とあるマンションの一室から時折、水音が聞こえてくる。静寂の中で一度、押し寄せる波のように迫っては消えてしまう水の音に、先程帰宅した錦山は真っ直ぐに浴室へ向かう。仕事の気怠さを背に浴室のドアを開けば、そこには薄いエメラルドグリーンの水面に浸かっている女がいた。女は浴室を訪れた錦山に背を向けたままで、肝心の目線は浴室に設けられた窓ガラスへ向けられているようで、錦山は文句の一つも言わずに靴下を脱ぎ捨てると、彼女のいる浴槽の縁に腰掛けた。
「よぉ、折角帰ってきたってのに、出迎えもなしか?つれねぇなぁ、なまえさんよ。」
"おかえりなさい。最初はずっと待ってたけど、待ちくたびれちゃった。ごめんなさい。"
「そうだろうな、俺だってお前のことを考えて帰ってきた訳じゃねぇからな。」
"そうだと思った。あなた、酷い人だから。"
「よく言うぜ。お前もいい加減、その顔こっちに見せろ。躾がなってねぇ。」
浴室に響いているのは錦山の声だけだった。女の声はなく、それでも錦山には確かに聞こえていた。彼女の不思議な声が、自分にしか聞こえない不思議な声が。そして彼女が口を閉ざしているのには理由がある。彼女の声は呪いそのものなのだ。とても恐ろしい呪いだ、聞いた者の心を奪ってしまう恐ろしい災いだ。
彼女の声を聞き、心を奪われたが最後。許しが出るまで心は囚われ、縛り付けられ、傀儡のように弄ばれる。しかし、それを望んだのは彼女、なまえ自身ではない。彼女の血筋を辿った先にある、遠い過去の人。呪いを受け入れ、魔の者として海に君臨した恐ろしき怪物。
"ほら、これでいいでしょ。そんなにわたしの顔、見たいの?"
「美人の顔は何度拝んだって飽きねぇんだよ。」
"美人……?わたしは人じゃない、"
「似たようなもんだろ、それにほぼ人間じゃねぇか。」
"人間には、こんな大きなヒレもたくさんの鱗もない。"
「それでもおめぇはいい女だよ、」
変な人、と結んだままの口角をゆっくりと上げたなまえは錦山の腰掛ける浴槽の縁まで近寄ると、何も纏わぬ上半身を錦山の白いスーツの膝元に預けた。なまえがたっぷりと身に纏わせた水滴が白を濡らしていく。錦山は自分の膝が濡れていくのに対し、嫌な顔一つせず、なまえの顎を掴んでは持ち上げた。故意に重なる視線に瞬きを繰り返す。彼女の額や首筋、胸元に貼り付いた髪の束に人ならざる美を垣間見る。たった一瞬、その一瞬に、彼女を拾った日の時間をなぞっていた。
***
そこは酷く不愉快な見世物小屋。絶望で肥えた見世物達がこちらを鋭く睨み付ける悪趣味な美術館。自分の居場所は狭くて暗い檻の中だけ、そこで生活の全てを営む。量り売りの生、閉じ込められて未来のない生、お行儀良く、愛想良く、人生の一分一秒でさえも金を生み出す為の道具。美には拍手を、醜には野次を、甘い声で鳴きなさい、誘う目で見なさい、相手の心に踏み込みなさい、独占欲を煽りなさい。教えの全ては生きる為に、稼いだ金額が明日の生へと繋がる、そんな想像も絶する生き地獄の中で、錦山は切れた運命の糸を掴んだ。
その場所を訪れたのは、取引相手との付き合いだった。半ば強引ではあったが、今後の付き合いを考えれば顔を出しておくべきだと思い、男に連れられて見世物小屋へとやって来た。女は咽び泣き、嬌声で溢れ返る室内の空気に吐き気を催したのが正直なところであり、外の空気を吸おうと退室した際に彼女の垂らした糸を見つけたのだ。熱気冷めやらぬショーステージの設けられたフロアを出てすぐの質素な廊下から、どこからともなく水音が聞こえた。
千切れた糸を辿るように水音に導かれ、錦山はこの店の商品達の檻がぞんざいに並べられた部屋を見つける。辺りの檻は大抵が出払っているようで、その姿はない。しかし、それでもまだ聞こえる音を頼りに部屋の奥へと立ち入れば、部屋の最奥、暗闇の中に水槽が一つ。音はそこから響いている、ちゃぷちゃぷ、と水で遊んでいる音が。その中身を確かめようと、不用意に水槽に近付いた時だった。
鋭利な何かが錦山の瞳を刺す。歩み寄る足は止まり、呼吸もおざなりに、狼狽えた瞳は暗闇の中にある姿を捉えていた。ギラギラと光る鱗を携えた、下半身が魚のそれである何か。口には粗末な猿轡を噛まされ、まともに話すことなど困難である筈のそれは、人間の上半身をしている。目を疑った、確かに向こうのステージにも奇怪な姿形をしたものは居たが、ここまではっきりと人ではない何かを見たのは初めてだった。
たった一枚のガラス越し。水で満たされた水槽の中で揺蕩う姿は童話に現れるキャラクターのように、不思議で、奇妙で、非現実的に見えた。特に何をしようという訳ではなく、ただもう少し傍でその姿を見たい、その一心で錦山は水槽へと近付いていく。ゆらゆらと漂う髪は重力を感じさせず、その隙間からこちらを見つめている瞳に、警戒心を滲ませる彼女から目が離せなかった。
どこか似ている、この水槽に閉じ込められた彼女と自分は。彼女が立てる水音が妙に心地良い、次第に貪欲に触れてみたいと思うようになっていた。そして遂に足を止める、ガラス一枚隔てた先には二つの体があった。裏切り、裏切られ、人を信じることを信じられない人間の男と、惨めな生で繋がれた哀れな怪物の女。
"あなたは誰、どうしてこんな所にいるの?"
"なんであなたもそんな目でわたしを見るの、"
"わたしは見世物じゃない、早く出て行って……!"
脳裏に、鼓膜に響く声なき声に驚いていると、彼女は力いっぱいに水槽の内側からガラスを叩き始める。鋭利な視線は悲しみに沈む。何度もガラスに打ち付けられた手のひらは、叩く力が強過ぎるが故に赤みを帯びる。それを止めたかったわけじゃない、ただもがき苦しんでいる様が重なってしまっただけだ。失望したような、諦観のような眼差しが向けられた過去の自分に。錦山は女の行動に怯むことなく、懐から拳銃を取り出すとガラスに銃口をぴったりとくっ付け、躊躇わずに引き金を引いた。
たった一発、その一発に撃ち抜かれたガラスは弾痕から走るヒビに呆気なく崩れ、彼女を満たしていた水は辺りに溢れると、ガラス片も何もかもを巻き込んで流れて行く。女が自分で壊せなかった檻を壊し、女を捕らえていた世界から引き摺り出す。薄汚い床に打ち上げられた一匹の魚は一変した世界に驚き、何度も頻りに辺りを見回しては不安そうな瞳で錦山を見上げた。
「見世物じゃねぇんだろう?どうだよ、自由になった気分は、」
"……な、なんてことするの、"
「良かったじゃねぇか。これでもうアンタを閉じ込めるもんはねぇ、邪魔な水槽だってぶっ壊れちまったワケだ。」
水浸しの床を鰐皮で踏み締め、ガラス片を踏み潰しながら彼女の傍で屈むと、怯える口元に噛まされた猿轡を取り外し、跡のついた赤らむ頬を撫でた。
「綺麗だな、アンタ。」
人にはないギラつく鱗をゆっくりとなぞり、彼女の顔に掛かる髪を後ろへ逃がす。
"……なに、してるの、"
「うるせぇ、美人は美人らしくしてろってことだ。」
戸惑い、揺れる。錦山は女の変化する感情を気にも留めず、自身の着ていたスーツを一糸まとわぬ彼女の肌を隠すように羽織らせた。柔肌がスーツの白によって覆われ、女は錦山の瞳から何かを読み取ろうと必死になっている。その必死さに誘われ、錦山は微かに口の端を持ち上げた。
"……あなたが何を考えているか、さっぱりわからない。"
「馬鹿なこと言ってねぇで、今からでも俺に買ってもらえるように媚びでも何でも売れ。」
"買う……?あなたがわたしを……?"
「今は絶好の機会だろうな。ヤクザの男とワケありの女、よくある話だろうが。」
"……そう。それじゃあ、一つだけ。これが媚びかどうかはあなたが決めて。"
見下ろす視線を手繰り寄せ、撫で付けるように整えられた後頭部に手を這わせた後、女はその手をぐっと引き寄せた。軽く触れたのは唇、深く混ざり合ったのは舌先。あまり長すぎないキスに女は唇を濡らし、錦山は口をシャツの袖で拭う。
それで、どうするの、と訊ねた女の問いに錦山は、今度は自ら強引に息継ぎする唇を塞いだ。求め合うのでは物足りない、噛み付いて奪い取るような重なり。飢えた唇で交わしたキスがお互いを満たせば、見つめ合う静寂に一つ、新たな運命を見る。あの時に見た彼女の喜びに揺れる青い瞳の輝きを今も忘れられない。
***
"ねぇ。いつまでこうしてるの……?"
なまえの声に意識が過去から引き剥がされる。……ああ、となまえの顎を掴んだ手を下げ、しっとりと濡れてまとまった髪を指先に絡ませると、そっと耳に掛けていく。くすぐったそうに睫毛を上下させるなまえはどこか嬉しそうで、錦山は人知れず眉間の皺を浅くさせる。
「お前といると気が楽だ。心の拠り所だとか、信頼出来る相手なんてものを持っちゃいねぇ俺でも、な。」
"なら、もっとこっちに来て。わたしの傍に、"
白く伸ばされた腕は錦山のシャツを掴むと、浴槽の水面へと誘い、引き摺り込んだ。攫われるがままに錦山はなまえと共に浅い水面に体を濡らしていく。ずぶ濡れ。綺麗に整えられた髪型も、錦山お得意の白いスーツと黒いシャツも、極道としての威厳を貼り付けた顔も何もかも。肌にくっ付く衣服の煩わしさを忘れて、水面に横たわり、浮かぶなまえの胸元に顔を寄せる。水の音、怪物の鼓動、己の密やかなる呼吸、この浴室だけが二人にとっての安寧。
「このまま眠っちまいてぇ気分だ、なぁ、なまえ。」
"ここにはわたしがいるから、少しだけなら面倒見てあげる、"
「……一時間だけでいい、」
"わかった、それじゃあ目を閉じて。"
錦山は目を閉じると、すぐに聞こえて来た女の肉声に意識がぼやけていくのを感じていた。それは魔の囁き。心を溶かし、思考回路を全てゼロから繋ぎ直し、錦山彰という男を強制的に遠隔操作する。思考や感情の一切をシャットアウトし、なまえの命令通りに動く忠実な傀儡へと変化する。しかし、その怪物は呪いを呪いとして使用することはなかった。
毒薬変じて薬となる、なまえは呪いを祈りとして使うことを選んだのだ。相手の全てを支配すると言うのなら、彼の為に優しい使い方が出来る筈だと。こうして望まれれば、その声で彼の要望に応え続けて来た。
眠れない夜ばかりだと呟いていたのを覚えている。自分を拾い上げてくれた錦山が不意に漏らした弱音だった。それを初めて聞いた時、胸に込み上げてくる切なさに目を伏せていた。自分には語らずとも、あの両肩には重い何かがのしかかっていて、あの背中には運命が刻まれているのだと知り、なまえは錦山の為に何かを返したいと思うようになった。
穏やかな寝息、気の抜けた寝顔に優しさが面影のように滲み、自身に体を預けて眠る男の頬を何度も撫でた。疲れて眠る姿に遠く忘れ去られた錦山を思う。きっと気のいい、優しい人間だった筈だと。しかし、背中に刻まれた運命が彼を龍に変えようとしている、この鯉は龍門を登り、龍になろうとしているのだ。
「あなたには話したことがないけれど、わたしにもなりたいものがあるの。」
どんなに傷付こうと、どれだけその身の鱗が剥がれようとも、激流に消えてしまわぬよう、懸命に滝を掻き分けていく緋鯉。
「わたしも人間になりたい。」
この鱗やヒレが剥がれてしまっても構わない、わたしに人のような足があればいつでもその隣に居られる。わたしが人のようになれれば、あなたに呪いをかけずに済む。もっと寄り添いたい、もっと声を聞きたい、もっとずっと触れていたい。
「そして、あなたが龍になる時をこの目で、一番近くで見てみたい。」
この輝く鱗も、悠々と靡くヒレも、特別な声も、全て捧げる。だから、どうか、呪われた怪物に魔法をかけて欲しい。試しに一枚、指先で摘んで引っ張ってみると、痛みを伴わずにそれはぷちん、と剥がれた。照明のない浴室、神室町の夜景が広がるガラスにそれを透かす。ギラリと光る鱗の輝きは鈍い、なまえの中で何かが変わったような気がした。そんな気がしただけである、たった鱗一枚分、人間に近付いたような気がしたという、ただの錯覚である。
「童話のあの子が人間になれたんだもの、わたしだってきっと、」
───馬鹿、そりゃあ夢見過ぎだ。
聞こえる筈のない声になまえは急いで振り向き、錦山を見た。近付き、その顔を覗き込めば、静かに寝息を立て、閉ざされたままの瞼が開いた形跡もなく、そこにある。
「……あなたの夢は叶うといいね、」
おやすみなさい。と祈るような唇で額に口づけを落とす。摘んでいた鱗はどこかへ行った、それが運命なのだろう。愛おしげな眼差し降り注ぐ狭い浴槽で、女はただ男の寝顔を眺めていた。
鯉は龍へ、怪物は人間へ。生まれ変わりはこの先の未来に刻まれていない。
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