急ぎ足の帰路は緊張感が漂っており、手にした小箱に不安が過ぎる。あの日を境に日常はささやかな変化を迎えた。すれ違いの経験がある男女は皆、こうなのかもしれないが、内心まだ慣れていない。元々砕けた態度を得意としない性格も相まっているのだろう、彼女に対してまだぎこちなさが抜け切っていないような気がしている。それでも、名を呼び、呼ばれ、触れ合う時間の重みは随分増したと実感する。だから、それを理由に今日の自分は綺麗に包装された小箱を持って帰りたかった。
 それを初めて見た時、彼女に似合うだろうと思い、衝動的に店に入っていた。店外のショーケース越しに控えめな輝きを放つ、深緑の美しいそれはブローチだった。フォーマルなドレスに似合うように配置された深緑に居ても立ってもいられなかった。人は人生の内で避けられない出会いを果たすことがある。それは人であり、物であり、場所であり、時間である。ただ、偶然に見つけた出会いが不思議と彼女に結び付いていく。与えられることの多かった彼女との時間に、自分も一つ贈りたかったのだ。とてもよく似合うと思ったから。そんな強い思いに突き動かされて、北村はル・マルシェの店員に声を掛けた。


 そして、今は彼女を前にして、ぎこちなくただいまを告げたところだった。いつもと様子が違うのが伝わっているようで、彼女はどこか心配そうにこちらを見ている。玄関先で突っ立ったままの自分はどう切り出せばいいのか分からずにいた。そんな自分を連れて行こうとする彼女の手に、後ろ手に隠し持っていた小箱をそっと押し付ける。本当は何と言って渡そうか考えていた。それは昨晩に始まり、先程の帰路でもそうだった。しかし、当の本人を前にしてしまったら、繊細に組み立てた言葉は音もなく消えてしまった。

「これは……?」
「ル・マルシェで見つけたんだ」

 ル・マルシェと聞き、なまえは目を丸くして手の内の小箱を見る。彼女もその店がどう言った店か、知らないわけじゃない。寧ろ、休日の日に神室町へ出ると、必ず足を止めてしまうと言っていたくらいだ。ショーケースのきらびやかなドレスやジュエリーに目を惹かれてしまうのだと、恥ずかしそうに言っていたのを覚えている。そして、彼女がよく知っているのはその店がどんな店かだけではなく、平均的な値段についても同様だった。質のいい物を適切な価格で取り扱っているのだから、なまえはいつの間にか小箱を慎重に抱えていた。その姿にちぐはぐさを覚え、笑みがこぼれる。抱える程でもない大きさの箱を緊張した顔で抱えている彼女に、密かに組み立てた予定を白紙に戻し、自分の言葉をゆっくりと並べ、伝えていく。

「なまえさんに似合うと思ってな」
「で、でも、その、……高かったんじゃないですか、」
「……それは、」
「ど、どうなんですか、」

 不安そうな彼女にこの事を告げるのが申し訳ないと思えた。自分は買い物ではやたら滅多に衝動買いなどしないタイプの人間だった。あのブローチを見つけるまでは。

「……実は、値段も見ずに買ってしまったんだ」

 まずは取り置きと言う形にしてもらい、提示された金額を事前に用意し、先程受け取って来た。その場の勢いと言うのは恐ろしい。その金額を目にしてようやく高額な買い物をしているのだと気付かされた。正直、やめようと思えば取りやめることも出来た。だが、心を突き動かされたのはこのブローチだけだった。ならば、今は引く時ではないと購入を決心したのだ。大きな金額であることは痛手に変わりなかったが、それでもなまえのことを思うと後悔はない。

「確かに決して安い買い物ではなかった。でも、俺はなまえさんに似合うと思った、そのブローチを諦めたくなかったんだ」

 そこまで聞いて初めて、なまえは腕の中にある小箱を手に取り、静かに見つめていた。開けてもいいですか、と問われ、勿論だと開封を促す。今の段階では、どちらに転ぶかはまだ分からない。あまりの金額の高さに受け取れないと返されるかもしれない。もしくは素直に受け取ってくれ、大切なものの一つとして扱ってくれるかもしれない。願わくば、後者であることを祈る。
 二人、廊下に立ちっぱなし。一人は帰って間もない男と、その男を出迎えに来た女だ。やはり、俺は頭が固いのかもしれない。と本心を噛み砕いて吐き出せば、そんなことない。と食うように発した彼女に驚く。

「あ、ごめんなさい。その、突然」
「なまえさんがそんなことを言うのは珍しいな」
「だって、こんなに素敵な物を用意してくれたのに、」

 せっかくの気持ちを、そんな風に言って欲しくなくて。と懸命に気遣ってくれている姿を見てしまうと、自分のとった行動に間違いはなかったのだと告げられている気がした。今の流行りを知らなければならないことや人気の高いものを探すこと、多忙を極める自分にそこまで割ける自由はない。だからこそ、不安だった。彼女が贈り物を拒否してしまったらと考えると、してこなかった不足の努力を恨めしく思っていただろう。しかし、結果はそうではなかった。彼女は、なまえはいつだって自分の望む言葉をかけてくれ、自分の望む表情を見せてくれる。こんな良縁に恵まれることはあるだろうか。

「今まで色んなものをもらってきたけど、こんなに素敵なものは初めてです」
「今まで……?なまえさんへの贈り物はこれが初めてだが、」

 彼女が言うには、形のあるなしに拘わらず、自分から与えられてきたものは多々あるのだそうだ。例えば、となまえは過去を読み返す。自分と出会ってからすれ違いを経た今に至るまで、彼女は受け取って来たものを並べて行った。優しさ、親切心、あたたかさ、胸をくすぐるような言葉、焦れったい態度。そして、愛おしさ。日頃の気遣いすら、嬉しかったと語る彼女に心を揺さぶられる。そんなことを言ったら、自分だって同じだ。彼女から与えられたもので今の自分が構築されている。彼女が居たからこそ、自分の胸の奥に誰かを愛する感情が生まれ、育まれたのだと言える。

「俺も今までにたくさんのものをなまえさんからもらってきた。そのお返しと言っては何だが、」

 受け取ってもらえるだろうか。
 今一度、問う。彼女ももう不安に思うことはないと頷いてくれる。大切に小箱を抱えている姿に自然と体は動いていた。事前に訊ねることを忘れさせるほど、心が強く惹かれていた。どうして、いつも彼女は心地良い存在でいてくれるのだろう。華奢な体を抱き締めていると、これは夢なのではないかと錯覚する時がある。しかし、夢ではないのだと腕の中の彼女を見て安堵する。
 だが、以前よりも深まった関係に、欲求が自我を持ち始めていた。日に日に増していく欲求を抑えつけるのも苦しくなって来ている。しかし、無理には進みたくないのだ。決して独りよがりで無理強いをさせたくないのだ。だから、強く抱き締めてしまうことを許して欲しい。こうでもしなければ、自分を律せないと思っていたのに、


「……私は北村さんさえいてくれれば、何も欲しいものなんてありません」

 彼女の何気ない一言が理性の壁にひびを入れてしまった。一瞬で彼女への疑惑が強まる。もし、彼女も自分と同じものを抱えていたら?そして、彼女もそれに耐えている状態であったなら?今し方、明かしてくれた言葉の真意は?堅苦しい自分には到底解けそうにない難問の答えを、全て説いてほしいと思った。唇を塞ぐ寸前で立ち止まれたのは、最後の理性の良心のおかげだったのかもしれない。
 腕を解き、何食わぬ顔で日常をなぞる。自分の懐にいた彼女に色情の影は見えなかった。たったそれだけでも知ることが出来て充分だった。衝動の引き金は引かなくて正解だったのだと分かったくせに、強引になれなかったことをどこか悔やんでいる。そして、その後悔を煽るように、日常に戻る手前に見た彼女の横顔は僅かに色付いていた。自分の影に潰れていただけで、色情は彼女の元に訪れていたのだと初めて知り、今夜何かが変わってしまうような予感がした。