もうすぐですよ。と言われるがままに手を取られ、連れられたのは降り注ぐ光の雨の中。足元のパネルや天井のミラーボール、革張りのソファーにゴールドカラーを主とした内装、スピーカーから流れてくるのは一昔前に流行ったディスコソング。彼が言うに、ここはバブル期の神室町に実在したマハラジャというディスコを再現しているのだそうだ。彼が好きそうな場所だ、抑圧された感情を解放したいと東京新天地を設けた、ハン・ジュンギの好きそうな。

「どうです、いいところでしょう。私はどうしてもここへあなたを連れて来たかった」
「だから、私にこれを贈ってくれたんですね、」
「ええ、それが今日のドレスコードですから」

 なまえは数日前にハン・ジュンギから一つ贈り物を受け取っていた。光沢のある布地、過度な装飾を避けたデザイン、至ってシンプルに落ち着いた深い青のビスチェドレス。その上品な印象のドレスは彼の好みが窺えるものだったが、まさか、今日この時の為のドレスだったとは想像していなかった。

「さあ、レディ。メイクアップのお時間です。あちらにメイクルームがございますので、どうかご用意を」

 はい。と取って付けたように、今履いているスカートの裾を摘み上げ、僅かに頭を下げる。これはどうもご丁寧に。と挨拶代わりの笑みを浮かべ、ハンはなまえより先に歩き出した。後を追うようになまえも歩き出せば、メイクルームと思われる部屋の扉の近くで立ち止まっているのが見えた。踵を返し、なまえがこちらへ辿り着くのを愉しそうに待っている。

「では、着替えが済みましたらお声掛けを」
「……覗いちゃだめですからね」
「フフ、ご安心ください。そのような真似は決して致しません」
「それじゃあ、また後で」
「ええ、ではまた」

 ドアが閉まれば、手際良く衣服を脱いで行った。寒いからと厚着をした体が次第に薄着になっていき、遂には肌を晒す。そして彼の青に身を包んで初めて、今日は彼にとって特別な日なのだと実感する。ドレッサー前に並べられたアクセサリーやメイク道具などの細やかな配慮に、なまえも自分が出来うる限りの変身を遂げてみようと思う。
 ここまで付き合ってくれた余所行きの化粧を落とし、今度は彼の為の化粧を施していく。アイラインは大胆に引き、血色のいい唇を派手過ぎないルージュでなぞり、アイシャドウも主張し過ぎない程度に瞼に乗せた。少しずつ出来上がっていく自分が鏡に映る。繊細に、けれど大胆さを所々に散りばめた、今日限りの自分に生まれ変わる。魔法少女も唖然とする変身ぶりになまえは一人メイクを仕上げていく。

 アクセサリーはシンプルを選んだ。過度な装飾を好まない彼の好みを充分に理解した上での選択だった。ハン・ジュンギは今、どんな気持ちで過去の遺物を、とっくの昔に弾けてしまったバブルを見つめているのだろうか。その答えも今日は教えてくれるだろうと、最後に髪をやんわりと一つにまとめてメイクルームを出た。

「おや、これはこれは」
「ごめんなさい、お待たせしてしまって」
「かまいませんよ、私はレディの身支度に遅いとケチを付けるような男ではありません」
「そういう立ち振る舞いに、女性は恋してしまうのかもしれませんね」
「今、ここで他の女性の話をするのは、些か無粋かと」
「……やきもちです、と言えば、許してくれます?」
「フフ、いいでしょう。実は、あなたがやきもちを焼くところをいつか見てみたいと思っていました」

 ハンはディスコフロアに併設されているVIPルームと思われる部屋のソファーに腰掛けていた。空席ばかりが目立つソファーでハンは自分が用意した酒を開けずに、なまえが来るのを待っていたのだろう。テーブルの上にある二つのシャンパングラスは空っぽで、その近くに置かれたアイスペールの中には未開封のシャンパンボトルが細やかな氷に埋もれている。
 先に始めていてもよかったのに、と告げれば、ハンは当然と言うように、それではあなたが足りない。と口にした。彼の言葉は一々胸の奥に煌めきを残していく。その煌めきは中々消えず、しばらくの間は胸に留まり続け、ハン・ジュンギという男を強く意識させる。

「こちらへどうぞ。ずっとお待ちしていました」
「自分が情熱的に誘われると弱いって、今気付きました」
「あなたの弱いところも良いところも押さえておくべきだと。そうでなければ、意中の相手を虜になんて出来ないでしょう」
「……本当に、今日は別人みたいです、」

 今日は我儘な男でありたいんですよ。そう言い放ったハンの口元には笑みが浮かぶ。我儘な男の誘いに乗り、なまえはようやくその隣へと腰掛けた。本当は内心、緊張が止まらなかった。紳士的であるハンが、あの男が珍しく我儘でありたい、と口にしたのだ。興味だけではなく、恐ろしささえ感じてしまう。

「我儘な男はお嫌いでしたか、」
「私は今まで我儘なハン・ジュンギを見たことがありません。ですから……、」
「なら、好きになっていただきましょう。我儘なハン・ジュンギも決して悪くない良い男だと、」

 ハンはアイスペールの中で氷漬けにされていたシャンパンボトルを取り、吹きこぼれや栓が飛んでいかないように努めて開栓する。淡いゴールドがグラスへ注がれ、小さく浮かぶ炭酸の気泡は刹那的に弾け、また生まれてくる。
 では、乾杯を。とグラスを上げたハンに倣い、なまえも同様に目の高さほどにグラスを上げ、アイコンタクトをとる。二人は目線で通じ合い、ゆっくりとそのグラスを傾けていく。唇に触れたゴールドを一口飲めば、上品な味わいと控えめな炭酸の飲みやすさに自然と次を求めていた。


 やがて二人のグラスはテーブルへ置き去りになるだろう。ハンはグラスの残りの酒を一気に飲み干し、酔いを感じさせない足取りで、なまえをダンスフロアへと誘った。ミラーボールから放たれる光の雨は二人の髪や肌、体の全てを何色にも塗り替えていく。降り注ぐスパンコールをその身を浴びて、ステージの上、たった二人きり。
 頼りなく、手持ち無沙汰を気にしているのはなまえで、その気にしいな彼女の寂しげな頬に触れたのは、シャンパンゴールドの余韻が残るハンの唇だった。

「私と踊っていただけませんか」
「実は生まれてこの方、誰かと踊ったことがないんです。ごめんなさい、折角綺麗なドレスを贈ってもらったのに、」
「謝る必要はありません。ですから、私にその身を委ねてください」

 強引ですね、足踏んじゃうかもしれませんよ。それは結構、今夜の私は我儘なのです。みょうじさんの言い分も聞きはしますが、私は私優先であなたを好きにしたい。……本当に我儘な人。すみません、ですが、今夜限りですので。
 一歩も引かないこの男に、言われるがまま近付いていくと真っ先にハンの腕がなまえの腰を抱き寄せた。我儘の片鱗が見え始め、『私は私優先であなたを好きにしたい』の言葉は伊達ではないと思い知らされる。

「私の背中へ腕を回して、そう、遠慮なさらず、さあ、もっとこちらへ、……フフ、大丈夫ですよ、そう、そのまま、」

 まるで抱き合っているような姿勢で二人の体は左右に揺れていた。踊ると言うよりかは音に身を任せ、揺れていると言ったところだ。腕の中で見上げれば彼の視線が流星のように降る。視線さえもミラーボールは鮮やかな光のスパンコールで彩ってしまうから、つい見逃してしまいそうだった。ハン・ジュンギの含んだ憂い気を。


「良い時代だったのでしょうね、バブルという時代は」

 見たこともない時代をその瞳は思い描いている。知りもしない時代をその心は惜しいと思っている。ふと問いたくなった、何故自分をここへ連れて来たのかを。

「この内装やディスコと言う場所だけでわかる。誰もが己の欲に忠実で素直で、何もかも好きなようにしていたのだと」
「誰かさんの好きそうな時代ですね、」
「ええ、全くその通りです。きっと浮かれていたんでしょう、金もあって女も男も皆好きなようにしていられた。何にも縛られず、何にも抑えつけられず」
「今の時代では難しいですね、とても。」
「本音と建前の建前ばかりが蔓延し、自分のやりたいことさえ飲み込まねばならず、ただ己の感情を抑圧し続ける」
「……どうして私をここへ連れて来てくれたんですか」

 フ、とハンの口元が笑みに歪む。

「あなたと浮かれたかったんです。遠い過去となってしまったこの場所で、当時の人間達のように浮かれてみたかった」

 喉が乾いたなら酒で潤せばいい、つまらないなら馬鹿馬鹿しくてくだらない遊びに興じればいい、体が欲しいなら臆せずそう言ってくれればいい、心が欲しいならまずは自分のものを差し出せばいい、飽き足りないなら次の夜を貪ればいい。

「私の夜はあなた無しでは始まらなかった。私はあなた無しでは浮かれられなかったのです」

 さあ、今度はあなたが浮かれる番です。みょうじなまえさん、どうか今夜は最後まで私にお付き合い下さい。
 男が饒舌に情熱的な言葉を吐いたところで、女は一度だけ衝動的になってしまいたかった。浮かれたいと言っているくせに、まだその余裕は衰えることがない。だから、その余裕に少し噛み付いてみたくなったのだ。
 彼のジャケット裏にある素肌に、シャンパンゴールドの余韻の薄れた唇を寄せる。流石の彼もなまえが何をするかまでは読めなかったようで、なまえの行動に首を傾げていた。その行動の真意に気付いたのは少し後、なまえの唇が素肌から離れてからだった。

「……これはまた可愛らしいことを、」

 なまえの思惑通りハンの余裕は剥がれ落ちた。男の胸元には口付けが赤く残る。女は男を傷物にしてしまった。何故なら、男はとあるホストクラブのオーナーであり、その整った容姿にはそれなりの集客力があった。大胆且つ無防備な胸元に女はたった一度だけ傷をつけた。
 ハン・ジュンギは彼女が離れることを許さなかった。腰に回した腕に力が込められ、なまえは傍を離れることが出来ない。ハンの顔は愉悦に歪み、なまえの行いに満足しているように見える。

「浮かれてくれているなら、結構。ですが、おいたはいけませんね。それにやられたままと言うのも、私の性に合わないものですから、」

 すみませんが、しばらくの間我慢してください。それだけを言い残し、ハンは捕らえたなまえの首筋に吸い付く。やや厚みのある唇が首筋の薄い皮膚を弄んでいて離れない。目が眩む、どこを見ても強い色彩の光が闊歩している。目が眩む、目の前にあるシルバーアッシュが視界に焼き付いていく。
 次にハンの顔を見た時はそれはそれは大満足と言った様子で、先程の剥がれかかっていた余裕が嘘のよう。

「どうやら私の方が一枚上手だったようですね。ですが、少し意外でした」
「今日くらい、私だけのハン・ジュンギにはなってくれないんでしょうか、」
「……ええ、それは出来ません。しかし、その逆はいかがでしょう」

 今夜だけ私のものになってみては。今夜だけ、ですか。……いいえ、出来ればこれから先も私のものでいてくれれば幸い、ですかね。もっとはっきり言ってください。どうやらあなたも思っていた以上に我儘らしい。
 ハンはなまえから離れると一歩下がり、その場に跪いた。そして恭しく手を取っては唇を手の甲へと寄せる。

「もう逃げられませんよ、レディ。あなたは既に私のものだ」

 ハートに深く杭を打たれる。逃れられないように、抜け出せないように、男は女の感情を、思考を、心を自身に繋ぎ止めていた。いつからだろう、などと白々しいことは今夜はなしにする。今までもたくさんのピンが打たれていた。そして最後の一本が今し方、打たれてしまったのだ。心の標本は今夜をもって完成した。ピンは鋭利な愛、そう簡単に自由にはしてくれないだろう。

「……喜んで。今夜は帰りたくない気分なんです」
「それは好都合。ではゆっくり楽しむとしましょう」

 今夜はまだ始まったばかりです、とハン・ジュンギの声と同時にミラーボールは更に眩い輝きを放ち始める。



| アナクロニズム・ダンスホール |


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