焦れったさに身悶えしている。夕食時であると言うのに、その準備すら出来ないでいた。北村はいつものように上着を脱ぎ、気楽な装いになる。しかし、なまえは未だに浮かない顔で座っていた。先程の面影が浮かぶ、色情の滲む異性としての姿。理性はまだひびが入った程度で、沈黙を保っている。それで良かったと安堵していたのは、つい数分前のことだ。だが、今はどうだろうか。食事を疎かにし、時間を無闇にすり減らしているだけだった。
 正直、食べる気にならないのが本音だ。例え、食卓に皿が並べられていても、全く口をつけずに片付けてしまってもおかしくない。それほどまでになまえと北村は食欲を感じていなかった。その代わり、胸の奥深くにあり続けるのは貪欲に相手を求めたがる、一方的な欲求だった。しかし、互いにそれは自分だけが抱く不純なものだと認識しており、だからこそ微妙な距離感のまま沈黙している。相手のことを思えば、そこまで踏み切れないのが現状だ。ましてや、相手を大切に思う二人が勢いなどの不確かなものに乗じて、互いを奪うような真似が出来るはずもなく。募る。少しずつ胸の余白を少しずつ圧迫し、不純な動機に迫っていた。

「なまえさん、」
「なんでしょう……?」
「どうして、俺達はこんなにも他人行儀なんだろうか」
「それは、」
「何か、互いに言い出せないことがあるんじゃないのか」

 レンズの奥にある、北村の躊躇いがちな目を見た。なまえは今の北村が先程の照れ臭そうにしていた北村とは違うのだと察する。まるで、よからぬ熱に浮かされているように見え、なまえも動揺を隠せない。北村の一言に誘われるように、なまえは口を開いた。

「さっきまでの私はとても嬉しくて浮かれていたんです」

 でも、と続ける彼女はいつの間にか女の顔をしていた。空腹を忘れるほど目の前に欲するものがある。理性を捨ててしまいたいと思うほど、抱いた情欲は波打っている。今までも何度か似た感情を抱かされたが、今日だけは違う。そう、断言出来た。傍にいたい、話したい、手を繋ぎたい、触れたい、触れられたい、キスがしたい。それらよりも勝る感情が、今この胸に詰まっているのだ。

「でも、今はそうじゃありません」
「なまえさんの今の気持ちは、聞いてもいいのだろうか」
「……聞いてくれますか、その、北村さんが嫌じゃなければ」
「ああ、俺はなまえさんの気持ちが知りたい」

 彼女は目を伏せて深呼吸した後に火照った唇で紡ぐ。もっと傍にいきたい、と。だが、本人もどこまでの線引きをしているのか分かっていないようで、北村もその言葉の解釈に苦戦していた。もっと、とはどこまでのことなのだろうか。自分のことだってある、なまえが考えているよりも遥かに自分の方が貪欲であったなら、彼女を怖がらせるだけだ。なまえは気まずさに視線を泳がせている。自分はと言えば、そう口にした彼女の居心地が悪くなってしまわないように、続いて口を開く。

「前にも言ったと思うが、遠慮する必要はない。なまえさんの好きにしていい」
「北村さんは、どうなんです」

 核心を突かれる。自分の言葉に嘘偽りはなかった。しかし、それはある意味、ただの綺麗事のようにしか聞こえないものである気がした。なまえにそこを突かれ、北村は黙り込んでしまった。寡黙な面持ちとは別に様々な思考が脳裏を駆け巡る。取り繕いたいのではない、臆病になっているだけだった。
 なまえは北村の言葉通り、遠慮することなくその場を離れ、目の前へと迫って来た。咎めることなどない、今さっき自分が許したことなのだから。焦燥する瞳で彼女を見れば、彼女もまた伏し目がちにどこかを見ている。彼女の見せる表情が、ぐらりと理性を揺さぶっていた。彼女の名を不意に呼べば、弾かれたような反応でごめんなさいと返ってくる。

「……ごめんなさい、変なこと言って」

 今日のわたし、なんか変ですね。と無理矢理作った笑顔で離れていこうとする彼女を、

「いや、おかしくはない。俺が狼狽えているせいで、なまえさんに誤解を与えてしまった」

 引き止め、引き寄せ、引かれ合った。それ以上の会話はなく、静寂の中で二人の輪郭がそっと重なる。音もなく触れるだけのそれに、あとはだらだらと引きずり込まれていく予感がした。北村が置いた手の温かさになまえは胸を高鳴らせ、突然のキスだと言うのに抵抗のないなまえに、北村はどうにかなってしまいそうだった。
 男の質素な部屋の壁際で二人、唇を重ねている。触れてしまった以上、そこから先へは自然の成り行きになるはずだった。しかし、男は女を大切にしたいと日々考えており、今もまだその考えは持ち続けている。例え、理性が事切れようが、彼女の許しが出ようが、変わりはしない。触れて間もなく、唇が離れていくと真っ先に北村が告白する。

「……すまない、今日はこれより先のことは出来そうにない」

 体は既に燃えている。北村も、なまえも体の奥底に灼熱を宿しており、そこから発せられる過剰な欲求に理性を蝕まれていた。だが、北村は自分の理性に首輪をかけたのだ。こうなってしまったら、後は肉体関係が構築されていくだけなのだが、北村は必要な備えがないことを明かす。なまえはその言葉に考え込んでいたが、この後のことを考えるとすんなり理解することが出来た。この部屋にはあるべき思いやりがないのだと告げられているのだ。しようと思えば、出来る行為であっても相手のことを第一に考えてくれる姿勢に、なまえは充分だと答えた。

「……私も今日はこれ以上のことをする余裕がありません。でも、その、」

 もっと触れていたいです。と足りぬ背丈をつま先立ちでカバーしようとするなまえの姿に、衝動の歯止めが効かなくなる。肉体的な深い繋がりに至れはしないが、触れることだけは出来る。彼女の控えめな言葉につられて、北村はもう一度吐息を千切った。髪を優しく絡ませ、後頭部に手を添えるとやけに満たされていた。まるで逃れられないように、彼女の自由を奪っているように感じられたからだろうか。背徳的だった。大切にしているはずの相手の自由を奪い、自分の好きなようにしている今が。良くないと分かっていればいるほど、秘めたる欲求に火がついていく。止まることを知らずに燃え広がる炎は理性や道徳までも奪い去ろうとしている。だが、強い意志で踏みとどまれば、ぐいっと手を引かれ、その手の持ち主を見る。
 唇を僅かに濡らした彼女だった。彼女が、折角取り付けた首輪を緩めてしまった。飢えた唇の隙間から真っ赤な舌が覗く。飢えた唇をしていたのは自分も同じで、気付いた頃には欲しがるがままにそれを奪っていた。触れるだけでは飽き足らず、吸い付き、愛撫し、舐め取り、舌先に絡ませる。越えられない一線があるのにも拘わらず、二人は今の自分達に許されているところまで求め合っていた。求められ、逃れられぬ指先が掴む背に酷く煽られている。優しさを取り繕うともせず、欲するままに奪われる心地良さに酷く煽られている。今まで触れてこなかったことを悔やむような感覚に、己の欲深さを知った。

 堕落の手を引いた彼女が不意に胸元へ手を滑らせる。指先で胸板を叩くなまえに、北村は走らせ過ぎた欲求にブレーキをかけた。自身の腕の中にある愛しさは摩耗していたようだった。目尻がゆったりと垂れており、その中の瞳は恍惚に染まっている。上手く息継ぎ出来なかった唇は小さくありながら、懸命に呼吸を整えている。息を切らした姿を見られたくないのか、口元に手を添え、飢えた唇を隠している。彼女は彼女なりになけなしの理性で、最後の一線の手前で踏みとどまっていた。これ以上に深くなってしまえば、当初言っていた配慮を忘れ、無理強いしてしまうことになると、北村も急いで蕩けた唇を真一文字に結ぶ。

「息苦しくないか」
「わたしは大丈夫ですから、」
「それなら、いい」
「北村さんは大丈夫ですか」

 咄嗟に大丈夫であると返してしまいそうだった。しかし、今の自分は普段の自分とは違い、余裕もなく、理性も確かなものではない。だからこそ、敢えて北村は大丈夫じゃないな、と返した。すると、その言葉が意外だったようでなまえも、分かります。とだけ口にした。互いに同じ気持ちでいられる内に北村はある事を伝えておきたいと思った。これを口にするなら、自分からの方がいいと考えていたからだ。

「なまえさん、聞いて欲しいことがあるんだ」
「なんでしょう、」
「恐らく、俺達が次に顔を合わせた時には今日みたいにはならない」
「今日みたい、って」
「俺は踏みとどまる自信がない。大切な準備を済ませ、なまえさんを前にしたら」

 それでも構わないのなら、次の予定を教えて欲しい。
 北村の言葉を聞いたなまえは数秒間口を閉ざしていたが、まるで何かの決心がついたかのように頷き、週末に会いたいと告げた。北村も後から頷くと、遅くなる前に送ろう。とだけ口にし、なまえの手を取った。力なく握り返す手に切なさを感じ取れば、自分も本当は同じ気持ちだと胸の奥で呟いた。