壁に設けられた木製の棚には様々な種類の酒が並び、カウンターには丸く削られた氷が浮かぶロックグラスが一つ置かれている。そのグラスを手に取るのは店内でたった一人だけで、辺りに他の客の姿はない。男にウイスキーを差し出したのは、この店のオーナーである彼女だ。スリットの入ったスカートからは控えめに白い足が伸びている。向かいの男はグラスを傾け、琥珀色の酒を一口流し込む。ホワイトカラーの上等なスーツを着込み、頭髪は後ろに撫でつけられている。黒に交じって白い毛束も例外なくまとめられていた。
「いつ来てもここは静かでいい」
無人の店内を見渡し、広々とした空間の中で寛いでいるのは自分だけだと女を見た。カウンターの向こうに立たされている彼女は、男の恐ろしい風貌に萎縮することなく溜め息を逃がす。静かすぎて退屈だと返せば、俺がいるのにか?と縦に切り裂かれたであろう傷の走る口元を歪ませた。
***
彼女の店は昔からこの場所にあり、その頃は小さなスナックとしてひっそりと営業していた。だが、神室町で自分の店を持つということは、少なからず東城会の人間と接する機会が多くなるということだった。案の定、開店して数日後に東城会の人間達はここを訪れた。初めはただの客として。しかし、次第にそれは露骨に催促されるようになっていった。手荒な真似はしたくないと言っておきながら、営業妨害は当たり前。店内で好き勝手に振る舞われ、客足は遠のいていくばかり。
そんなある日、一人の男が来店した。風貌からしてヤクザの人間だったが、店で好き勝手をするでもなく、みかじめの話をするでもなく、ただ黙って出された酒を飲んでいる。彼女は男を寡黙な人なのだと思った。客足のない店で粛々とグラスを傾ける男に、彼女は落ち着いた口調で警告した。
「お客さん、ごめんなさい。もうそろそろお帰りになった方が」
垂れた前髪の隙間から鋭い目つきがこちらを捉える。男はグラスをカウンターに置き、次の言葉を待つ。彼女は自分の店で起きている最近の出来事を素直に話した。開いて間もない店だ、東城会のヤクザに狙われても仕方がないのだと。そして、自分のせいで客である男に迷惑をかけるのは申し訳ないと。だが、一連の流れを聞いても尚、男は店から出て行こうとしなかった。
「私としても、お客さんの前で揉め事は見せたくないんです」
「へぇ、そうかい」
「……それに、お客さんに何かあっても困りますから」
「そりゃあ、面白れぇ言い分だな」
アンタは俺を見て、そんな気の利いたことが言えんのか。男は寡黙な口元に笑みを浮かべる。二人の間を繋ぐのは、琥珀を流し込んだグラスの氷の音だった。後は流れるような沈黙。女は焦燥しており、男は余裕を持て余している。静かな夜だ。しかし、それはこれから嫌悪感で塗り潰されると知っているのは、店主であるなまえだけだった。
まずは荒々しく乱暴に扉を開け、次に耳障りで大きな足音と話し声で店内の空気を一瞬で変えていく。正面の男に呼びかけたものの、聞く耳を持ってくれない。今夜はここで流血沙汰が起きるかもしれないと思うと、酷く恐ろしかった。それならば、折るつもりのなかった心を折る他にないのかもしれないと、カウンター奥にあるレジスターを見た。
「今日もお客さん、少ないねえ」
「ええ、おかげさまで」
「それで、どう?考えてくれた?」
二、三人でやってきたヤクザ達は馴れ馴れしくカウンター周りへと近付くと、未だにグラスを手にしている男に視線を逃がした。物好きが居たもんだと、その顔を覗き込むように距離を詰めれば、ヤクザは愕然として声を荒らげた。それはなまえに対してではなく、白いスーツの男に対してだった。一人が男の名を口にすると、周りの二人も顔色を変えた。そして、全く動じない男を取り囲んでは怒号を浴びせる。
この店は自分の組がケツを持つことになっているだとか、ここはお前の来る場所じゃないだとか、一人に複数人で捲し立てる様に理解出来ない恐怖を感じていた。ヤクザ達が異常なほど牽制しているにも拘わらず、男は数分前と変わらない涼しい顔のままだ。自分達を前に顔色ひとつすら変えない男に痺れを切らしたのか、三人の内の一人が近くの椅子を蹴り飛ばした。大きな物音に体を硬直させたのはなまえだけで、肝心の男は手元のグラスがカラになってから、ようやく口を開いた。
「俺はここに飲みに来ただけだ」
例え男が本当のことを言っていようと、男達にとってはそれが面白くない。もっと言うならば、ここにこの男がいること自体、気に食わないのだ。ましてや、自分達とは違う組の代紋を着けている男など。一触即発。それがいつ起きてもおかしくない状況で、先に動くことが出来たのはヤクザ達ではなかった。
「どうしたよ、さっきの威勢は」
男が語りかける。なまえはカウンター越しに見ていた。ヤクザ達は散々、男に対して捲し立てたくせに動けないでいたのだ。数が多いのはヤクザ達だ。そして、男を取り囲んでいる以上、不利なことなど何もないはずだろうに、と男のことを何一つ知らない素人の考えは即座に覆されることとなる。
何かが割れる音がした。まるで瓶を叩き付けて割るような、そんな音が。悲鳴もなく、何かが倒れる音がして、ようやく気付く。動けないでいたヤクザ達はこの男に襲われているのだと。男の手には割れた酒の瓶が握られており、使い物にならなくなったと言わんばかりにその場に捨てると、すぐに次を手に取って同様に繰り返した。次々に瓶が割れていく音になまえは恐怖し、萎縮していた。もうその光景を見たくはないと身を丸めて、懸命に耳と目を塞いでいた。しかし、微かに聞こえてくるヤクザ達の呻き声に涙が止まらなかった。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。なまえはあの男の見せた、秘めたる凶暴性に滅多刺しにされていた。もう嫌な呻き声は聞こえない。黙り込み、脱力し、虚無感に苛まれていた。あの男は一頻りに彼らを痛めつけた後、裏口を使って彼らをどこかへ連れて行ってしまった。ずるずると引き摺られていく彼らは皆、頭から血を流し、床を鮮血で汚していった。まだ強すぎる衝撃になまえはその場に座り込んだきり、立てなくなっていた。
この街の闇を見せつけられたのだ、突然目の前で。今まで憎かったはずの彼らは無事なのだろうか。決して無傷というわけではないが、死んではいないだろうかと不安に襲われる。体が震えるのと同時に、一つの足音が聞こえてきた。その足音は店内へと戻って来ているようだった。
「よう」
ぴたりと止まった足音、視界にはまたあの白いスーツが見えた。顔を上げれば、男の見下ろす視線が突き刺さる。だが、なまえの視線は男を四肢をなぞるように、血で汚れた箇所を目で追っていた。すると、男はカウンター裏にあるタオルを勝手に取り、今更赤く染まる手の甲を拭いていく。顔やスーツに飛び散った血より、今は手の方が大事だと言わんばかりに。革靴が迫る。何をするのかは分からない。
「裏口、使わせてもらったよ」
「……あ、あの人達は、」
そう訊ねられるのが意外だと目を丸くした男は、すぐに口元に笑みを浮かべ、拭き取った血で真っ赤になったタオルをカウンターに戻した。そして、その場で身を屈め、なまえの目を覗き込みながら、自分が何をしたのか話し始めた。耳を塞ぎたくなるような暴力の記録は簡潔にまとめられており、たった二、三言を告げたところで終わってしまった。話が終わっても、男は覗き込むような見方をやめなかった。
「しばらくはアンタの前に顔出せねぇようにしてやった」
「なんで、そんなこと……」
「先に吹っかけてきたのはアイツらだ。だったら、相手してやらねぇと可哀想だろ」
「……あなたもヤクザだから?」
知ったような口、利いてんじゃねえ。と最後に言い残し、男は店を去ろうとした。しかし、血で汚れている上にあの風貌だ、恐らく再び面倒事に巻き込まれるだろう。だから、となまえは去り行く男の背中に話しかけた。
「……裏口から人通りの少ない細い路地に出られます。そこなら、」
「じゃあ、今晩のはツケといてくれ」
飄々と言ってのけ、男は再び裏口へと歩いて行った。だが、今度はもう店に戻ってくることは無かった。がらんとした店内に取り残されたなまえが動けたのは、それから数十分経ってからのことだった。
***
店内での暴力騒動が起きて以来、あの男はなまえの店に来ることが多くなり、反対にヤクザの男達はあれから全く姿を見ていない。何があったのかを詮索するより、少しの時間でも店で飲んでいく男のことを気にかけていた。助けてもらった、と言っていいのか分からないが、良くしてもらった礼に一杯奢ってからと言うものの、二人は妙な関係になっていった。常連でありながら他人を近付けさせない空気を放ち、退店の際に見送りに出れば、一、二言を残して去っていく。
二人が今のような関係になったのは、いつものように店にやって来た沢城が退店の際、降り始めた雨のせいで足止めを食らった日のことだった。その日は沢城以外誰もおらず、あの日を思い出させるような沈黙に包まれていた。どうせこの雨なら客も来ないだろうと、なまえは 沢城を奥の部屋に通した。そこはお得意様用に設けた一室なのだが、未だに日の目を見たことがない。常連でいてくれる沢城になら都合してもいいと思えたのだ。
「雨が止むまで好きにしていて下さい。もうこれ以上、お客さん来ないでしょうから」
よければ、どうぞ。と沢城がいつも注文する酒をグラス一杯分だけ用意し、テーブルに置くとなまえは部屋を出て行こうとした。しかし、それを阻むように伸びてきた腕に掴まれ、部屋の中へと戻された。背にはソファーの柔らかな感触があり、正面には冷ややかな顔で立っている沢城の姿があった。
「どうせ人が来ねえなら、ここにいりゃあいい」
「……でも、」
「たまにはゆっくり話でもしようじゃねぇか、なあ?」
なまえの隣に腰掛けると、沢城はまず出されたグラスに口をつけた。相変わらず鋭い視線に恐怖していたが、話をしようと言った沢城の言葉を信じてみようと思った。
「アンタ、確かヤクザもんは嫌いだろう?」
「……ええ、好きではありません」
「なら、俺に気を利かせる必要なんかねぇだろ」
「それは、」
「なんだ、あの日のことで絆されちまったか?」
間違いではなかった。沢城の言う通り、なまえはあの日の一件で沢城に対する考え方が変わっていた。沢城も彼らと同じ世界の人間だ。しかし、結果として彼らからの束縛を説いてくれたのも同じヤクザである沢城だった。恩を感じるのは当然だが、なまえはそれ以上のものを抱えるようになった。男と女が傍にいて、決して絆されることがないなんて幻想だ。どんな形であれ、自分を救ってくれた相手に変わらない心など存在するはずがない。
「……だったら、なんですか」
「馬鹿は嫌いだが、お前はいいよ。大目に見てやる」
ウイスキーに濡れた唇から、白い歯が垣間見える。そして、沢城はもう一口流し込むと、突然なまえの後頭部に手を添え、自分の方へと引き寄せた。温かな唇から冷たいそれが伝って入り込んでくる感触に驚き、抵抗するつもりだった。しかし、抵抗を拒むように後頭部の手はぐっと押し付けてくるばかりで、なまえは逃げ出すことさえも出来なかった。やがて、口の端からそれが顎を伝い、首や胸元を濡らしていく。濡れた箇所を拭うことすら許されないまま、二人は絡み合っていった。
真上には男、真下には女。外の雨音は聞こえない。ここはビルの二階に位置する、あまり人の寄り付かない飲み屋だ。事に及ぶのには適した場所だった。絆された自分を恨めしくは思っていなかった。別に良かったのだ、沢城にどうこうされてしまっても。こんなだから、絆されたのだと明け透けに見破られてしまったのだろうか。
その日、沢城は夜更けに店を出た。やっと上がった雨に清々すると言った顔で。店には抱かれた女だけが取り残されており、最低限の身支度を施されていた。彼女の体には鈍い熱が宿っていた。交わりを終えた気だるさもあったのだが、何よりも体に残された噛み跡に熱が冷めないでいたのだ。まるで自分の所有物であると主張するような歯列の跡を服の上から撫でては、去った男のことを思い出していた。
これがなまえと沢城の妙で曖昧な関係に終止符が打たれた時の話だ。今となってはすっかりみょうじなまえは沢城丈の所有物という認識に置き換わり、彼女もそれでいいと思っている。
なまえはカウンターを出ると、沢城の隣に腰掛けた。沢城が店に来る時はいつも決まって貸し切りにさせられる。それは出会った時のように、静かなこの店が気に入っているからだと教えてくれた。当初とは違い、沢城だけ身分や立場と言ったものが変わっていた。だからこそ、余計にこの店に人が寄り付かなくなってしまった。あの、近江連合の四天王が贔屓にしている店と聞いて、一体誰がここに来たがるのだろう。そんな物好きなど今の神室町には存在しない。
「そういや、傷は治ったのか」
「……ええ、今はもうすっかり」
「悪かったな、時々加減が出来なくなっちまってな」
沢城の指先が下腹部へと触れ、左の内腿を撫でた。そこは先日、新しく噛み跡が増えた部位だ。所謂、愛咬と呼ばれる行為だった。セックス中に相手の体を噛む行為で、沢城は必ずと言っていいほどなまえの体に噛み跡を残していく。なまえが肌を露出した装いをしないのは、その跡を見られたくなかったからだ。最近は積極的に体に噛み跡を残していく沢城に感化されつつあり、この間は遂に沢城の体に噛み付いたりもしたほど。内腿に触れていた手がするりと引っ込んでいく。
「じゃあな、」
咄嗟に沢城の手元を見れば、遂に中身のなくなったグラスだけになっており、彼は事務所へ戻るのだろう。去り際、見送りだけでもと着いていこうとすれば、体を冷やすと至極真っ当な言い分で、最後に一度口づけをして出て行った。戯れで噛まれた唇がじんわりと痛む。熱くて、じわじわと痛くて、すぐには消えてくれない小さな痛みを残していった沢城とは、数時間後に別の場所で会うことになっている。そして、またこの体に傷が増えるのだろう。柔ければ甘く噛み、丈夫なら徐々に強さを増していき、どのように跡を残すか愉しんでいるあの男と。
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