔だった。
エレベーターはまだ到着しない、それが嬉しくもあり、もどかしくもある。どうして、自分の目の前でそんな顔をしてくれるのだろう。今、自分の目の前に立っている男は本当に、あの立華なのだろうか、とさえ思う。
「……何を考えているかはわかりませんが、構いません。どうぞ好きなだけ、困惑して見せてください。」
二人きりである強みを活かして、立華は感情を徐々に色濃く見せてくれる。頭は都合良く解釈し、心は再び勘違いに揺れ惑う。手を伸ばせば簡単に触れられる、立華との距離の近さになまえは溢れてしまいそうになった。なんて言うべきだったのか、答えの見つからない静かな空間でそれはようやくやって来た。
到着を告げる音、なまえはその音に目前の靄を振り払った。お先に、と優先してくれる立華の言葉になまえは中々次を踏み出せずにいたが、自分を見て待つ立華の姿に先にエレベーターに乗り込んだ。それから立華が乗り込み、エレベーターは二人を外へ連れ出そうとその扉を閉ざす。
会社を出て直ぐに車が横付けされていることに気付く。あれが立華の言っていた車なのだろう、二人が建物から出てくるのを見ていた運転手はすぐに車から降りると後部座席のドアを開け、傘を取り出し、二人の元へと近づいて行った。さぁ、こちらへ。と短く告げられ、立華は男から開いた傘を受け取ると、義手である右腕でなまえの肩を抱き寄せる。
見上げた先の立華は視線をなまえへ寄越さぬまま、少しだけ我慢してください、とだけ告げた。その言葉選びに何故だか不意に寂しさを覚え、いいえ、喜んで。と返す。立華はそれが意外だったようで足を止め、正面だけを捉えていた目でなまえを見た。
時間が止まる、二人の間だけ、神室町に降り注ぐ雨は止まない。運転手の男に促されて二人は再び歩き始め、雨の中で待ち続けていた車の元へ。またもや優先されたのはなまえで、立華の為にも先に腰を落ち着け、次は自分の番だと立華から傘を預かった男は立華がなまえの隣に座るのを待ち、ドアを閉めた。
「社長、その、…どちらへ?」
「今日はみょうじさんをとても困らせてしまいました。ですから、そのお詫びを。」
「お詫び、ですか…?」
「ええ。今この車は神室町にある、とある場所へ向かっています。そこへみょうじさん、あなたを連れて行き…、」
そこで妙な間が生まれる。立華は三拍おき、なまえの何も知らぬ瞳に自らのそれを合わせていく。
「食事を、と考えています。」
この後の予定を無理に入れたのは私です、ですから、もし不都合があると言うのなら。淡々と続けた遠慮しいな言葉より、変な間を作ってまで口にした言葉の方が弱々しく自信なさげで、なまえは乱れない瞬きを繰り返す立華の瞳を見つめ返していた。
「どうでしょう、みょうじさん。改めて、私と一緒に食事へ行ってもらえますか。」
「……私はよく勘違いもしますし、スケジュールなんてものは常に穴だらけです。ですから、今更行けないなんてこと、ありません。」
それが社長となら、尚更。と緊張を忘れた舌先は饒舌になり過ぎたようだった。立華の表情が微かに驚きに変わる、なまえはその立華のピンと来ていない様子に緊張を恥じらいに書き換えられた。
「しゃ、社長…!あ、あの、これは、ですね……!」
「立華です。」
「え……?」
「…みょうじさん、私のことは立華で結構です。」
ぐっと縮められた距離感、立華は涼しい顔をしている。
「これは私個人とのプライベートな付き合いです。ですから、社長などではなく、親しく呼び合ってみたい。」
「……あの、本当に今日の社長、…立華さんはいつもと違って見えます。」
「そうでしょう、私もここまで人と近い距離になったのは尾田さん以来です。」
懐かしい日を思い返している立華の横顔は嬉しさが滲み、一人微笑む姿になまえは今日くらいは彼の我儘に、滅多にない我儘に寄り添っていたいと思った。あまりにも嬉しそうな顔をしてくれる立華の為に。
やがて車は昭和通り西の路肩に止まり、二人を降ろした。そのまま目的地に向かおうとする二人に運転手の男は同行すべきかどうかを尋ねたが、立華はその問いに首を横に振り、男は一度頷く。そして、また後ほど迎えにあがります、と車は二人から離れ、車から降りた二人も中道通りへと続く人混みに紛れていった。
なまえは密かに思う、立華の隣に立つだけで、隣を歩くだけでこんなにも風景は変わってしまうのだと。いつもの、なんてことの無い神室町のこの道を、まるで初めて歩くように、辺りに何度も目配りをしてしまう。立華の歩く道に何も障害物がないこと、少しだけ深い水溜まりがないこと、こちらへ無理に歩いてくる人がいないことを確認しながら。無事、何事も無いまま、しばらく歩いた所で立華は足を止めた、なまえも同様に足を止め、その先にあるものを見て更に驚く。
赤、白、緑の三色が配色されたテント看板には、喫茶アルプスと見慣れた文字が並ぶ。明かりのついた店内が大きな窓から見えるのだが、誰一人として来店している様子がなく、店の入口にも『本日貸切』と小さな看板が掛けられている。
「ここってアルプス、ですよね。立華さんはよくここに?」
「いいえ、今日が初めてです。」
予想していなかった返事に疑問符が浮かぶ。なまえはその言葉の意味をすぐには見つけられず、入りましょう、と立華に連れられ、人気のない店内へと二人は正面の扉を開けた。いらっしゃいませ、と制服を着こなした店員の声掛け、本日貸切と掲げられた看板、自分達以外の客が居ない店内。なまえは何度かアルプスで食事をしたことがある。けれど、今日訪れたこの店に馴染みという言葉はなく、あるのは妙な特別感だけだった。店員によって案内された席に腰掛け、差し出されるお冷のコップを手に取る。緊張から一口飲めば、不思議と気持ちは落ち着いた。
「みょうじさんなら、どの料理を食べますか。」
「私はここに来たら、ミートソースパスタを食べます。」
「ミートソースパスタですか、」
「ええ、ここのミートソースすごく美味しいんですよ。それにケーキセットもつけて、アイスティーと一緒に…、」
穏やかに笑む視線があった。こちらを楽しそうに見つめては静かに微笑む、暖かな目があった。
「どうしましたか、みょうじさん。」
「いえ、ただ、ちょっと、恥ずかしくなっちゃって、」
「恥ずかしく?それは何故でしょうか、」
「あの……、笑わないで聞いてくれます?」
「ええ、約束します。」
「……なんだか私、食いしん坊みたいじゃないですか。」
きょとんとした顔、その後に立華は小さく笑った。なまえは、わ、笑わないって言ったのに…!と内心取り乱しながらも立華の笑みを嫌だとは思わなかった。
「食に関心があるのはいいことです。そういう方との食事は一人でただ食べるだけのものとは違い、充実感を得られます。だから、私はみょうじさん、あなたをここへ連れてきたんです。」
それに実は尾田さんに聞いていました、みょうじさんはここの料理が好きだと。淡々としているが、立華のその思いやりが嬉しくて、なまえはテーブルに備え付けられているメニューを手に取ると、自分と立華が見やすいように横に広げて、一つ一つ料理について話し始めた。自分の好みだけじゃない、他にも美味しい料理や飲み物があるのだと、時には店員にも話を聞き、そのメニューの良さを教わりながら、二人は自分の食べたいものを探していく。
なまえは店員のおすすめであるビーフカレーに、ケーキセットを付け、アイスティーとティラミスという、初めてのものを。立華はなまえがよく頼むと言っていたミートソースパスタの同じセットを頼み、料理が運ばれてくるまでの間、二人は自由に過ごしていた。例えば、普段しないような他愛もない話をし、窓の外の流れる景色を見、互いに質問を投げ合う。距離を詰めたのは立華だけではない、なまえも意図せずゆっくりとその距離を縮めていた。料理が出来上がるまでのほんの僅かな時間の中で。
料理が運ばれて来たのは、なまえと立華がすっかり緊張を忘れて談笑していた頃。温かな湯気と共に食欲をそそる匂いが二人の鼻を擽り、今まで忘れていた空腹感を思い出させた。目の前に置かれた白い食器の中を爛々と輝く瞳が覗き込む。
「みょうじさんのも美味しそうですね、」
「立華さんのも。とても美味しいですから、きっと驚きますよ。」
「それは楽しみです。」
それじゃあ、いただきましょう。と立華の一声に、なまえは、いただきます、と両手を合わせた。立華も、いただきます、と添え、手元にあるフォークでミートソースと茹で上がった麺を馴染ませていく。なまえの一口は立華より早かった。そして、美味しいという嬉しい悲鳴も。そんななまえの反応につられ、立華も最初の一口を味わった。音を立てないように口に運ばれたミートソースパスタが、立華の表情を微かに柔らかいものへと変えてくれる。
美味しいかどうか、敢えて尋ねることはしなかった。それはお互いの顔を見れば分かるもので、なまえはこうして食事の場を設けてくれた立華に感謝し、立華も誰かと共に過ごす食事の時間を密かに喜んでいた。
神室町の夜は忙しない。けれど、この店内だけは穏やかでゆったりとした時間が流れている。店内の音楽も、決して豪華とは言えない内装も、忙しない風景の大きな窓も、なまえと立華がこの時間を特別なものだと思うのに充分過ぎる程だった。
「みょうじさん、」
「はい、なんでしょう。」
「私はみょうじさんがどれだけ私のことで勘違いしても構わないと思っています。ですから、」
また、あなたのことをお誘いしても?立華はまた目を細めて微笑み、こちらの様子を窺っている。なまえはこの立華の行動に、問い掛けにどう返すべきか知っていた。首を縦に振る、そして、是非また、と付け加える。次になまえが目にしたのは、自然と緩んだ立華の笑顔だった。
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