ネオンライトが暗闇を照らす神室町天下一通り、午後八時過ぎ。空白ばかりのカレンダーに赤い丸印と集金日というコメントを残したのは、ここの事務員である彼女だ。それをぼうっと眺めていたのは秋山駿。この雑居ビルに事務所を構えるスカイファイナンスの社長である。集金日、朝からその事で神室町を歩き回る羽目になった。体の、特に足回りの疲労に、今日も一日よく働きました、と自分を労い、事務員の彼女が帰ってから今までずっとソファーに体を預けていたのだが。

 不意に時計の針が進む音を意識する。何かの前触れのよう、しかし、秋山には一つ心当たりがあった。遠くから微かに聞こえてくるヒールの鳴る音に心当たりが確信に変わる。
 今日は集金日。もう一人の彼女はいつもその月の集金日になると、返済分の金を持ってスカイファイナンスへとやって来る。次第に大きくなっていく音に年甲斐もなく、胸を高鳴らせ、どんな顔をして彼女に会おうかと考えてしまうのだから、我ながら悩ましいものだ。いつまでも横になっていられないと、急いで体を起こし、ローテーブル上の吸殻が溜まった灰皿をゴミ箱の上で傾けた。ボロボロと崩れ落ちていく吸殻の山を見届け終えるよりも先に事務所の扉は開かれた。秋山お待ちかねの待ち人、来たる。

「こんばんは、秋山さん。」
「どうも。今日はいつもより早いですね。」
「今夜は雨が降るそうですから、自然と早足になってしまったのかもしれませんね。」
「……今、少し期待しちゃいましたよ。」
「それはどんな期待なんです?」

 言わせないでください、俺だって気にしたりするんですよ。と戯れるように返す。彼女は柔和に笑みを作り、くすくすと華奢な体を揺らし、小さく笑っていた。未だ立ちっぱなしの彼女に少しでも早く近付きたくて、立ち話もなんですから。と空席のソファーを勧める。ありがとうございます。と微かに笑みを口元に残したまま、彼女は腰を落ち着けた。ここでようやく秋山は手にしていた灰皿を元の位置へと戻す。

 女はみょうじなまえという、秋山から融資を受けた客の一人である。融資希望額は三億、秋山は膨大な額を要求するなまえにクリアが極めて困難なテストを課した。職種は問わず、一週間で五百万を稼ぐこと。秋山も彼女への融資は厳しいだろうと思っていた。しかし、結果は全く違ったものになった。彼女がどのようにしてその金を稼いで来たのかは未だ分からず、分厚く膨らんだ紙袋を手渡された時の衝撃を、秋山は今も忘れることが出来ない。

「えっと、それじゃあ、今月分いただけますか、」
「ええ、どうぞ。」

 なまえは秋山から借りた三億を毎月五百万ずつ返済し続けており、返済も秋山の集金日に合わせている。ゾッとする程に色の白い手から、五百万もの大金を受け取ると彼女の顔を盗み見た。こちらの視線に気付かず、気ままに自然と瞬きを繰り返す赤みの強い褐色の瞳、黒々として艶やかに青く光る黒檀の髪につい見蕩れてしまう。
 彼女は美しい形をした女だ。常日頃から見慣れている日常風景には到底馴染むことの出来ない、その美しさを恐ろしく思う時がある。迷子になっているなまえの目がこちらを向きそうだと知り、秋山は急いで目を逸らし、自分もソファーへと座った。そして、彼女から受け取った五百万がきっちりそのままの額であるかどうか、綺麗なままの帯封を千切り、その中身を一枚一枚数えていく。
 実は、この行為が無駄なことだと知っていた。彼女が持ってくる五百万の札束達は秋山から三億を借りた時のまま。所謂、新品未使用未開封の、最初からその金額が約束されているものだった。それでも秋山は慣れた指で何度も札束を数え続ける、こうすることで彼女との時間が少しでも多く、長く得られるなら、と。なまえもそれを承知の上で何も言わないのだとしたら、微かな期待に胸が揺さぶられる。彼女にとっても、この二人きりの時間が特別なものだとしたら、やはりそれはそれで嬉しいことだ。

 予め金額ぴったりであると確定された紙幣の束を数えていく内に頭は過去へと遡っていた。時間旅行の行先は彼女と初めて出会った日。その日も今日と同じ、遅い時間帯に彼女はここを訪れた。事務員の彼女ももう既に帰宅した後で、秋山一人が事務所で惰眠を貪っている時のことだ。寝ぼけ眼で見た、なまえのただならぬ雰囲気に、体が不本意にもシャキッとしたのを覚えている。どこか陰があり、闇に紛れて消えてしまいそうな、簡単には掴めそうにない、夜の彼女に胸元はざわつく。
 しかし、スカイファイナンスを訪れるということは、彼女もまた、人には言えない理由を抱え、金に縋り付くしかない地獄を生きる人なのだ。贔屓をするようで他の客には申し訳ないのだが、自分じゃ何も分からない彼女の事情を、背負っている責任を、抱えている問題を何とかしてやりたい。なんて、知る人ぞ知る秋山駿らしくない行動だろうか。



***


「なまえさん、教えてくれませんか。あなたがどうして三億もの大金を必要としているのか。」

 彼女はスカイファイナンス事務所の入口で足を止め、振り返っては静寂に佇んでいた。昨日、一昨日と一億の詰まったジュラルミンケースを持ち帰り、今夜で最後になるそれを手にしていたなまえは、後ろ髪を引かれている秋山の焦がれた目を見た。

「正直、俺には分からないんです。確かにあなたはテストをクリアしました。でも何故、三億もの大金が必要なんです?」
「どうしても言わなければいけませんか、」
「貧しさの欠片も病気を患っているようにも見えない、そんなあなたが大金を必要としているのには、もっと、こう、人には言えないような何かが関係してるんじゃないですか?」
「秋山さん、」
「こんなの俺らしくないって、よく分かってます。それでも、もし、あなたがなにか良くないことに巻き込まれてて、三億を必要としてるんだったら、」

「俺に手助けさせてもらえませんかね。困ってる女性に金貸すだけ貸してほっとく程、無責任な奴じゃないんですよ。」

 なまえは憂う唇を震わせて、秋山の知りたかったことを口にした。何故、三億が必要だったのか、自分がこれを使って何をしたかったのか、三億分の秘密は彼女の傍にいつでもあったことを。流れるように秋山との距離を詰めたなまえは、手にしていたジュラルミンケースを床に起き、秋山の片手を自分の口元へと寄せると、薄く開いた唇の隙間に指先を当てた。
 次第に開いていく口内に秘密は存在していた。一般的な犬歯よりも鋭く尖った牙のようなものが生えており、牙先を指の肉に食い込ませる。明らかに動揺していた秋山になまえは牙を引き、口元に憂いを残す。

「私は呪われた末裔です。定期的に人の血を摂取しなければ、寿命の全てを生きられない。」

 きっと聞いたことがある筈です、となまえの淡々とした声に連想されるのは一つ。彼女の正体は、西洋の物語に登場する怪物なのだと言う。太陽の光に弱く、人の血を吸うことで生き長らえる人ならざる存在。秋山は自分の耳を疑ってばかりで、なまえの話を信じられなかった。古ぼけた伝承が息絶えた現代において、そんな夢物語や童話のような空想の世界に生きる存在など嘘偽りだと、先程から驚きを隠せない。

「このお金が私の生命線です。これがなければ、わたしは、」
「……俺にも出来ること、あるじゃないですか。」

 切なく揺れる瞳を捉えて間もなく、秋山はなまえを優しく抱き締めた。理屈や常識、世論、この世に蔓延る何もかもが真実ではない。彼女は秋山の日常に存在していて、自分の生を全うしようとしている。そんな彼女をやはり放っておけなかった。衝動的な自分の行いに彼女さえも巻き添えにして、二人して床へと崩れていく。二人の膝が硬い床に触れた頃、その真意を知ったなまえは秋山の首元の髪を掻き分け、太く脈打つ血脈に口づけを一つ、そしてその歯牙で肉を深く突き破る。


***


 今、この瞬間をもって、手元の札束は全て揃っているということが証明された。退屈な時間は終わりを告げ、過去へと遡っていた意識も目の前の彼女へと定まっていく。初めから五百万である札束は何度確認をしようとも誤差すら見当たらない、きっちりと揃えられた額のままだった。
 秋山の視線となまえの視線が不意に重なる。借金の返済、それだけが今日の目的ではない。ローテーブルの上に大胆にも五百万の札束を置き去りにし、なまえは秋山の隣へと腰掛け、誘うような眼差しで男を刺す。
 爪先に引っ掛けていたハイヒールを床に転がし、色白の膝は距離を詰め、髪がしなやかに垂れ下がる瞬間に息を呑む。求血の指先が秋山の背中へと回されれば、なまえが寄りかかった重みで自然と体は後ろへ倒れていく。飢えた口元が堪えている、今か今かと吸血の時を待っている。構いませんよ、いつでも。その一声になまえは噛み慣れた首筋に顔を埋めた。

 まずは首筋を生暖かな舌先が這う。その舌先のなぞる動きに、よからぬものを感じながらも堪えようとしている自分はきっとよく出来た人間だ。これが求愛行動であったなら、歯止めは効かなかったかもしれないが。
 滑りの良くなった首筋へ、遂に牙先がゆっくりと沈められていく。今まで何度経験してもこの瞬間だけは未だ慣れず、緊張に高鳴る心臓を押さえ付けるように強く手を握り締める。気を紛らわそうと視線を泳がせた時だった、ぶつん、と何かが破れてしまった音が聞こえ、ぐ……ッ、と食いしばった歯の隙間から痛みに耐える声が漏れた。
 痛い。牙は皮膚を突き破り、肉を裂き、より深みへと沈む。生傷が熱を帯びる。どくどくと患部から熱くて赤いそれが溢れ出す。それを待っていたのだと、彼女の濡れた舌先が器用に喉の奥へと流し込んでいく。脈打つ程に痛む傷口を止血することなど出来ない秋山は、必死で、何かを手繰り寄せるような手付きで、彼女の背中に触れた。彼女の体は小さく跳ねたが、多少の接触には見向きもせず、甘美なる吸血の時を味わっている。手を払われないのをいいことに、今だけは許されるまま、なまえの体を力無く抱き締め、次第に霞みゆく視界を瞼で閉ざし、彼女の血を啜る音を、唇の動きを、生を実感していた。


***


「……ん、…山さん、秋山さん、」

 自分を呼ぶ声が聞こえ、手放した意識を取り返して返事をしようとしたのだが、それなりに血を抜かれている為に体の気怠さに勝てず、何も返してやれなかった。しかし、彼女の声が聞こえるという事は既に行為は終わっており、もうすぐ彼女との別れがやって来るのだろう。
 惜しい、もう少し後に目覚めていれば。彼女の揺り起こす声に気付かず、誰もいない事務所で一人目覚めていれば、彼女を呼び止めようとする欲に毒されなかった筈だ。内心、やっちゃったな。と別れの苦味を噛み締めていると、不意に胸元で散る吐息に意識を奪われる。密かに瞼を開け、自分の胸元を盗み見れば、なまえが自分の胸元に頬を寄せ、耳を当て、目を閉じていた。

「ありがとう。また会いに来ますから、……あなたに会いに。」

 彼女の祈るような、静かな声音に秋山は飛び起きた。行くな。と告げるように名を呼んだが、彼女の姿はもうどこにもなかった。事務所のどこにも、窓の外の天下一通りの人混みにも、事務所外の階段にも、彼女の姿は見つけられなかった。すっかり綺麗に消えてしまったなまえのあの独白は、自分だけの都合のいい幻聴だったのだろうか。


 夢を見ていた、いつもそんな気分だ。本当は彼女と言う人間は初めから存在しておらず、独り身の寂しい男が作り出した幻影だったのかもしれない。疲労の抜けない首周りをほぐそうと何気なく触れた時、ズキン、と痛む部位があった。恐る恐る指でそこへ触れれば、それは確かに存在していた。傷口は二つ、なまえが口付けを落としたところだ。
 夢であってほしい女々しさを抱えながら、窓の外を見た。今夜は雨が降る、と言っていたのに、未だ降りそうにない曇り空にため息を吐く。もし、雨が降っていたなら、彼女はここに留まってくれただろうか。もし、あの雨雲がきちんと仕事をしてくれたなら、別れの時間を先延ばしにしてくれただろうか。


 彼女の正体は時代に取り残された吸血鬼である。秋山は負の遺産である彼女を好いており、月一で訪れる集金日が憎らしくもあり、愛おしくもある。
 融資総額は三億、彼女はまだその全てを返済出来ていない。


| 吸血の唇 |


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