名前も知らないスーツ姿の男の頭が真横に弾けた。
吹き出すような血飛沫と呆気なく倒れていく姿にもう意識は無い。
声も無く倒れた男の前には、とある人物が立っている。
黄色の蛇革が目に痛い、テクノカットの眼帯を着けた男。
その手には形の悪い金属バットが握られ、大きく凹んだ箇所からは倒れた男のものと思われる血が付着していた。
ん〜?と何かを確かめるように間延びした声の後に、また勢いに任せてそれを振り回す。
素振りで空を切る音に恐怖が煽られる、少なくともこの場に居合わせている数名の男達は戦慄している事だろう。
路地裏は静寂を保っている。

「お姉ちゃんも可哀想やなァ、こない怖い顔した兄ちゃんに捕まってもうて…、」
「何勝手にほざいとんじゃボケがッ!!」
「…そない大声出さんでも聞こえとるわ、うっさいねん。」

やっぱアレやな、やりごたえの無い奴ほど、よう吠えんねん。
そう言い放った隻眼の男目掛けて、鉄パイプや刃物が一直線に向かっていく。
ほれ、と隻眼の男は持っていたバットを真横にスイングさせた。
その先端が襲ってきたスーツの男達の手元にヒットしていく。
強烈な痛みに手から面白いように凶器がぼろぼろと落とされる。
悲痛な呻き声が蔓延する、それでも間一髪で避けた残りの男達は自暴自棄に突進していった。

「おっ、ええのう!その手に持った得物でワシに一発かましてみせんかい!」

安い挑発に男達はヒートアップする、痛みに呻く者達を除いて。
遂に目の前まで距離を詰めた一人の男は鉄パイプを高く振り上げる、隻眼の男はまるでその動きを見切ったかのように背後を取る。
一瞬にして消えた男の姿を追って数秒、振り上げたままの鉄パイプは振り下ろされる事無く、持ち主の男と共に吹き飛んで役目を終える。
その男の背後を取った後、隻眼の男は躊躇いなく脇腹にバットを強く打ち付けたのだ。
呻き声よりも先に聞こえたのは金属が肉の塊を打つ耳障りな音。
迷わず金属バットをフルスイングして見せる様に、勢いを削がれてしまった者が数名見受けられる。
緊迫した雰囲気に後退る男達、それに釘を刺すように声を上げる。

「なんや自分ら、このまま逃げれる思うとんのか。…平和ボケしとるんは勝手やけど、本気出さな…、死んでまうで。」

低く唸るように言い放たれた言葉に場は支配されていた。
逃げる事を良しとしないその男はバットを肩に乗せ、小さく靴を鳴らして、未だ立ち止まったまま動こうとしない男達へと近付いて行く。

「そこで置き去りにされとる、お姉ちゃん。」

恐怖に言葉が出ない、けれどその男に視線を投げ掛ける。
男はそれを察してくれたのか、更に言葉を繋げた。

「えらい退屈やろうけど我慢や、ワシがコイツら綺麗に片付けるまで待っとき。」

逆転サヨナラホームランっちゅうやつや。と不気味な程に口角を吊り上げて笑っていた。



何度そのバットが振り回された事だろうか。
最後の一人が倒れるまで、絶え間なく聞こえ続けた肉の弾ける音、骨すら粉砕してしまったんじゃないかと思うくらいに痛々しく響いた鈍い音、間髪入れずに静寂を埋め尽くす断末魔の叫び。
耳を塞ぎたくても塞げない状況になまえは俯き、涙が滲む視界で受け身のまま、見ている事しか出来なかった。
それはあまりにも容赦の無い、けれど手際の良さから慣れている人なのだと思った。
容姿からして普通では無いのだが、何より異常だと思ったのは、命を落としてもおかしくない状況で見せた愉しそうな笑み。
その異常性になまえは体を震わせた。
どんな理由かは分からない、けれど、こうして危機的状況から抜け出す機会を与えてくれた、あの男を一概に危険人物とは決め付けられずにいた。

それはまるで死屍累々、あの男以外にこの場に立っている者などいない。
彼の周りに群がっていた男達も全て地に伏しては、赤い水溜りに浸かっている。
それが本人達の血であると知っている、彼との交戦中に散々吹き散らし、止めどなく流れ落ちていったのだ。
もしかしたら、もう息はないのかもしれない。
けれど、返り血すら気にする様子のない、平然とした態度でこちらへと近付いてくる。
かなり振り回したであろう金属バットは大きな凹凸を残して、所々赤黒くなっており、彼はそれを引き摺るように歩いていた。
そして、遂になまえの前まで来ると、身を屈めてその場に腰を落とす。

「…どや、スカッとしたやろ。お姉ちゃんもやらしい事されんでよかったのう。」

その男が見せたのはまた違った笑みである、含み笑いの様に口元に微かな笑みを携えている。
なまえはそこでやっと恐怖で張り詰めた緊張の糸を切った。
糸が切れた、その瞬間に手に入れた安心はなまえの瞳から大粒の涙を何度も何度も落とさせた。
滲む視界の真ん中に、あの男が映る。
しかし、その表情はどうやら何かに驚いているようで、黒目を点にし、口元もあんぐりと開いたままで閉じる気配は無い。
その間にも涙は止まらず、なまえの頬を濡らした。
良いのだ、涙を止める気は無い、まるで生きている実感を確かめるかのようになまえは涙を零し続けている。


「…な、何泣いとんねん、ここは泣くとこちゃうやろ!」

目の前の男は困惑した顔でそう言った。
なまえの反応が彼の予想したものと違って慌てているようだ。

「み、見てみい、お姉ちゃんを攫ったヤツら、みんなボロ雑巾になっとんのやで…?」

ここは笑いどころやろ?なあ?と立ち上がると、その場で手にしていたバットを身近な倒れている男に投げ付けた。
その男はもうピクリとも動かない、本当に死んでしまったのかもしれない。
自然と情けない声が漏れる、それは目の前の彼にもしっかりと聞こえていたようで、更に気まずそうな顔をする。

「ま、まさか…、もうなんかされたんか!?」

男は混乱しているのか分からないが、少し誤解しているようで、なまえは横に首を振る。
そんないかがわしい事は一切されていないと伝えたかったのだが、更に誤解が酷くなっていくだけだった。

「…せやな。よっしゃ、分かったわ。俺も男や、お姉ちゃんの気が済むまで付き合うたるわ!」

うんうんと一人で頷き、右目をきらきらと輝かせて、なまえの肩を掴むと、それはそれは物騒な事を言い放ったのだ。

「海に沈めたろか!ここの連中、全員ドラム缶ん中詰めて、みんな仲良く東京湾や!」

ほんなら、早速用意せな、と上機嫌に懐から携帯電話を取り出すとどこかに電話を掛け始めた。
これはまずいとなまえはやっと声を絞り出して彼を制止する。

「…だっ、駄目です!私は何も、されて無いんです!」
「ようやく喋ってそれかいな…、任せといてや、上手いやり方知っとんねん。」
「だから、駄目です…!だって、それじゃあ、あなたが、」
「ん、俺か?俺がどないなるっちゅうんや。」
「そんなことをして、警察に捕まっちゃうのは、嫌です…、」
「…お姉ちゃん、俺の事心配してくれとんのか…?」

ようやく繋がった携帯電話から相手の呼び掛ける声が聞こえるが、男はなまえをじっと見つめたまま、通話を切ってしまった。
そしてまた肩を掴み、なあ、さっきのは嘘ちゃうやろな?ホンマやろな?な?と揺さぶっては何度も聞き直してくる。
男の顔は肯定的な返事を待っているようで、これで海に沈められる人がいなくなるのなら…、となまえは、ええ、本当です。信じて下さい。と返した。
すると、そうか、心配なんやな、俺の事が、と独り言のように呟いた後、暫く考え込んでから、首を縦に振った。

「お姉ちゃんは優しいんやなぁ、ええのう、俺も優しくされたいわ。」
「えっと、あの、」
「ええのう、ええのう、」
「あの、助けてくれてありがとうございます。…このロープも解いてもらえませんか…?」
「ええで、もちろん。」

せやから、と突然鼻の頭がぶつかってしまうくらいに彼はなまえとの距離を縮めてきた。
はらり、と髪が揺れる、なまえはいきなり真剣味を帯びた表情をして見せる男に戸惑っていた。
あまりにもその表情の変化についていけない、いつの間にか頬を濡らした涙が枯れていた事に気付く。
それよりもなまえが気になったのは、自分の左頬を人差し指でとんとんと叩いている男の行動だった。
表情と行動が噛み合っていない、違和感を覚える。

「ここに、ちゅう、したって。」

時間が止まった。
その言葉を理解するのに時間が必要だった。
え、と声が勝手に口から出ていく程、その言葉は意外過ぎるものだった。

「ほな、優しく頼むで。」
「そ、それはちょっと、」
「なんや、俺じゃああかんのか?」
「そういう事じゃ…、」

ゴクリと唾を飲み込み、分かりました。と告げると、男はほんまかいな!と嬉しそうに笑顔を貼り付ける。
きっと助けてもらえなければ、もっと酷い事を要求されただろう、それに比べれば可愛いものだと、なまえはその男の言った通り、左頬にそっと唇を押し当てた。
先程まで危険な状況だった事を、忘れてしまいそうなくらいに気の抜けた時間だと思った。

触れるだけ、そしてすぐに離れたそれを惜しむように、男は自分の左頬を撫でている。
本当に嬉しそうな表情をしている、なまえは益々この男の事が分からなくなった。
約束は守らな。と男は立ち上がると辺りを見渡し、何かを見つけたのか、少し遠くに歩いていく。
男は長い腕でそれを拾うとこちらへと戻ってくる。
その手には刃物が握られていた、なまえはロープを切る為のものだと分かっていても、自然と体を強ばらせてしまう。

「じっとしとき、下手に動くと怪我するで。」

手元をきつく締め上げていたロープが徐々に緩んでいくのを感じ、体からばらばらとそれが解けていくのを見て、なまえは暫くぶりに立ち上がってみせる。
手足が痺れている、ずっと同じ体勢で放っておかれたからだろう。
痺れる体のことよりも、なまえはまず目の前の男に深く頭を下げた。
今こうして無事に立っていられるのは、この危なげで掴めない性格の男のお陰だ。

「本当に、ありがとうございます。」
「一体なにやらかしたらこないな事なんねん。」
「…分かりません。急に声を掛けてきて、嫌だって言ったら無理矢理こんな、」
「それは災難やったなァ。せやけど、お姉ちゃんも気ぃ付けんと、もう次は無いで。」
「ええ、もう大丈夫です、ありがとうございました。」

なまえはまた深く頭を下げて、その場を離れるべく踵を返す。
男は、真島はその後ろ姿を眺めていたかったのだが、足元に光る何かを視界が捉え、焦点がそれに定まっていく。


「これは……、」

真島はそれを手に取ると、またもや楽しそうに笑った。



***



「…お姉ちゃん!ちょい待ち、待ちぃや!」

なまえを呼び止めるのは、あの男の声だった。
振り返れば、その手にはなまえの携帯が握り締められている。
男に駆け寄り、その距離をある程度縮めた所で、男がそれを差し出した。

「あの、これ、」
「お姉ちゃんのやろ、落ちとったわ。」

携帯を受け取ると、なまえはそれを大事そうに胸元へ引き寄せる。

「…ちゃあんと大切に持っといてや、ええな?」
「はい…!何から何まで、ありがとうございます…!」

もう絶対に置き忘れたら、あかんで。と念押しに言い残すと、男は今度こそ別れを告げるように立ち去ってしまった。


なまえは男が居なくなってから気付く。
ちゃんとしたお礼が出来ていない、きっと彼は偶然に居合わせていて、また会おうとすれば、それが難しいと言う事も。
せめて、名前だけでも、聞いておけば良かった。
ただその言葉が反響している、なまえは胸の内が暗くなっていくのを感じた。
そして、手渡された携帯電話を見つめては、それを受け入れるようにまた歩き始めた。

優しい人だった、と先程の出来事だと言うのに、なまえは何度も思い返す。

また会えたら…、なまえは自分を慰めるような、その言葉を飲み込むと、大通りの人混みの中へと紛れて行った。