午後十時を過ぎた東京神室町。未だ人足とネオンは衰えず、それぞれの夜を謳歌している。谷村は疲労とちょっとした眠気を引き連れながら、夜の神室町をさまよっていた。本来ならば、警官にとって欠かせない業務である警ら中である。と言いたいところなのだが、この谷村、今さっきまで雀荘に引きこもっており、他者から散々金を巻き上げてきたところである。だからこそ、今谷村が行っているのは警ら中と言うより、夜にする散歩そのものだった。ふらっと気軽でいて、身軽な足取りが騒々しい神室町を淡々と行く。
面倒さ六割、気だるさ四割を友にした谷村は、ただ神室町に伸びる道を歩いていた。さっき右曲がったから、次は真っ直ぐ。その次は左に、いや、どうする、このまま亜細亜街で時間でも潰すか?それとも。頭の中では如何に上手い時間潰し、その場しのぎをしようかと饒舌に喋り始める。流れていく景色のほんの一瞬、谷村は無意識にもそれを視界に捉え、その場で足を止めた。
「ったく、なんでこういう時ばっかり、警官らしさってもんが出ちまうのかねぇ……、」
見掛けたのは薄暗い路地裏で佇む人影。時間が時間であるのと、何よりその人影は女性の形をしている。このまま放っておいたら、何か事件に巻き込まれるかもしれないと、実際に起こりうる出来事への危険予知を一通り終えた谷村は自身の面倒さを押し殺し、その人影へと近付いて行った。
「ちょっとお姉さん、こんな時間にこんなところで何やってんの。」
余程、この声に驚いたのか、だだっ広く薄暗い路地裏壁沿いに佇んでいた女は大袈裟に驚いていた。きゃあっ!!と女性らしい小さな悲鳴を上げて、こちらを振り向く。その顔には僅かばかりの恐怖が残っており、谷村は面倒さを滲ませた溜息を一つ。
「あ、あの、あなたは、だ、誰……?ですか……?」
「誰ってあのねぇ……、」
やれやれ、と言いたそうになる口を噤み、谷村はジャケットの胸ポケットから警察手帳を取り出し、それを縦に開いて見せた。女はようやく目の前の人物が怪しい人間ではないと知ると、あからさまに胸を撫で下ろしていた。
「ま、俺が神室署の警官って分かったところで、この後何が待ってるか分かりますよね?」
「……あ、あの、助けてください…!」
「え?」
「私、今とても困ってて……、お兄さんは警察の人なんですよね?それじゃあ、この街にも詳しいんですよね……?」
「ちょっ、ちょっと待った。なに、お姉さん今トラブルにでも巻き込まれてんの?」
「実は、ずっと迷ってるみたいで帰れないんです……。」
「それこそ、なんでもっと早く交番に行かない?そういう困った時の為に交番があるんだけど。」
ごめんなさい。その交番の場所も見つけられなくて、と表情を沈ませる女に内心驚きを隠せない。確かに、この神室町という街は激しい店舗の入れ替えが行われる場所だ。昔の記憶を頼りにこの街を訪れてもそれが通用しないなんてことは普通にある。しかし、そこまで街の変化は活発的では無い。昔からある通りは未だ健在なものも多く、街の構造自体あまり大きな変化は起きていない。
「お巡りさん。お願いです、助けてもらえませんか?」
一般市民に懇願されてしまうと弱い部分がある。例え神室町のダニと呼ばれていても、困っている誰かがいるなら手を差し伸べたいと思う気持ちは、他の警官も谷村も全く同じなのだ。
「……仕方ない。たまにはお巡りさんらしい仕事でもして、点数稼ぎしとかないとな。」
お姉さん、アンタ名前は?と声を掛ければ、女は、みょうじなまえです、と名乗った。谷村も改めて名を名乗り、ここに居ても時間の無駄だとなまえを路地裏から連れ出し、彼女に事情を聞きながら、とりあえず歩いていく。
「本当にありがとうございます。」
「……これも仕事ですから。」
「谷村さんに声を掛けてもらえなかったら、きっと私まだあそこから出られなかったと思います。」
「まぁ、困ってるヤツがいたら助けろって散々教わってきたんでね。ただアンタもその一人だったってわけで。」
「谷村さんは分け隔てなく助けてくれるんですね。こんな、得体の知れない私でも。」
なまえの突拍子もない発言に、はぁ?と自然に聞き返していた。
「あのね、お姉さん。俺も暇で付き合ってやってる訳じゃないの、変なこと言ってると交番連れてって職質かけるけど。」
「ええ……?!あ、いや、えと、そう言うつもりじゃ……!」
「じゃあ、警官相手に冗談なんて滅多に言わない方がいいよ。」
「で、でも、冗談とかじゃなくて……!」
「はい、じゃあ今から交番直行コースね。」
そ、それだけはなんとか……!と焦るなまえの表情を見た谷村は反省の色を確認し、さっきのは聞かなかったことにするけど、またおかしなこと言うようなら、と釘を刺したところで本題へと戻る。
「そういや、お姉さんはどうして神室町に?女性一人で来るには危ない街でしょ、ここは。」
「遊びに来てたんです。本当なら色んな所へ行って、洋服を見たり、美味しいお店のご飯を食べたりしたかったんですけど。……出来ませんでした。」
「まあ、今日のところは仕方ないとして、今度は明るい時間帯に来た方がいい。それなら今より危険も少ないだろうから。」
ええ、また今度。と道の先に広がる闇を見つめて、なまえは呟く。その横顔の翳りが悲しそうだと思えば、今からでも行けるところはないだろうか、と考える自分がいた。いや、出来ることなら、このまま駅か近くのバス停まで送った方がいい。なんなら、タクシー乗り場でもいい。いつもならそうする筈だ。それなのに何故だろうか、残念そうな顔するなまえに心が靡いている。少しでも楽しかったと口に出来るような、何かそういったものが一つあれば良いと。
「本当はさ、俺、サボってたんだよ。」
「サボってた……?お仕事を、ですか?」
「そう。ついさっきまで、雀荘で休憩してたってのが正直な話。そんで、俺の懐もそこそこにはあったかいわけ。」
「えっと、つまり……?」
「近場でいいなら、どこか連れてってやるよ。折角、神室町に来たんだ。少しは楽しい思いしていった方が良いだろ。」
だから、もし他の警官に見つかったら、俺のこと良く言ってくれよ。とあからさまな保険をかければ、何かを察したなまえは笑みに顔を歪めて、分かりました。と返した。切なさの薄れた夜風の匂いがする。行ける場所など限られていると分かっていながら、どこかへ行きたい気分だった。匂いの変わった夜風に吹かれて、谷村となまえは衰えぬ人混みの中を歩いて行った。
こんな時間でも比較的健全に営業している店など、ここぐらいだろうと谷村は劇場前広場にあるクラブセガへとやって来た。流石に時間が時間であることから人の数は少ない。しかし、それは二人にとって選り取りみどりの好都合な状況でもあった。ゲームセンター定番のUFOキャッチャーや最近人気のシューティングゲーム、そして今、巷で噂のクイズゲーム達は挑戦者を待ち続けている。
「ウィンドウショッピングは出来ないけど、欲しいぬいぐるみくらいは取ってやるから。」
まずは片っ端から遊ぶか。懐から財布を取り出し、千円札を二枚ほど手にすると、両替機の正面に立った。なまえは近くにあったUFOキャッチャーの景品である、可愛らしいぬいぐるみ達に目を奪われていた。黄色いひよこのぬいぐるみ、どこかで見たことのあるヘッドフォンを着けたねこのぬいぐるみ、愛くるしい表情の犬のぬいぐるみなど、それらがガラスを隔てた向こう側で行儀良く並んでいる。
その光景に心を揺さぶられないわけがなく、なまえの恋する瞳に気付いたのは、谷村が無事に両替を済ませてから。
「それで、何が欲しい?」
「え……?ああ、でも、」
「さっきも言ったろ、欲しいぬいぐるみくらいは取ってやるって、」
「……この、黄色い、」
「ぴよちゃん、ってやつか、」
よし、見てろよ。と崩したばかりの百円玉を機体のコイン投入口に落とし込む。ピロリロリン、と機体の稼働音を合図に谷村はアーム操作を始めた。慣れた手つきではあるが、どれだけ操作に慣れていようと、中の景品が必ず取れるわけではない。アームを下ろす位置の見極め、それに伴う大胆かつ慎重な操作、そしてほんのちょっぴりの運の良さ。果たして、今の谷村にこれらの必要な要素は備わっているのだろうか。
「ふふ、谷村さん。ありがとうございます。」
「俺が頑張って取ったんだ、ちゃんと大事にしろよ。」
「本当にありがとうございます、谷村さん。」
結果は一勝九敗。谷村が手にしていた内の十枚がUFOキャッチャーのコイン投入口に呆気なく飲み込まれていった。今日の相手には中々苦戦を強いられ、少し軽くなった硬貨の束に苦笑する。なまえの恋する瞳は愛でる瞳に変わり、谷村の密かに抱いた彼女贔屓な心が満たされていく。
「おい、谷村。お前、こんな所で何してるんだ、」
突然、聞こえた厳格な声に面倒な感情を抱く。自然とゲームセンターの入口を見れば、そこには警官服を来た同業者が怪訝な眼差しでこちらを見ていた。何かを怪しんでいるような、疑っているような目にどっと疲労する。
「こんな所で何するかって言ったら、見回りでしょう。それとも俺がこんな所に遊びに来てるとでも思ってたんですか?」
「お前ならやりかねないからな。自分がどういう風に噂されているか知らない訳じゃないだろう。」
「態々どうも。それで、真面目な先輩はここへ何しに?」
「フン、ただの見回りだ。サボっている奴がいないかどうかのな。」
街の安全の為に我々がいるんだからな、と好き勝手に釘を刺していった同僚は相変わらず怪訝な瞳のまま、店内を出た。幸いにもなまえを連れていることは触れられず、谷村は一つため息を逃がす。なまえはぴよちゃんを抱えたまま俯いている。
「なあに、心配すんなって。アイツの目は意外と節穴だし、暫くはここに来ない筈だ。」
「ごめんなさい、私のせいで……、」
「いいって。まあ、サボってたのは事実だし、別に気にしちゃいねぇよ。じゃあ、次はシューティングゲームやるぞ。」
「谷村さん、得意なんですか?」
「ストレス解消には持ってこい、だろ?」
健全に破壊行動に勤しんで良いわけだからな、と浮かない顔をしたなまえを連れて、今度はアーケードゲーム機が並ぶコーナーへと向かい、適当な椅子に腰掛けてジャケットのポケットを漁る。隣になまえも座らせ、なまえは自分の膝の上にぴよちゃんを座らせた。
「ほら、たまにはアンタもやってみな。」
「私、やったことがなくて、」
「俺だけじゃつまんないだろ、だから付き合ってくれ。」
「……わかりました。私もやります。」
そうこなくっちゃな。と谷村はポケットから百円玉を二枚取り出し、なまえへと一枚手渡す。谷村が先にコインを投入し、なまえもそれに続いて投入口にコインを落とした。手元のレバーとボタンでフィールドに現れる敵を殲滅していくゲームだと口頭で説明を受け、頻りに触れていたぴよちゃんを膝に預けて、レバーを握り、ボタンの上に指を置いた。
軽快なBGMと颯爽と現れたプレイヤーである戦闘機、そして行く手を阻む敵の機体。レバーを自由に傾ければ機体はあちこちへと空を切り裂いて飛行している。ボタンをぐっと押し込めば、絶え間なく高出力のビームを放ち続け、そして敵の装甲を剥がし、核を撃つ。
「このゲーム、操作が簡単で遊びやすいですね、」
「それは何より。っていうか、結構ステージクリアしてんじゃん、」
「谷村さんに負けたくなくて、」
「へぇ、言うねぇ。じゃあ、俺も手加減なしで本気でやりますか。」
「あっ!わたしは初心者ですからね!お手柔らかに!」
カチカチ、と忙しない操作音が二人の間を繋ぎ、言葉数少ない時間をあっさりと受け流していく。谷村は的確に中心部のコアを狙い、なまえはとにかくビームで相手の機体を破壊する。プレイスタイルの違う二人はまだまだスコアを伸ばす。スピードに差はあれど、着実に加算されていくスコアに終わりが見えない。そう思っていた。
「楽しいです、とても。こんな日が来るなんて。」
「それ、流石に大袈裟過ぎないか?ただゲーセンで遊んでるだけだろ?」
「それでも良いんです。私にとっては初めての出来事ですから。」
「だから、それが大袈裟だって……、」
──ずっと前に死んでるんですよ、私。
なまえのその一言に谷村は咄嗟に真横を向いた。隣には懸命にゲーム機の画面と向き合っているなまえの姿がある。下手な冗談は言うもんじゃないってさっきも言ったろ、と返しても、もう戸惑うなまえの姿は見られなかった。
「私はずっとあの路地裏から出られませんでした。でも、そんな私を見つけて、困っているからと谷村さんは助けてくれました。」
「ずっと、ってことはアンタ、あそこで……、」
「あなただけです。私をあそこから連れ出してくれたのは、」
まだレバーを動かす音は聞こえる。まだ隣に彼女は存在している。谷村はなまえの口にすることが信じられないでいた。それなのに、やけに物わかりのいい自分がどこかに居て、動揺する感情に歯止めをかける。
「だから、本当に嬉しかった。楽しかった。ふふ、この街が好きになりそうです。」
「何言ってんだ、アンタはまだやってないことがあるじゃないか。まだこの街は、神室町はアンタの知らないことがたくさんあるんだ。だから、」
「あっ、」
「どうした、」
ゲームオーバーです。とぽつりと呟いた言葉に谷村はもう一度真横を見た。確かに彼女の遊んでいたゲーム機の画面にはGAME OVERの文字が表示されている。しかし、肝心の彼女の姿はない。椅子の上にあるのは、彼女の代わりにちょこんと座っている黄色いぬいぐるみだけだった。
「馬鹿。アンタの為に取ってやったんだから、ちゃんと持ってってくんないと困るだろ。」
手触りのいいぴよちゃんを掴み、そのつぶらな瞳を見つめては、過ぎたことだと冷静に頭が感情を整理していく。そして、ふと自分の画面を見れば、隣のゲーム機と同じようにGAME OVERと表示されており、谷村は何も言わずに席を立った。
***
それから数日後、谷村は神室町で出会った彼女について調べを済ませていた。事件の概要や死因は伏せるとして、彼女は本当に故人であった。あの場所は彼女が最期を迎えた場所で、彼女がどのようにして亡くなったのか。自分と出会った日の楽しそうに笑っていた彼女のことが忘れられない。彼女にまつわるもの全てが用の済んだメモ紙のように小さく折り畳まれる。
淡白な思考と感情を引き連れながら、いつものようにサボりを終えた谷村は神室町を彷徨いていた。行く宛はない、行き先など最初から決めていない、その筈だった。無意識に訪れた場所は、あの日彼女を見つけた路地裏近くの道。すっかり消えてしまった面影を追いかけている自分に気付き、ならばせめて、最後まで付き合ってやろうと路地裏へ続く道を行く。
寂れた景観の中にそれはあった。亡くしていた面影がいつの日かのように、困った顔で佇んでいる。目を疑うのと同時に駆け寄った。何故、まだこんな場所に居るのか。
「あっ、……た、谷村さん?!」
「な、なんでお前、またここに居るんだよ……!」
「ああ、えっと、それはですね……、」
なまえは谷村と別れてからのことを語り始めた。あの日、ゲームセンターで薄れていく意識、満たされた気持ちを抱えていたのだが、一つ後ろ髪を引かれる思いがあった。それは。
「わたし、まだ韓来の焼肉弁当食べてないなって。」
「はぁ?」
「私、神室町でやり残したことがたくさんあるんです。洋服だって買ってないし、韓来の焼肉弁当だって食べてない。それにもっと、」
「……もっと、なんだよ、」
「谷村さんと神室町を見て回りたい。だから、まだ成仏なんて出来ません。」
「アンタ、思ったよりワガママだな。」
え?!そうですか……?!と谷村の知っている表情をするなまえに、やれやれ、と懐かしい感覚に襲われながら、ほら、行くぞ。でも、今日は手持ちがないから、韓来は今度な。と今日もまた路地裏から彼女を連れ出していく。
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