二人は同じ室内にいた。あれから数日が経ち、約束の日に二人はこの部屋に集い、沈黙に甘んじている。なまえは北村が好きだと言っていた、ワンピースを身に着けていた。胸元には繊細な輝きを放つ、贈り物のブローチがある。らしい、と言えば、らしかった。女らしさと言うものを表現するには申し分のない装いだった。通い慣れた部屋に女らしさを纏ってやって来るなど、初めてのことだった。今までは飾らない関係だったのだ、それが突然男女の仲に発展してしまうと、そう簡単には戻れない部分がある。これではまるで不純、まるでそう言ったことの為だけに顔を合わせているようだった。あながち、間違いではないのだが。
 恋の自覚はとても繊細で、臆病さの何たるかを教えてくれる。しかし、愛の自覚は同様に綺麗であるとは言い切れない。成熟した体と心で、愛とは何たるかを告げられるのだ。日に日に増していく幸福感やふとした時にすれ違う物悲しさ、独り善がりだと自分を慰め、怒りの上手い逃がし方を知る。当たり前になってしまった日常の、僅かな一瞬にそれは宿るのだろう。だが、人はその愛しさを容易に見失う。初めから、そんなものなど存在していなかったと言うかのように。それではあんまりだから、立ち止まり、寄り添い、分かち合うことが出来る相手と巡り合わなければならない。その答えが今夜、見つかるような予感がしている。二人は、初めて日常を放棄した。いつも通りや当たり前を捨てて、薄暗がりの闇に身を任せている。どこか頼りないリビングの照明もやがては消えるだろう。今はまだそのきっかけを互いに言い出せずにいるだけだ。

 視線を逃がせば、同じようにこちらへと逃げて来た視線とぶつかる。眼鏡のレンズの奥で目を伏せた北村に、自分達が今までにないほど緊張しているのだと気付かされた。そんなの、らしくないではないか。ねえ、と鳴いた。北村は弾かれたように、こちらを見た。私のこと、ちゃんと見てください。と迫れば、恥じらいつつもしっかりと自分を捉えてくれる北村の瞳を見た。畳の上、吐息は間近、辺りは暗がり。女は男の体温を感じていたいと、腕を伸ばし、絡め取り、そっと抱き締める。膝立ちの姿勢であるが故に、北村の顔はなまえの懐に埋まっていた。

「……緊張、しているんだな。俺も、なまえさんも」

 胸元に耳を添えているらしく、自分の胸の高鳴りが北村に筒抜けになっていた。多少の恥じらいは生まれたが、今日ここへ来るということはそう言った覚悟をした上での決断だ。今更、逃げ出したりはしない。逆立つ髪を撫でれば、大きく温かな手が背中へと回された。何度も優しく背筋を撫で、まるで緊張を解してくれているかのようだった。

「……わたし、いつでも大丈夫ですから」
「ああ、それは俺も同じだ。だが、」
「だが?」
「歯止めが効かなくなったら、と思うと、あまり自信が持てずにいる」

 珍しく北村の弱気な姿を見た。今までは自分が抑圧して来た感情のことばかりを考えていたが、北村にも抑えがかかった感情がある。そして、その理性が、抑えがなくなった時、全てが自分へと向けられるのだ。恐ろしい反面、どこかそれを欲している自分がいる。惹かれあった二人だ、今更どのように強大な力量をぶつけられても、変わることはないと信じている。だから、なまえはもう一度だけ逆立つ髪を撫でた。

「じゃあ、北村さんはどうしたいですか」

 なまえの問いに、北村は伏し目がちだった瞳を向けた。薄暗がりとは言え、見ようと思えば見えるものがある。どんな顔をしていたのだろう、北村に熱視線を注いでいる自分の顔は。彼は何を感じ取ってくれたのだろう。背中に置かれた手のひらが徐々に熱くなっていくのを、背筋で感じていた。

「俺は、なまえさんが欲しい」

 その言葉に離れられなくなった。背中に置かれていた北村の手も、いつの間にかなまえの手を握り締めており、解けない。なまえは膝立ちの状態から床へと座り込むと、そこから更に押し倒されていた。自分の上には意中の男がいて、目の前の熟れた体を欲している。まずは手を膝に這わせていた。ワンピースに合うようにと履いたストッキングを何度も撫でては、小さく震えるようなため息を漏らす。
 面倒などではないと分かった。北村がため息を漏らしたのは、これから行う自分自身の行動を憂いていたのだ。スカートを太腿までたくし上げ、指先はするりと中へと潜っていく。そして、臀部のストッキングの繋ぎ目に触れると、何かを抑えているかのような声音で、こう問い掛けた。

「なまえさん、一つ訊ねておきたいんだが、」

 今、履いているものは、その、なまえさんにとって大切なものじゃないだろうか。
 なまえはその問いの意味がわからずにいると、北村はもう少し噛み砕いた表現でもう一度問い掛けた。

「もし、かまわないと言うなら、」

 囁くように刺激の強い言葉を耳元で零された。肌を包み隠しているそれを裂いてしまいたいと、どこか控えめに聞こえる声音だった。太腿に置かれた手の内は熱いくらいに熱を帯びている。時折、居心地悪そうに指先をぎこちなく動かしては、こちらの返事を待ち続けている。許しを口にすれば、北村は欲望を少しずつ紐解いていった。決して焦らず、先を急がないようにと不自由そうに見える姿になまえも募る何かがあった。
 太い指先がストッキングに触れた瞬間、女の悲鳴によく似た音を立てながら、その薄布を破り取る北村を見た。裂けた隙間から素肌が覗き、次第に何も纏わぬ素肌を露呈させ続けていた。北村はそのことに対してとても気を配ってくれていたが、なまえからしてみれば、好きにしてほしいと思える瞬間だった。だからこそ、まだ躊躇いがちな北村にたった一言、脱がしてくれますか、と訊ねた。

 熱い静寂の中、二人の呼吸だけが響いている。ストッキングを裂いた指先は、女の体を包み隠すベールをゆっくりと剥ぎ取っていった。そして、一枚、二枚と剥がれ落ちて行く度に男は女の素肌に唇を寄せた。足の甲から始まり、内腿、スカートを捲し上げて露出した臀部に下腹部へと、それは落とされていった。熱い吐息の漏れる唇が肉に触れれば、ぞくりと体を何かが伝っていく。その何かが走り去った後はただ漠然と愛おしさが募るばかり。なまえはもどかしさや焦れったさを感じてはいなかった。今、この瞬間を確かに刻み込んでいた。肌に、目に、記憶に、胸に、心臓に。もっと欲しいからと、遂には胸元までワンピースをたくし上げていた。男の目に宿る色情に次を待っている。
 男の表情は切実で、欲に駆られている人間のものだった。だが、理性は手放していないのだろう。早く平らげてしまいたいと強欲になっている反面、真一文字に飢えた唇を結んで愛撫を優先させているのが見てとれた。外気に触れる肌は粗熱が取れていくようで心地良い。しかし、燃える体の芯は決して冷めず、どろどろと融解ばかりを繰り返している。

「綺麗だ、とても」

 褒められるような体型ではないと分かっていた。モデルのように華奢であることもなく、人並みのどこにでもある体だ。それでも、北村は限界寸前の理性のまま、そう呟いた。なまえは自然と体を起こすと、北村に対して背を向けた。背に流れる髪を片方に手繰り寄せ、背中にある留め具を外して欲しいと口にした。この留め具を外してしまえば、その後の着脱は楽なものになると。しかし、なまえはただそれだけの為に留め具の話を北村にした訳ではない。悪戯に情欲を煽りたかった訳でもない。ただ、もっと身近に、すぐ近くに北村を感じていたいという素直な人恋しさからの行動だった。