男に跨り、こちらを妖しく見下ろす女のふくよかな胸は今にもこぼれてしまいそうだ。女は馬乗りになると、白く肉付きのいい太ももで脇腹をやんわりと締め付ける。女に迫られている、ほぼ裸のような格好をした女に。何故こんなことになっているのか。女に組み敷かれている男、品田には心当たりがまるでなかった。
「ね、ねぇ、ひとつ聞いてもいいかな、」
「なぁに、」
「ああ、ええっと……。どうして俺は女の子に押し倒されてるのかなぁ、って、」
「簡単に言うと、あなたとそういうことがしたいから。」
「でも、それって突然だし、ちょっと無理矢理過ぎない……?」
もしかして、私じゃダメ?と綺麗な顔を悲しそうに歪ませた女に品田は全力で頭を横に振り、違う違う、そうじゃなくて……!と女が傷付いてしまわぬようにと声を大きくする。不安に陰る表情、目尻に微かなきらめきを見つけた所で、女を自分の上から下ろす。そして、粗末な畳の上に座らせると、品田は体を起こし、女の背中をとんとんと優しく叩いた。
「俺みたいな男って、そういうの対象外だと思ってたから、君みたいな可愛い子に迫られる理由が分からなくてさ、」
「可愛い……?私が……?」
「うん、めちゃくちゃ可愛いじゃない!このウエストのくびれだって綺麗だし、太ももで挟んでたのも柔らかくて気持ちいいし……!」
「……そう、ありがと。」
妖しげな雰囲気を塗り替えてしまうほど、柔和な笑みだった。目は丸く細まり、口角が上がって唇から覗く白い歯、そして照れ臭そうに逸らされる大きな黒い瞳に、品田は勝手に見蕩れていた。
「その笑顔、いいねぇ〜!本当に嬉しいってのが伝わってくる、いい表情だよ〜!」
「……ふふ、変なの。そう言ってくれる割には襲ってきてくれないし、」
「そりゃあそうだよ。女の子に迫られたら嬉しくなる気持ちもあるけど、そこで無理矢理襲うなんてこと、俺は絶対しないよ。」
そうなんだ、と女は残念そうに目を閉じ、今夜は失敗かな、と小さく呟いた。すぐに薄れた笑顔の理由を知りたくて、品田はそれとなく問い掛けてみた。……聞いてくれる?と女は曇りがちな瞳で品田の瞳の奥と通じ合う。
「あ、ちょっと待って…!きみの名前、まだ聞いてなかったよね?」
「えっと、その、わたし……、」
「……じゃあ、なまえちゃんにしよう。」
「え……?」
「自分の名前を言えない子、たくさん知ってるからさ。お姉さんもそうなんでしょ?だから、今だけなまえちゃん。どう?結構可愛いと思うんだけど、」
うん、可愛いね。ありがとう、と喜んでいる彼女の笑顔は人懐っこく、やはり魅力的だった。一々どきっとしてしまう自分が子どもっぽくて恥ずかしくなる。しかし、何故そんなにも笑顔が眩しい彼女が夜な夜な他人の寝床に上がり、このようなことをしているのだろうか。品田は疑問に思う。
「最初から、ここに来ることになってて。そして、いつもみたいにセックスをして、それで帰るつもりだったの。」
「やっぱりなまえちゃんも、そういうお仕事をしてるんだね。」
「……仕事?ま、まあ、確かに仕事みたいなところもあるけど、これは私が好きでやってることだから、」
「うんうん、いいじゃない。どんな仕事だって立派なことには変わらないし、そうやって胸張って頑張ってる女の子、俺は好きだなぁ。」
「……えっと、ありがとう。なんか嬉しい。」
「でも、おかしいなぁ。俺、今日なまえちゃんの店に電話した覚えないんだよねぇ、」
わたしの店?と目をぱちくりさせたなまえを置き去りに、品田は今日あった出来事を思い出している。空腹で目が覚めるいつもの朝を迎えて、日々のトレーニングをこなし、財布の中身と相談しながら、物足りない昼を過ごした。それから……、と一日を振り返っても品田はなまえの属する店に電話を掛けた覚えがない。彼女が行く宛を間違えたのか、自分がすっかり忘れてしまっているのか。答えさえも行方不明だった。
「……ちなみにさ、本当に俺がきみを指名したのかな?」
「ううん。でも、私はここに来なきゃいけなかったから。」
「ってことは、店長のおまかせで?でも、初めての客にこんないい子付けるかな……。いや、それで常連になってくれれば、店としては全然あり……?」
「ねぇ、そんな難しい話はやめて、」
何か言いたそうな顔をしていた。しかし、なまえはその言葉を飲み込み、わたしとおしゃべりしましょ。と違う言葉を吐いた。それを拒む理由はなく、品田は一度頷いて布団を出た。そして、自分より肌寒そうな彼女へと畳に寝ていたジャケットを手に取り、なまえに羽織らせる。気休めかもしれないけど、ないよりマシだから。と申し訳ない笑顔で再び布団へ腰を下ろす。
「寒くない?大丈夫?」
「大丈夫。ありがと。」
「もし、もし良ければだけど、こっちに来る?……あ! でも、絶対に変なことしないから!そこは安心して!」
「いいよ。変なことしても。」
「ダメだよ!……したい気持ちはあるけど、ダメ!その、恥ずかしい話、今手持ちがなくて、さ……。」
「手持ち?」
「そう、なまえちゃんに払ってあげられるお金がないんだ。だから、本当はここでおしゃべりしてるのも店側には失礼な話でさ、」
ごめんね、今日の相手がこんなんで。折角、来てくれたのに。と沈んだ表情で、たったそれだけを口にした。例え、身に覚えのないことであっても、自分の元へやって来た彼女にそれを告げなければならない自分が情けない。神妙な顔をした彼女は何を思ったのか、四つん這いになり、品田の鼻の先まで距離を詰めてきた。さらりと垂れた髪を耳に掛け、ジャケットの裾や袖を揺らしたまま、目の前に来た彼女は瞳の奥を覗く。無言で射抜くようにこちらを真っ直ぐに見つめていた。戸惑う瞳は瞬きで忙しない、射抜く瞳は何かを確かめている。
その意図が分からない品田の視界を奪ったのは、なまえだった。戸惑っていた筈の瞳もいつの間にか閉ざされ、一方的に与えられた彼女の感触や匂いを受け止めている。口内では舌が絡まり合い、静寂なる夜の部屋には男女の音が響く。自然と接触が途切れるまで、二人は二人を拒まなかった。濡れた唇を隠すのは品田、濡れた唇を舐め取るのはなまえ。
「な、なんで、こんなこと……、ダメだって言ったのに、」
「寂しそうな顔してたから、しちゃった。」
「しちゃった、じゃないよ……。さっき話したでしょ、俺にそんな金ないって……、」
「じゃあ、見なかったことにして。知らんぷり、それもダメ……?」
だ、ダメじゃないけど……、でも……。と歯切れの悪い品田の頬を細い指先が撫でる。お願い。なまえにそう囁かれると不思議なもので、それでも良いような、そんな気にさせられた。ね?となまえが眉を下げて悲しそうな表情をすれば、品田は首を縦に振った。
「ありがとう、我儘聞いてくれて。お兄さんってやっぱり優しいね。」
「そっか、まだ教えてなかったんだっけ。俺は品田。下の名前は辰雄で、女の子からはよく辰っちゃん、なんて呼ばれてる。」
「じゃあ、辰っちゃん。隣、行ってもいい?」
もちろん、なまえちゃんなら大歓迎。となまえが座れるようにスペースを空ければ、薄着な女の体がそこに収まった。先程のキスよりも、こうして真隣に座っていることの方が照れ臭くて、部屋の空気がぎこちない雰囲気へと変わる。
「ねぇ、耳貸して。」
品田はなまえに言われるがまま、耳を傾けた。彼女がこんな静かな部屋の、何を気にして、そう言ったのか。興味本位で素直にそれを差し出せば、密やかな声で、まずは笑い声が一つ。そして、最後に品田の体に起きた異変を一つ唱えた。
心臓が止まるほどの衝撃と羞恥心が品田を襲う。彼女が、なまえがその愛らしい唇で紡いだのは、ちょっと勃ってるよ。の一言だった。恥じらいは品田に掛け布団を取らせ、その身に布団を纏わせる。恥ずかしい。当然だ、目の前の異性に、そんなことを言われるなんて思ってもみなかったのだから。
しかし、それを発したなまえはケロッとした顔をしていて、対称的に品田は顔を真っ赤にして俯いている。夜の仕事に慣れているとは言え、指摘ではないが口に出されるとやはり恥ずかしくなってしまう。
「照れちゃって可愛い、」
「やめてよ、俺からしたらすっごく恥ずかしいんだから……!」
「ごめんごめん。ね、こっち見て。」
甘えるような声に誘われ、品田は隣で微笑むなまえを見た。肩に掛けられっぱなしのジャケットに身を包んで、居心地の良さそうに布団の上に馴染んでいる彼女を。
ひょんな出会いだった。彼女の本当の名前は知らないが、今夜だけはなまえという名の登場人物でいてくれる。たった一夜の出会いを、このひと時を忘れぬよう、品田は彼女がいる風景を目に、記憶に焼き付けていた。しかし、その時間に終わりが来たかのように、なまえは口を開く。
「辰っちゃん、ありがとう。今日はすっごく楽しかった。わたし、ここに来てよかったと思ってる。」
「なんでまたいきなり、」
「本当ならセックスまでしたかったけど、でも、それ以外に色々ともらっちゃったから。」
「色々って?」
「内緒。それじゃあ、また。」
なまえは柔らかな笑顔で品田の頬に唇を寄せた。最後の言葉に品田は別れを悟っていた。返事で、またね、と言い掛けて飲み込んだ。今、去り行く彼女に言うべき言葉はこれではない。
「今度……!取材しに行くから!だから、この番号にかけて!そしたら俺絶対、なまえちゃんに会いに行くから……!」
体は自然と動いていた。床に放り出されていた手帳をわざわざ拾いに行き、ページの端を破り取って備え付けのボールペンを走らせる。その紙切れをまだ布団の上にいるなまえに押し付けると、なまえはそれを大切そうに眺めて、次にこう言い放った。
「今夜は本当にありがとう。辰っちゃん、次は待ってるからね。」
その声を聞き終えた後、突然視界は暗転し、何が起きたか理解出来ずに意識は途切れ、品田はその場に力なく倒れ込んだ。
***
眠りから弾き出されたような目覚めだった。いつも通りの慌ただしく、空腹切ない目覚め。夢心地が余韻として響いている。目覚めの朝、相変わらず散らかった部屋に人の気配はない。今まで人が居たという形跡も。夢、だったかな、と体を起こせば、ぱさりと膝に落ちるものがあった。音の先にあったのは自分の愛用しているジャケットだ。
「あれ……?俺、布団被って寝てたんじゃなかったっけ、」
まあ、いいや、とジャケットに腕を通した瞬間だった。どこかで嗅いだことのある柔らかな匂いがした。夢の中で出会った彼女の纏う匂いによく似ている。まさか、と思い、自分の手帳を探した。置き場所はテーブルの上、近くには芯が出たままのボールペンがあり、その手帳の見開きのページ右端を見た。乱雑に破り取られた箇所がある。
「夢、じゃなかったってこと……?」
何かを求めるように指先が自分の唇に触れた。すると、夢で見たキスの記憶が甦る。吐息の熱く、お互いを遠慮なしに濡らす、そんなキスを思い出し、ぼんやりと彼女を想う。やっぱり最後までしてもらった方が良かったかなぁ……、と今更下心を丸出しにして呟けば、少しだけ前向きになれた。
もう跡形もない君、またこの街のどこかで会える日は来るだろうか。次会う時が来たなら、その時はめいっぱい君の仕事に貢献しようと決めた。
品田辰雄がなまえと名付けた女と出会って数週間が経った頃、勤務先である編集社に一本の電話が掛かってきた。それは品田に体験取材をしてもらいたいという依頼の電話で、珍しいこともあるもんだと仕事仲間の殆どが驚いていた。ちなみにどこの誰かを聞けば、品田は彼女との再会を確信する。
最近出来たばかりのデリバリーヘルス『Lady Succubus』。そこで一番おすすめの女の子と聞けば、不意に柔らかな匂いが鼻先を掠めた。次は待ってるからね、と綺麗な笑顔で紡いだ彼女が恋しくなる。勿論、今回の取材も経費で落ちますよね?!と編集長に詰め寄れば、お前はそろそろ遠慮を覚えろ!と怒号が降ってきた。
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