今日ほど、時間が経つのが早いと思った日は無かった。
真島からのキャンセルの連絡も無ければ、この後に待ち構える仕事も無い。
いつの間にか夕焼け空に夜の青が流れ込む。
その青の中に微かに光るものを見つけた、これから夜が始まる。
彼との約束も夜からだった、なまえの体にもたれ掛かる疲労がゆっくりと溶けていくのを感じていた。
「もしもし、」
不安そうに問い掛けた言葉の後に聞こえてきたのは、今日の約束を取り付けた相手の陽気な声。
「お、お姉ちゃんやないか!俺に電話っちゅう事は、この後大丈夫なんやな?」
「はい、大丈夫です。真島さんは予定、大丈夫ですか?」
「勿論や。何やったら明日も丸一日、空けといてもええんやで。」
「え、明日も、ですか?」
「せや、お姉ちゃんがもっと俺と居たい言うとったやろ。」
「そ、そうですけど、それは、その…、」
「そない照れる事ないやろ。ほんまにお姉ちゃんは俺が好きなんやなァ…。」
ま、真島さん!と声を荒らげると、すまんすまん、と大して悪びれていない声が聞こえた。
真島の言う通り、確かに照れはあったが、先程の言葉に嫌な感じはしなかった。
「真島さん、この後の事ですけど、どこかで待ち合わせしますか?」
「せやな。この前行った喫茶店の場所、覚えとるか?」
「はい、覚えてます。」
「そこで待ち合わせや。くれぐれも迷子になったらあかんで、…あとそこら辺の阿呆に絡まれんようにな。」
「…気を付けます、」
「正直、安心出来ひんのう。何かあったら、取り敢えず電話くれや。頼んだで。」
返事をすると、また後でな。と言い残して、通話が終わる。
携帯を鞄にしまうと、なまえは初めて真島に連れられた喫茶店へと向かい始める。
あの時見慣れなかった神室町が、いつもの景観へと戻って行く。
ぎらぎらと目に痛いネオン、黒い波のように町に流れる人混み、そして見渡す限りに光り輝く風景。
煌びやかな光の中を歩いていく、その周りの雰囲気がどこか大人びていて、神室町のそんな所が好きだと思えた。
仕事終わりだと言うことも忘れて、なまえは疲れ知らずのその足で、着実に待ち合わせ場所へと向かっている。
疲れ知らず、そうとは言っても腹部の妙な寂しさを感じると、やっぱりこの時間帯は空腹になるのだと内心項垂れた。
今日もきっと、ええ食べっぷりしとるのう、お姉ちゃん。と言われるに違いない。
街角から漂ういい香りもなまえの食欲を煽る、早く真島さんに会いたいと零すなまえの足を、もう少しだけ急かす事に成功した様だった。
それは人混みの中、遠くからでも彼が居るのだと分かった。
やはり彼は異様な雰囲気を放っている、そこに居るのが場違いの様にさえ思ってしまう。
けれど、なまえはその異様さが彼らしいとも思っていた。
それのお陰で、なまえは疲れの滲む顔を綻ばせられたのだから。
駆け寄る足は無事、待ち合わせを取り付けた彼の真横に止まった。
「真島さん、」
「待っとったでぇ、お姉ちゃん。ちゃんとここまで来れたんやなァ。」
「はい、無事に来れました。…えっと、もしかして、待ちました?」
「おう。せやけど、待った言うても数分や。」
「ごめんなさい、待たせちゃって、」
「謝る必要あらへんで。お姉ちゃんやったら、ずっと待っとってもええ。」
「あ、ありがとうございます、」
「ほな行こか。」
真島がこっちや、と手招き、なまえを自分の横に立たせると、二人は並んで歩き出した。
夜の町並みで見る真島の姿はとても馴染んでいるように見えた。
夜の闇に飲まれ過ぎること無く、街のネオンにも眩んでいく事の無い、その姿が彼の雰囲気を更に深めていく。
夜闇に上手く紛れてしまう事だって出来てしまいそうで、なまえは自然と真島の揺れる腕に手を伸ばしていた。
それになまえが気付いたのは、不意にお互いの手の甲がぶつかる様に触れてからだった。
驚きに声を漏らした所で、隣から真島のものと思われる笑い声が聞こえてくる。
きっとその口角を思いっ切り吊り上げて笑っているに違いない、その想像は容易で、答え合わせと言わんばかりに真島を見る。
「夜はお姉ちゃんも積極的になるんやなァ、ええこと知ったわ。」
「いや、そんなんじゃ…、ま、真島さん…!」
「そない顔赤うして言っても迫力無いで。寧ろ、図星ですって言うてるもんやないか。」
「あの、迷惑でしたか…?」
なまえがそう口にしたのが意外だったのだろう、真島は数秒言葉を詰まらせ、そないな事あるかいな。と遠慮がちに揺れるなまえの手の内に自分のそれを重ねて握った。
手のひらが触れた瞬間になまえの体温が少しばかり高くなった気がして、頬が熱く感じるのも、きっとそのせいだと、なまえは夜風に熱が攫われるのを待っていた。
人混みの中をこうして歩いていて良かったと思う、そして真島の左側に立てた事も。
密やかに胸を焦がす姿に真島は気付かないだろうし、そしてこうして大衆に紛れてしまえば、この時間が二人の秘密になるようで。
次の言葉を口にするまでの間、なまえはその胸のときめきや心の柔らかな部分が焦げた感覚を素直に受け止めようと努めていた。
「ここ、入ろか。」
真島の足が止まってすぐになまえの足も同じ様に止まる。
その声に顔を上げると、目の前には大きな看板を構えた居酒屋と思われる店があった。
いくつか店の前に置かれた幟、積まれたビールケース、ガラス戸から覗く店内に貼られた手書きのメニューの数々に、なまえは笑みを零した。
「ここじゃ、あかんか?」
「いいえ、そんな事ないです。ただ、真島さんらしいなって。」
「…あんま洒落た店やと性に合わんからのう。お姉ちゃんはほんまにここでもええんか。」
多少の我儘なら聞いたるで、と再確認して来る真島に、大丈夫です。と答えると、ここの刺身が美味いんや。と何処か嬉しそうな表情でなまえの手を引いて店内へと入って行った。
ガラス戸の前に垂れる暖簾を潜ると、煙草の強い匂いとその中に漂う美味しそうな香りになまえは瞬きを挟んで店内を見渡す。
真島はその間も繋いだ手を離さず、なまえと同じ様に見渡すと、あそこやな。と声を掛け、手狭な店内を歩き始めた。
どこのテーブルも灰皿とお酒、それと少しのつまみとおしぼりが並べられていて、ついなまえも一杯頂きたい気分になっていた。
真島に連れられたのは丁度二人が座れそうな席だった。
質素で大きすぎないテーブルに木の椅子、それにようやく腰を落ち着かせた二人はそれぞれに備え付けのメニューに手を伸ばした。
真島の手には日本酒や焼酎などのアルコールを含むドリンクメニューが、なまえの手には定食やおつまみが並ぶフードメニューが握られている。
「真島さんは、」
「お姉ちゃんは、」
騒がしい店内でお互いの声が重なった途端、二人は目にしていたメニューから顔を上げ、視線をぴったりと合わせた。
くいっと顎を動かし、真島はなまえにその順番を譲る。
「真島さんは何飲まれるんですか。」
「せやなぁ…。お姉ちゃんは今日飲むんか?」
「私は、…折角だから、頂こうかと思います。」
何飲むんや、と手渡されたドリンクメニューに目を通すと、ずらりと様々な銘柄の酒が並んで記載されており、なまえはその中でも比較的に飲みやすそうなものを選ぶ。
お姉ちゃんも飲むんやったら俺も飲むで、と真島も前屈みにこちらのメニューを見やる。
きっと真島さんは最初から飲むつもりだったに違いない、となまえは自分が手にしていたメニューを真島へと差し出した。
「お姉ちゃんは決まったんか、」
「はい。あ、でも何食べようか迷ってます、」
「好きなモン食うたらええねん、きちんとその腹、一杯にしてくれんならな。」
「…なんか、真島さんと会う時っていつもお腹減ってるような気がします。」
「ええやないか。またあの顔が見れんのやったら、腹一杯に食うてもらわな、連れてきた甲斐が無いわ。」
「じゃあ…、」
控えめにフードメニューのおすすめを指差す。
真島は、お、と目を丸くし、ええ選択や。となまえを見た。
その指先は『お刺身定食』の文字に止まっていた。
真島さんが美味しいと言っていたので、それにします。と少し照れ臭そうに見つめ返したなまえの瞳が、あの時と同じく輝くのを真島は頷く合間に見つめていた。