人に優しくありなさいと大切な教えを守って十数年。気付けば、両親と同じ平凡な世界に居られなくなり、最愛の男と共に暮らしている。男は極道であった。それも自分の組を持ち、自分と盃を交わした子を束ねる組の長であった。女はその男に娶られ、妻となった。女は男のことを愛していたこともあり、喜んでその申し入れを受けたのだ。組長として男が厳しい反面、女は至って優しくあり続けた。まるで両親の教えを守るように。言わば、飴と鞭を体現している。
 けれど、その飴に甘んじるが故に不都合なことも多々あった。特に部下の勝手な勘違い。言い寄っているのではない、上手く育つように飴をくれてやっているのだ。しかし、事ある毎に呼び出されては以前から好いていたと恥ずかしげもなく告げる男の多さに辟易していた。親である男に対する礼儀を欠き、その妻である女に言い寄る。なんて馬鹿なことをするのだろう。だから、この組では居なくなる人間の方が多い。特に、組に入って間もない人間が居なくなる。

「姐さんには男を惹き付ける魅力があるのかもしれまへん」
「私にそんな大層なもの、あらへんよ」
「いえ、せやからウチの親父も……」
「何言うてんの、あの人はそんなんちゃうよ」

 中には上手いこと与えた飴で育った子もいる。今、なまえも話をしているこの男もそうだ。なまえの世話役という立ち位置にいるが、裏に夫である男の影があるのだ。近江、背中に黄龍を携えた、『関西の龍』と言う異名を忌み嫌う男。ほんの少しであっても、その男を思う時間には一人の女に戻ってしまう。夫婦の盃を交わし、その権力を預かり、全ての縁と手を切った。それでも、好いている男のことを思う時間にはどんな肩書きも通用しないのだ。極道の妻としてではなく、伴侶としての自分にさせられる。例え、どんなに力を持っていようと関係ないのだろう。

「それなら、お前は私に下心を持ったことはあるんか」
「い、いえ、滅相もありません……!姐さんは親父のですから」
「あの人の、ねえ」
「親父は今や飛ぶ鳥を落とす勢いの人です。確かに姐さんが寂しい思うのも分かります、」

 男は自分をさっさと娶ると満足したのか、後は如何に自分の組が関東に進出出来るかに尽力していた。大しておかしなことではない。関東と関西を二分する極道組織の対立は和解など以ての外で、決して避けられないものだ。だからこそ、夫がそれに尽力するのも分かる。寧ろ、そうすべきだと手助けしてやるのが当然だ。しかし、そう思うのは極道の妻としての自分であり、ありのままの自分ではない。現に今もこうしてひとりだ。何不自由ない暮らしを与えられ、自由気ままに過ごしている。それも結局、許される範疇で、なのだが。
 綺麗な座敷の部屋は夫が自分の為にと拵えた特注の部屋だ。畳は青々としており、活けられた花瓶から咲く大輪の花は鮮やかに色づいて美しい。壁沿いには今までに何枚と贈られた艶やかな品のある着物が綺麗に並んでいる。そのどれもが見ているだけで目が肥えるほどの立派なものだった。青い花と水面、水辺で佇む鳥が描かれたものや、対極的に大輪の暖色の花々があしらわれたものと、細部にまでこだわりのある高価な着物を贈ってくれる。勿論、中には袖を通したことのあるものもあるが、あまりの量の多さにまだ着たことのない着物もいくつか存在する。

「こない立派なもん、肝心のあの人が見てくれな、ただの置物やないの」

 ため息交じりに毒を吐く。寂しさに膿んで出て来た毒を、世話役の男は苦笑して受け止める。居ない男のことを悪く言いたいのではない。良く言いたいのでもない、ただ釣った魚に餌をやらないのはどうかと思うのだ。あの男でしか満たされぬ胸の内を、自分より弱い人間に優しくすることで埋めようとしている。かつて両親が言っていた言葉の意味を履き違えていると分かっていながら。つまり、自分の為にと優しさを誰かに充てがうから自分にツケが返ってきているだけなのだ。勘違いを起こす子が悪いのではない、元を辿れば自分が悪いのだ。豪快であると言うのは、自由奔放で掴みどころのない、意外性のある思い切りのいい性格だ。だが、時にその性格が誰かの心を曇らせてしまう。
 女は男を眩しいと感じることがある。あまりの眩さに自分の存在が真っ白に塗り潰されてしまいそうだと感じることがある。まるで、自分でなくともいいのではないかと言う、漠然とした形容し難い黒い靄。それを上手く吐き出せたなら、どんなに良かったことだろう。彼に打ち明けることさえ、恐れている自分ではこの寂しさを伝えることすら出来ないだろう。

「姐さん、」
「なに?」
「親父がこれから戻ってくるそうです」
「あの人が……?ここに何しに、」
「姐さんに聞きたいことがある、と」

 ちらりと盗み見た男の片手には携帯が握り締められており、その言葉が嘘ではないと密かに知る。どこかぎこちない世話役の表情が緊迫感を物語っていた。咎められるような気がした、まるで今までのツケを払わされる番が来たのだと告げられているような気がしたのだ。


***


 虎に睨まれていた。彼が戻って来てからというもの、世話役の男は退室するように言いつけられ、夫と妻が互いを見やっている。どちらも居心地悪くソファーに腰掛け、ローテーブルを挟んで向かい合っている。夫は妻に対して、まだ何も言わなかった。縦に傷が走る唇を閉ざしたままだ。妻は妻で、そんな男の威圧感に圧倒されながらも無口を貫く。

「ワシのいない間によう遊んだらしいやないか」
「嫌やわ、龍司さん。そないなことは私、一度も」

 虚しさを埋める為に弄んではいたものの、体を許すような遊びをした覚えはない。眼光鋭くこちらを射抜く。器用に片方の口の端を持ち上げ、歯を覗かせて笑っている。噛み殺すような笑いが次第に大きなものへと変わっていった。その豪快な笑い声がしんとした部屋に響く。なまえは未だに気が気でない。

「せやったら、ウチのが頭悪いっちゅうことか」
「何回も言うてますけど、龍司さんが厳しい代わりに私が優しくしとっただけです」
「そらぁ、勘違いしてまうわ。ただでさえ、見てくれのええ女や。言い寄られとると思ってまう」
「それはどうも」

 大人しい妻の返事に夫はにやけた口を閉ざし、今度は眉間に静かに皺を寄せた。静寂から一転、衝撃からの大きな物音。夫はソファーから立ち上がると、自分達で挟んでいたローテーブルを蹴り飛ばしたのだ。ローテーブルは強い衝撃に耐えられず吹き飛び、部屋の片隅にがらくたのように転がっている。

「ワシへの当てつけなら、最初からそう言えばよろしい」
「そない大きな物音立てたら、怖くてしゃあないわ」
「……悪びれもせんちゅうことは図星でっか」
「図星て、なんのことやろか。もしかして、龍司さん。嫉妬してはるん?」

 嫉妬、この一言で夫の眉間の皺はより深く刻まれていく。先述した『男は自分をさっさと娶ると満足した』と言う一文だが、これにはまだ明かしていないエピソードがある。それは、この結婚は恋愛結婚であったということだ。つまり、この『嫉妬』という言葉は夫にとって煽り言葉になってしまう恐れがあった。しかし、妻は妻でそれを言わずにはいられなかった。不満から来る行動は言わば、欲望を写す鏡そのものであると。
 仮にも、あの『関西の龍』の妻なのだ。例え、虎や龍にひと睨みされようとも、ただで怯みはしない。せめて、たった一撃でも相手に食らわせなければ気が済まない。妻を夫の飼い猫だと買い被ってはならない。何故なら、虎もネコ科の動物だからだ。どちらも気性の荒い性格だ、無傷でこの場は終われないだろう。目の前の虎は頭上からこちらを見下ろし、ソファーに座る猫は下から鋭く睨みつけている。

「このワシが嫉妬なんぞ言う、しょうもないもんで動く人間に見えるんか」
「人は見た目ちゃいますから」
「まあ、ええわ。お遊びもこんぐらいにしといて、や」

 夫は妻の傍で身を屈めると、おもむろに顎を掴み、妻の顔を吟味するように見つめていた。ぐい、と引き寄せられ、顎を掴んだ手の親指の腹で唇をなぞる。夫の唐突な行動に妻は嫌な気がしなかった。寧ろ、待ち望んでいたまである。それほどに二人の距離は遠く離れていたのだ。例え、喧嘩の延長戦の触れ合いであっても、嬉しいものは嬉しい。いや、これはそもそも喧嘩などではない。二人にだけ通じるコミュニケーションなのだ。いないだろうか、身の回りでストレートな表現が出来ずに遠回りのまどろっこしい行動や言動になってしまう人間が。この二人もまさにそうなのである。

「そない嫉妬してくれるんやったら、そろそろええよ」

 他所の子ばかりやのうて、ホンマの子、産んでも。せやけど、どうでしょ。龍司さんはまだお外の娘と遊びたいやろうから……、
 ここまで続けた妻の言葉を遮ったのは、紛れもなく夫だった。その目は途端に活力に溢れ、噛み付くような口付けの後に言い放つ。

「回りくどい言い方は好かんのや。ええ加減にせえ、」
「せやったら、なんです?」

 裂傷走る唇が三日月のように裂けていく。先程から夫の物言いに嫌な気がしない。こう言ったやり取りを望んでいたのだと知る。そして、それは妻だけではなく、夫も同じであったと知らされる。

「ワシが勃つんはアンタだけや、なまえ」
「まあ、そない下品なこと……、」
「なら、もう寝室も分ける必要あらへんな」
「え……?」

 品のない告白に内心喜んでいると、唐突な発言に目を丸くする。確かに夫の子を身篭っても構わないと口にしたが、あまりにも気が早い展開について行けず、ひとり遅れてしまう。

「なまえが男遊びしとったかなんぞ、抱けばすぐに分かることや」
「な、何言うてんの……!龍司さん、」
「ワシはよぉく知っとるからな、昔からなまえは奥手が過ぎて」

 お子ちゃまのままや、て。
 夫がより深く口端を吊り上げて笑う。虎や猫に弱点があるように、無論夫妻にはそれぞれ弱みがあった。そこを先に突いたのは夫だった。妻の顔は真っ赤に染まっていく。怒りや動揺、気恥ずかしさやらでぐちゃぐちゃなのだ。

「な……っ!あんなあ、私は誰にでもホイホイ体を許すような女ちゃいます!!」
「口では何とでも言えるやろ」
「それに、もう、お子ちゃまなんかやない!」
「威勢がええなあ、よう鳴いて可愛らしいですわ」
「ちょっと、龍司さん!話聞いとるん?!」
「暫くはこっちにおるさかい、」

 ──── ゆっくりと確かめたらええ。ちゃいますか?
 その一言にぐうの音も出ず、妻は顔を真っ赤にしたまま黙り込む。若干、自分でも涙目のような気がするが、夫を再び睨みつけると、その顔もたまらんなぁ。と余計に煽られて悔しさが募るばかりだった。けれど、その反面、夫も夫で妻に許されたことが嬉しいのである。今も昔も意地っ張りで素直になれないところが、この猫の可愛いところだと実感させられる。めら、と紫炎が立ち上り、決戦は今夜であると告げていた。



| 猫に牡丹、虎に紅 |


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