オーブンシートの敷かれたバットに、予め湯煎しておいた滑らかなチョコレートを流し込む。べらで余すことなく流し入れ、なまえは手にしていた鍋とべらを火の消えたコンロの上に置き、バットの中のそれを平らにしていく。表面が平になれば後は冷蔵庫に任せておけばいい。なまえは久しぶりに作るバレンタインチョコの完成を待ち望んでいる。
バレンタインが迫っていると気付いたのはつい二、三日前のこと。偶然立ち寄ったコンビニのレジ前にある陳列棚にそれは飾り付けられていた。ギンガムチェックのピンクや赤で飾られた可愛い販促物の並ぶ棚には、ハッピーバレンタインの文字が大きく掲載されていた。
もうそんな時期なのかと思えば、今年は少し頑張ってみたいとも思い、なまえはチョコレート作りを計画する。レシピはあまり難しくなく、久しぶりに作る自分でも作れそうなものを。渡す相手は一人、あの人しかいない。よく難しい顔をして、事件とにらめっこばかりしている堅物な眼鏡の彼へ。日頃の感謝も込めて、これを贈りたい。バレンタインはもうすぐそこまでやって来ている。
バタン、と閉めた冷蔵庫の冷気が肌に冷たく触れる。溶けたチョコレートを平らにし、あとは固まるのを待つだけだと一息ついたところで、なまえは彼がここにやって来る時間を確認する。テーブルに置きっぱなしの携帯を手に取り、二人共通のメッセージアプリを起動させる。彼のメッセージは、お昼過ぎに送信されていた『今日はいつもより早い時間に寄れそうだ』という嬉しい一言のみ。本来なら喜ぶべきなのだが、嬉しさ半分、複雑な気持ち半分と素直には喜べず。
自然と冷蔵庫を見た。溶けたチョコレートが固まるのが一、二時間。それから最後の仕上げとラッピングが残っている。出来れば北村が来たタイミングで渡したいが、今はただひたすらにチョコレートが固まるのを待つのみ。
***
驚きは北村のメッセージと共にやって来た。携帯の暗転していた画面に、『あともう少しで着く』というメッセージが表示され、なまえは慌てて冷蔵庫の中の様子を見る。冷蔵庫に入れてから既に三十分は過ぎていたが、大丈夫だろうか?と楊枝を取り出し、バットの隅を刺す。チョコレートがねっとりと付着した楊枝の先端は、まだ固まっていないと知らせてくれた。固まるにはまだ時間が掛かりそうで、なまえは渡せるだけでもいいと楊枝を咥えた。
すると同時に彼が到着したとチャイムが鳴る。なまえは咥えていた楊枝を捨て、家の外で待つ北村を迎え入れるべく玄関へと向かった。
「おかえりなさい、北村さん。今日はお早いんですね」
「ああ、たまには早く帰れと言われてしまってな。ここ最近はずっと帰りが遅かっただろう。それがあまり良くなかったらしい」
ただいま、なまえ。と署内では滅多に見られないだろう優しい笑みを浮かべた北村は靴を脱ぐ。なまえにとっては前から頻繁に目にする笑みだ。
なまえと北村は男女の仲だが同棲している訳ではなく、仕事終わりに北村がなまえの家に寄り、限られた時間と夕食を共にする。そのまま泊まっていくこともあれば、時間が許す限りなまえの傍で過ごしてから帰宅することもあった。
「今日はどうしますか、」
「……折角の早上がりなんだ、泊まっていくさ。たまにはゆっくりしよう」
「じゃあ、ご飯にしましょうか。お腹減りません?」
「ああ。ところで、何か作っていたのか?甘い匂いがするが」
「えっと、その、お菓子を作っていて、それで、」
「それで?どうしたんだ、」
「ぜ、全部食べちゃいました……」
そうか。じゃあ、今度は俺の分も残しておいてくれ。と北村の大きな手がぽんぽんと頭に触れる。本当はただの苦しい嘘なのだが、何も疑わずに信じてくれる北村の優しさになまえは助けられた。
これから夕飯を食べ、風呂を沸かし、食器を片付け、湯が貯まれば風呂に入り、風呂上がりは二人でのんびりと過ごす。チャンスがあるとしたら、北村の入浴中だ。その間にチョコレートを一口大にカットして箱に詰め、ラッピングさえ出来れば、なまえのバレンタインは無事に終わる。北村をなるべく冷蔵庫に近付けさせないこと、今日がバレンタインだと悟られないことに努め、あとは北村がチョコレートを嫌いでないことを祈るばかり。
いつもよりゆっくりと会話と食事を楽しむ夕飯時だった。作り置きのおかずを突っつきながら、相手のこと、今日のこと、お互いにしか通い合わない話題の数々が食卓に上がる。茶碗いっぱいに盛られた白米がなくなれば、おかずの皿の底が見えたら、味噌汁を飲み終えたら、今日の夕食は無事に完食だ。
胃袋も心も心地よく満たされた北村となまえは自分の食器を重ね、流しへと運んでいく。いつもの癖でキッチンに立っているなまえの蛇口を捻る手を、北村は自分の手を重ねて止める。
「なまえ、風呂を頼めるか。それに夕飯後の食器洗いは俺の担当だっただろう」
「そうでした、ごめんなさい。それじゃあ、お願いします」
「ああ、任せておけ」
ワイシャツ一枚、腕まくりされた身軽な背中にキッチンを任せ、なまえは浴室へと向かう。その間にも頭の中では、北村にバレないように隠しておいたラッピング類の置き場所、仕上げの手順、北村に贈るたった一つの素直な言葉選びの全てを再確認していた。何度、頭の中でイメージを膨らませても、必ず行き着く先は一つ。単純ではあるが、喜ぶ北村の姿である。自信過剰かもしれない、でも何故かそれは上手くいくような気がして。
このささやかなる企みのリボンを解いてくれるだろうか。開くことを躊躇わず、プレゼントを貰った子どものように喜んでくれるだろうか。湯を張り始めた浴槽から微かに湯気が漂う。この浴槽いっぱいに湯が溜まった頃、なまえは秘密の用意に取り掛かる。
***
なまえが待ち続けた時間は充分に冷蔵庫の中のチョコレートを冷やし固めてくれた。浴室を覗きに行けば、浴槽いっぱいに湯は張られており、漂う湯気は触れる度に温かく消えていく。秘密の仕上げに取り掛かりたいなまえは、リビングでマグカップを片手にくつろいでいる北村に声を掛けた。
「北村さん、お風呂入れますよ」
「ああ、すぐに入る。……そうだ、」
突然、何かを閃いたかのような反応に、どうしたんです?と問い掛ければ、北村は何か言いづらい気持ちがあるらしく、そわそわとした態度でなまえにこう告げる。
「……たまには一緒にどうだ。その、なまえが嫌じゃなければ、だが、」
「え、っと、お風呂ですか?」
「ああ、……やはり駄目だろうか、」
「だ、ダメじゃないです……!けど、今日はその、」
「何かあるのか?」
「な、何かあるわけじゃないんですけど、でも、今日は、」
「……フッ、分かった分かった。そんなに困った顔をするな。一緒に入りたいのは山々だが入れない理由があるんだろう?」
「き、北村さん……!」
口には出来ない気持ちを汲み取ってくれるのはとても嬉しい。しかし、滅多にない北村の我儘に付き合えない自分が恨めしくもある。なまえだって、何度二人きりの入浴を考えたことか。しかも、今回は北村からその誘いをもらったと言うのに、それに応えられない自分が切ない。恨みがましい言葉を飲み込み、脱衣場まで向かう北村の背中を見送り、切なさもそのままに冷蔵庫へと視線を向けた。
キッチンに立ってからは恨めしさも切なさも無かったことにする。程よく固まってくれたチョコレートに包丁の切っ先を入れ、まずは縦に、次に横へと切り分けていく。ダークブラウンのキューブが量産され、なまえは味見に一つ摘んでは口へと運んだ。甘く溶けていくそれは、手間暇を掛けたからなのか、やけに美味しく感じる。自分が甘いもの好きという点を抜きにしても、これなら大丈夫だろうと言えるくらいには良い出来だった。
近くのテーブルに広げておいたギフトボックスとラッピングのリボン、一言を添えたいが為のメッセージカードは今も自分達の出番を待ち続けている。なまえは戸棚から粉砂糖を取り出すと、用意しておいた茶こしに適量流し入れ、指先で優しく銀縁を叩く。さらさらと粉砂糖が降り注ぎ、粉雪は切り分けられたチョコレートへそっと降り積もる。
バレンタインは毎年訪れるイベントだ。それが当たり前過ぎて、少しだけバレンタインの特別さを忘れていたような気がする。出来上がったチョコレートを丁寧に箱詰めしている時にふと思った。ささやかな喜びも閉じ込めるように箱に蓋をし、この日だけの特別を形にするかのようにリボンを結び、十字に重なるリボンの隙間にメッセージカードを挟み込む。どうか、今日までの素直な気持ちを彼が受け取ってくれますように。
後ろから湯上がりを知らせる音が聞こえ、その時が近付いてくるとなまえは照れくさい気持ちを振り払いながら、北村がこちらへとやって来るのを待った。
「どうしたんだ、そんなところで」
髪の水気をタオルで拭いながら北村はキッチンで待つなまえの傍へと近寄っていく。なまえは座ったままではいられないと椅子から立ち上がり、これ、とテーブルの上に置かれた小箱を差し出した。北村は疑問に首を傾げる。やはり今日のことも、この箱の中身も分からないでいる。
「北村さんが帰ってくるまで、本当はこれを作ってたんです。北村さんの分しかないんですよ。余りはありますけど、」
「……俺の分しか?全部食べたんじゃなかったのか、」
「あれはその、嘘です、ごめんなさい」
「じゃあ、これは俺が開けていいのか?」
「ええ、お願いします」
未知に触れる指先はたどたどしい。なまえが閉じ込めた特別は北村の笑顔を誘ってくれるだろうか。リボンは解かれ、ゆっくり核心へと近付いていく。挟んであったメッセージカードを手にした北村は、たった一行を読んでくれたのだろう。たどたどしかった指先が躊躇いなく、箱の蓋を取り去った。
「……なまえ、今日は何日だ」
「二月十四日、です」
「そうか。俺も随分とこのイベントには相手にされなかったものでな、すっかり忘れていた。そうか、今日は、」
「なんだか、くすぐったい気分ですね、へへ、」
「ああ、そうだな。しかし、俺の誘いを断る程の理由がこれだったとは、」
「ほ、本当は断るつもりはなくてですね……!」
言葉を遮るような形で湯上がりの温かな手のひらが再び頭を撫でる。その行動に口を塞がれ、なまえは言葉を失ったまま北村を見つめていた。
「後がつかえているんだ、早く風呂に入って来い」
「……後がつかえてるって、北村さんはもうお風呂入ったじゃないですか、」
「……そうじゃない。……俺は早く二人きりになりたいと、言っているんだ、」
折角、なまえが作ってくれたんだ、余りも持ち寄って一緒に食べればいい。それに、二人でしたい話もある。と告げた北村の様子はいつも通りではなく、まるで照れているような、恥ずかしがっているかのような。
「す、すぐに出てきますから、待っててください……!」
「ああ、早くとは言ったが、急かしているつもりはない。ゆっくり入ってきてくれ」
さっきと言っていることが違う北村も少し混乱しているのかもしれない。もしくは自分と同じで上手い舞い上がり方を知らないのかもしれない。こんなことなら一緒に風呂を済ませてしまえばよかった、まさかこんなに照れ臭くなってしまうなんて思ってもいなかった。
「……その、お風呂から出たら、」
「出たら?」
「やっぱり、なんでもないです……!」
言いかけてやめ、逃げるように浴室へと向かった。自分が何を言おうとしていたのか。勢いのままに服を脱ぎ捨て、暴走しがちな頭を冷やそうとシャワーの蛇口を捻る。すると、針のように冷たい水が肌を刺す。その冷たさに悲鳴を上げれば、異変を感じた北村に浴室のドアを開けられ、更に悲鳴は響き渡る。
***
「バレンタインか。食うのが勿体ないと言ったら、なまえはどんな反応をするだろうか」
なまえも何とか落ち着きを取り戻し、現在無事に入浴中である。北村は一人テーブルの前で、なまえからのチョコレートに手を付けずにいた。自然と意識は行儀良く充電中のスマホへと向かう。わざわざ手に取り、北村はとあるアプリを開く。長方形の画面に映し出されたのは、北村が見ている景色と全く同じもの。画面の中心には『大好きです』と書かれたカードと自分の為にとなまえが作ってくれたチョコレートがあった。
「……こんな姿、あいつには見せられないな」
ボタンアイコンに一度触れれば、目の前にある景色をカメラアプリは切り取ってくれる。保存の二文字に触れ、なまえさえ知らぬ北村の秘密は確かに保存された。こそばゆい気持ち、ぎこちない笑みで北村はスマホを元の場所へ戻し、なまえが風呂から上がるのを待つ。待ち遠しいのだ、彼女が言いかけてやめた言葉の続きも、自分の為にと作ってくれたチョコレートを食べるのも。ぎこちない笑みが次第に柔らかく馴染み始め、北村は一人バレンタインの特別さを噛み締めていた。
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