「冴島さん……!今日も来てくれたんですね、ありがとうございます。」
「おう。今日も元気そうやな。」

 目の前の彼女、なまえは目をキラキラと輝かせ、自分の住むアパートにやって来た冴島に笑みをこぼした。

 冴島がなまえの元を訪れるようになったのは、今から数日前のことだった。その時、冴島は知人であるドクター南田に神室劇場地下まで呼び出され、彼女について頼まれ事を引き受けた。期間としては一週間程度、なまえの様子を見に行って欲しいとのことで、その間、南田は各地に散らばった助手達の元へ出向く為、神室町を離れるそうだ。
 なまえは、南田のとある友人が残した一人娘で、神室町に住んでいることもあってか、何かと気にかけているらしい。面倒を見てやってくれ、とまでは言わない、ただ顔を見せに行ってやって欲しい、その言葉に冴島は首を縦に振った。南田には以前、少なからず世話になった覚えがあり、冴島も無下に断ったりはせず、顔を出すくらいなら、と南田の頼みを了承したのである。

「毎日、ここに来るのも大変じゃないですか?いいんですよ、ご無理なさらないで。」
「何言うとんねや、俺は無理してへんよ。」
「それじゃあ、本当に私に会いに?」
「……え、ああ、まあ、そやな、」
「ふふ、知ってますよ。南田さんにお願いされてるんでしょう?冴島さんったら、嘘が下手なんですから、」
「なまえ、人をからかうのもええ加減にせえ、」

 がしがし、と彼女の頭を少しばかり強く撫で回す。左右に体が揺れる様となまえの、ご、ごめんなさい。と言うくすぐったそうな声に満足すれば、乱れた髪を直そうと冴島の太い指が髪の隙間を通り抜けていく。
 なまえは人懐っこい女だった。初対面だった冴島とここまで親しげに打ち解けているのは、彼女が自ら進んで冴島に声をかけ続けたからだろう。素直で癖のない、なまえの性格に冴島も助けられていた。滅多に嫌な顔一つせず、なんでも興味津々に話を聞き、彼女の話も冴島を微かに笑わせるくらいには穏やかなものばかりだった。まだ数日しか経っていないが、なまえと顔を合わせる日々はとても居心地が良い。

「さ、上がってください。相変わらず狭い部屋ですけど、」
「おう、すまんな。邪魔するで。」

 玄関先に履き慣れたブーツを置き去りにし、冴島はリビングの床に腰を落ち着けると、キッチンで何かを探しているようななまえの背中を見た。まるで彼女との暮らしを疑似体験しているかのように錯覚してしまう。次第に視線は彼女の背中から辺りの風景へ。一人暮らしの生活感漂う、質素でどこか可愛らしさのある内装に、慣れない気恥ずかしさを感じていたが、それと同時に心を休ませている自分がいる。この部屋は冴島が日々の緊張を忘れられる場所でもあった。

「冴島さん。今日、晩ご飯うちで食べていきます?」
「そない気ぃつかんでええ。ま、でも、なまえがどうしても言うんなら……、」
「どうしても、です。やっぱり一人で食べるより、二人の方が寂しくないですから。」

 寂しい、そう言われてしまうと弱い。考えるよりも先に、ええよ、分かった。と勝手に言葉が出て行った。なまえは素直すぎるほど嬉しそうに顔を綻ばせた、そして冴島はあの笑顔にも弱い。今夜は何にしようかな、となまえの弾んだ声に照れ臭くなり、咳払いを一つ、深呼吸も一つ。すると、今度は悩ましげな声がキッチンから聞こえ、冴島はその声に釣られてなまえの隣に立った。場所は冷蔵庫前、なまえは困った顔をして、う〜ん、と悩み続けている。

「どないしたんや、」
「冴島さん、なんか思ってた以上に冷蔵庫の中すっからかんで……。」
「そんなら、買い出し行かなあかんな、」
「じゃあ、ちょっと今から出て来ます。冴島さんはここで待っててください。」
「ちょい待ち、働かざるもの食うべからずや。俺も行くで、荷物持ちくらいには役立つやろ。」
「でも……、いいんですか?」
「なまえの美味い飯が食えるんや、俺だけ部屋でのんびり待つなんてこと出来ひんやろ。」
「はい……!じゃあ、今すぐ支度しますね……!」

 そない慌てんでもええやろ。と言ったものの、彼女は手早く財布や家の鍵などを詰め込んだバッグを引っ張り出したり、外行き用の上着を引っ張ったりと大忙しだ。その間にも先に玄関に出向き、脱いで間もないブーツに足を入れていく。解けた靴紐をぎゅっと縛り終えると、準備を終えたなまえが後ろで待っており、冴島は腰を上げる。お洒落なサンダルやパンプスも今日は留守番役、履き慣れたスニーカーでなまえは冴島の隣に立つと、ここって二人でいると狭いですね、と困り顔でドアを開いた。

 外は晴天、気持ちのいい日差しの下をなまえ行きつけのスーパーを目指して歩いていく。そして、二人の話題は今晩のおかずについて。肉か魚か野菜か、米か麺かパンか、たくさん食べられるようにカレーやシチュー、なんなら二人だけでつつく鍋だってありかもしれない。思考と食欲が結び付きを強めていく、夕飯が今日の楽しみだなんて、少し子供じみているだろうか。

「冴島さんって苦手な食べ物とか、あります?」
「特にはないで。なまえは苦手なもん、あるんか?」
「私も大体のものは大丈夫です。ほら、折角冴島さんとお夕飯食べるんだったら、苦手なものとか入れたくなくて。」
「安心せえ、なまえの作ったもんならなんでも食うたる。」
「ふふ、分かりました。それじゃあ、今度は冴島さんの好きな食べ物教えてください。」

 こちらを見上げる目は楽しそうに揺れている。なまえも冴島が極道であることを知らない訳じゃない。それでも、自身の身分や正体なんて関係ないのだと言うように接する彼女の明るさに、あの南田が気にかけてしまうのも分かるような気がした。まるで曇りのない光のようだ、影の一つも感じさせない。しかし、南田から彼女に関するとある話を聞いていた冴島は、その明るさに南田の話を信じる気にはなれなかった。

 二人が家を出て数分経った頃、和やかな雰囲気の会話を遮るものが突如として現れる。それは不穏な雰囲気を醸し、嫌でも聞こえてくるその言葉は強くて乱暴、今にも相手から何かを毟り取ろうとしている、恐ろしい男の声だ。体が、心が萎縮する、弾んでいた会話も途切れ、なまえは不安そうな表情でそれを見ていた。壁を背に追い詰められている人物を取り囲むように三人の男が迫っている。目を伏せるなまえの頭を軽く撫で、ほな行ってくる、と言い残し、冴島はその男達に近付いて行った。


***


 冴島からここで待つように言われたなまえは、物陰から控え目に覗いていた。恐ろしいのだ、とても。例え、どんなに冴島が腕っぷしの強い男であったとしても、自ら危険に飛び込んでいく。しかも、それを躊躇わずにやってのけてしまうところが、余計になまえの心配を大きくする。
 彼の優しさによって救われる人はたくさん居るだろう、しかし、その優しさが裏目に出てしまったら?優しさが矛先を変え、彼を傷付ける何かになってしまったら?そうならないことを祈るしか出来ない、暴力を目の当たりにしてしまうと不安に押し潰されそうになる。なまえの心配とは他所に、冴島は自身に立ち向かう男達をなぎ倒していく。しかし、その心配は加速することになる、なまえの耳が拾った不穏な囁きによって。

「ああ、今すぐこっちに来てくれ、馬鹿強えヤツがいんだよ……!ああ、ああ、大人数で頼むぜ、じゃあな……、」

 男はなまえに気付いていないようで、時折冴島のことを目で追い掛けては舌打ちを挟む。なまえも急いで目を逸らし、どうしよう、と苦悩する心の声に居ても立ってもいられない。自分に何が出来る?困っている誰かのために飛び込んで行った冴島の為に、何が出来るのだろう。答えはまだ見つけられない、けれど、このままではいけないと言うことだけは痛いほど分かっていた。

 それから、冴島は順調に一人一人をねじ伏せていき、乱闘騒ぎが落ち着いた頃には、周りの男達全てを綺麗に片付けてしまった。助けられた男性は冴島に何度も頭を下げているようで、その顔は安堵の表情を浮かべている。男性が去った直後、なまえは急いで冴島に駆け寄り、先程の出来事を伝えた。すると、そうか、とだけ答え、その場から離れようとした時だった。遠い路上で、アイツだ!と荒々しい声が聞こえ、振り返るとそこには金属バットやナイフといった凶器を持った集団がこちらへと向かって来る。

「さ、冴島さん……、」
「俺のことはええ、なまえは先に遠くへ逃げるんや。」
「で、でも、あの人達、金属バットとか持ってますよ……?!」
「こう言うのには慣れとる。せやけどなまえ、お前に傷一つでも付いてもうたら困んねん。南田にどやされるのは勘弁やからな、」

 せやから、はよ行き。と強く背中を押され、なまえは冴島を納得させられるだけの言葉も、あの集団をやり過ごす為の作戦も、冴島さえも断れないほどに強気な我儘も言い出せなかった。無事を祈るように駆け出す、たまに振り返り、遠くなる冴島の背中を見る。本当ならこのまま言われた通りに真っ直ぐ道を駆け抜け、逃げていかなければならなかった。
 足が止まったのは故意だった。足を自ら止めたのだ。恐る恐る背後を振り返れば、大人数と凶器を持った相手に苦戦している冴島の姿があった。上手く攻撃をいなしたり、躱したりしているが、状況的にはとても厳しく、たまに不意を突かれて被弾してしまい、痛みに顔を歪めていた。

 考えてる暇なんてないんじゃないか、と呟く心に体は自然と動き、暴力と恐怖の元へ歩み寄る。必死だった、自分でも気が付かないほどに。どうすればいい?ではなく、どうしなければいけないのか。思いは考えるよりも早く、なまえに決断、そして行動をさせた。本来ならば出来るはずのないことを、誰もが予想しなかったことを、冴島の危機を救うべく、なまえは自身しか知らない秘密を明かすことを選んだ。


 それは降り注ぐ矢のように冴島を取り囲む男達へ襲いかかる。ビール瓶や一斗缶、マンホールの蓋、置看板、青いポリバケツに小型自転車、更には三角コーンから何まで。上手くコントロールされているのか、たまたま冴島に当たらないのか分からないが、その障害物の雨に巻き込まれて潰された男達の苦しみ喘ぐ声が響き始める。

「それ以上、冴島さんに近付かないでください……!」

 唖然と驚愕、そして恐れる視線が集中する。それはなまえが最も苦手とするもので、そう言ったものから逃れる為に隠していたのがこの秘密である。

「つ、次は……!もっと、重たいものを投げます……!」

 なまえを見る目の中には冴島を襲う男達の目、この騒ぎを聞き付けて集まって来た人の目、そして驚きを隠せずにいる冴島の目があった。震えるほどに人の目は恐ろしい、けれど、自分に良くしてくれた人が傷付けられる方がより恐ろしい。なまえが近くにあった大型バイクのハンドルを掴み、持ち上げたところで、命の危機を感じた男達は一斉に散って行った。
 初めて遭遇した暴力の恐ろしさに息を切らしていた。想像以上に大きな声を出したのだと痛む喉、ぶるぶると震えている自分の手のひら、うっすらと赤らんだのは古い傷跡、自分が手当り次第に投げて変形もしくは破損してしまった障害物の無惨な姿、冴島の無事より自分の体の異変に戸惑ってしまい、前を見れない。

「……なまえ、」
「さ、冴島さん……、」

 冴島の自分を呼ぶ声になまえは無意識の内に腕を抱えた。俯いた顔を上げることが出来なかった、心が凍り付いていく。冴島が次を言い出そうとしたタイミングで、なまえは、……ごめんなさい、と言い残し、冴島を置き去りにしてその場から逃げ出した。
 逃げ出さずにはいられなかった、仕方がないとは言え、あんな、あんな姿を見せてしまったのだ。あの人の口から聞きたくない言葉がある、これまで積み上げてきたものが崩れてしまうと分かっていたからだ。自分の親代わりの人が言っていた、その力は優しさの為に使いなさい、と。さっきの自分は、さっきの行為は優しさの為だったのだろうか。泣き出してしまう前にどこでもいい、この体一つ隠せる場所へ行かなければ、となまえはデタラメに神室町の道を駆けていく。


***


 散々神室町を駆け回った挙句、なまえが隠れ場所として選んだのは自宅だった。この家の鍵を持っているのは自分で、冴島もきっとまだ神室町のどこかを探していることだろう。これから先、どんな顔をして会えばいいのだろう、もしかしたら今日が彼に会える最後の日だったのかもしれない。視界はこぼれる、何度も瞬きの度に一粒、二粒と潤んだ瞳から溢れて落ちた。

「よう、遅かったやないか。」

 帰宅を待っていた声になまえはまた一つ、視界の上澄みをこぼした。異変を感じたのは、自宅のドアノブを回してすぐ。鍵をかけた筈のドアノブが簡単に回る、寧ろノブを回さずともドアが開く。明らかに壊れているドアを開けた先に見慣れた住人が一人、玄関先に腰を下ろしていた。

「なんで、っちゅう顔しとるな。答えは簡単や、ここで晩飯食ってく約束やからな。」

 未だまともな言葉を発することが出来ない。狼狽えた唇は開くでもなく、噤むでもなく、ただ最低限の言葉を舌先で練っていた。それでも言い出せないなまえの姿を見た冴島は立ち上がると、座れるとこまで行こか。とその怯えてばかりの手を取り、台所にあるダイニングテーブルに収まっているイスを一つ後ろに引き、なまえをそこに座らせた。
 なまえはイスに、冴島はなまえの足元近くの床に座る。なんで、どうして、本当はなにを考えているの、変わらない優しい視線の理由を教えてほしい、近付かないで、危ない、見たくない。たくさんの感情が胸の奥底から湧き出ては、なまえの押し黙った唇をこじ開けようとしている。いつまでも沈黙していてはいけない、と告げているのだ。

「……その、気持ち悪くないんですか、」
「何がや、」
「……私のこと、です。冴島さんも見たでしょう、わたしが、」
「おう、アレか。ええ腕やったで、綺麗にアイツらに命中しとった。」
「そうじゃなくて……!」
「俺はそないな風に思うたりせんよ、」

 いつの間にか強く握り締め過ぎていた手を冴島の大きな手に攫われる。指の一つ一つを優しくほぐし、開いた指先をそっと握ってはなまえの怯える瞳を見つめ返した。

「なまえに助けてもらわな、俺はあそこで死んでたかもしれん。つまりは命の恩人やな。せやのに、なんで俺がなまえを気味悪いなんぞ言えんねや。」

 強面である冴島の顔が不器用に柔らかく微笑む。冴島は本当は知っていた、なまえの秘密を。それは南田から予め聞かされていたことだった。彼女の腕には、とてつもない怪力が秘められており、その理由が彼女の体に走る縫い目にあるのだとも。

 彼女は幼い頃、大きな事故に見舞われた。乗用車との衝突、その事故で彼女は体の至る所に切り傷を負い、跳ねられた衝撃で頭部を強く打ち付け、三週間ほど意識を失っていた時期がある。
 それに大きく関わっていたのが、南田の友人であった。切り裂かれた皮膚を一つ一つ丁寧に縫合し、痕が目立たない綺麗な体を。災難にもその事故で失ってしまった両親の代わりに、自分が彼女の親になることを。術後に意識を取り戻し、元の生活に一刻も早く戻れるように一緒に寄り添うことを。密かに起きた彼女の体の異変に気付き、不本意にも宿ってしまった力との付き合い方を。失い、変わり果てた彼女に全てを与えたのは、その友人だったのだ。

「長いこと生きとるとな、普通じゃありえんようなことが自分の目の前で起きる。」

 怯えが剥がれかかった無垢な瞳が冴島を見た。

「なまえも嘘や思うかもしれへんが、俺は河童を見かけたことがある。山の神や言うて空中に浮くオッサンともやり合うたこともある。自分のじいさんが残したものの為に岩壁を削っとるオッサンと一緒に岩を砕き続けたこともある。」

「……どや、こんだけ常人離れした人間と会うとるとな、なまえがどんだけ重いもん持てても、他のヤツらと変わっとっても、俺はそれを気味悪いなんぞ、思えへんよ。」

 むしろ、なまえは可愛い方や。ちゃうか?と笑いかけてくれる冴島に、なまえは助けられていた。秘密を暴露してしまった心のやり場を知らなかったなまえにとって、冴島のその言葉が唯一の救いであり、自分らしさを見つけられた瞬間でもあった。

「ありがとう、ございます。冴島さん。」

 すっかり赤くなってしまった目で、まだ潤みの残る目で、なまえは精一杯の笑顔を返した。笑顔に添えられた涙を指先が攫う。なまえは声を上げて笑い出す、冴島はええ顔や、と内心こそばゆい気持ちで濡れた笑顔を見つめている。くすくす、けらけら、と無邪気に、はしゃぐような声が二人の耳に弾む。でも、どうしよう。と続けたなまえに冴島は、一体何に悩んでいるのかを問えば、その返事に再びいつもの日常が戻ってきたのだと実感する。

「……今日の晩ご飯。お買い物行きそびれちゃったから。」
「なんや、そないなことか。せやったら、出前でもとったらええ。」
「じゃあ、私おいしいお寿司食べたいです。あ、でも丼ものもいいですよね……。冴島さんは何にします?」
「俺はなんでもええよ。なまえの好きなもんにしよや。」

 うん、と頷いたなまえに最後の涙を拭うと、何時間かぶりにその頭を撫でた。


| 縫い目の秘密 |


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