「なぁ、本当にいいのかよ。」
「うん、大丈夫。部屋は狭いですけど、人ひとりくらい寝かせてあげられますから。」
「いや、でもよ、」
「あちゃ〜、完全に寝落ちてますよ、春日さん。」

 空っぽになった鍋やビール缶を片付け終え、帰りの支度をしている中、たった一人だけ帰る気のない人間がいた。帰る気がないと言うより、このままでは帰れないだろう人間だ。その人物は濡れた目元をそのままに、自分の腕を枕に床で眠っている。微かに聞こえる寝息、二、三度揺らしてみても起きそうにない程、眠りは深い。そこでなまえが決断したのは、床に大きな体を預けている人物、北村を一晩泊めるということだった。
 秋山も先程から何回もその体を揺らしているが、全く起きない。北村は、……ううん、と小さく唸り、寝返りを打っては、こちらに背を向けてしまった。春日達の表情は、やれやれ、といったところで、口元にはため息が数回浮かんでいる。

「やっぱ、飲ませ過ぎちゃったかな〜、」
「おう。だから、辻、お前がなんとかしてやれって。俺達も手伝うからよ。」
「別にいいけど、こんなぐでぐでの北村サンを一人、自分の部屋に置いといていいワケ?結構、危ないんじゃない?」
「……辻くんの言うことも一理ありますね。泥酔した人間が正常に動けるとは思えませんよ。」
「じゃあ、やっぱりなまえに任せるしかねぇのか……?」
「それが一番いいと思うよ。北村サンのためにも、」
「今日はなまえちゃんに甘えましょう。」

 本当に、本当にいいのか?と念入りに聞いてくる春日にもう一度、はっきりと大丈夫だと告げれば、そうか。と納得してくれたようで、悪ぃ、今日一晩だけ頼むわ。と困った顔をしていた。

「いいか?何かあったら、遠慮せず俺に電話して来い。そしたら速攻で北村回収しに来てやっから。」
「ありがとう、春日さん。」
「まあ、こうなっちまったのは俺らのせいでもあるからな。」
「でも、一番驚くのは北村さんですから。」
「へへっ、そりゃあ違いねぇ。」

 それじゃ、明日の朝、空き缶回収ついでに顔見せっからよ。と春日は秋山、真弓、ミツ、辻を連れて、この家の玄関へと向かっていく。外まで見送りに行けば、またな。またね。またね〜。じゃあ、また。また、お願いします。と五人は軽く手を振って、それぞれの帰路についた。
 その背中が夜の闇にぼやけるまで見送り、部屋に戻ると、一人壁に寄りかかっている人物がいた。どうやら、北村の目が覚めたらしい。


「あ、目覚めました?」
「……なまえか、」
「へ?あ、はい、えっと、私です……!」
「なにをそんなに驚いているんだ、」

 顔から酔いの赤みが抜けない北村は柔和に笑う。確かに秋山の言っていた通り、酔った人間に正常な動きは出来ないようだ。北村はいつもなまえのことをみょうじと呼ぶ。それがまさか急に下の名前で呼ばれるとは思っておらず、なまえは面食らってしまった。

「そうだ、お水、持ってきますね。」
「水?……いや、大丈夫だ、」

 北村の伸ばした手がなまえの手を掴む。体温が高いようで、その手のひらは温かい。そして、ぐっと引き寄せられ、なまえは北村の正面に座り込む。柔和な笑みは崩れず、北村の雰囲気を柔らかなものにしてくれる。

「今日は本当に楽しかった。ありがとう、なまえ。」
「い、いえ、私も楽しかったです……!」
「……こんな賑やかな酒の場は久しぶりでな。」

 ぐす、と聞こえ始めれば、目の前の北村の瞳がゆっくりと潤み始める。うるうる、と目の縁にそれは溜まっていき、眼鏡の奥で涙は次第に大きな塊になっていく。き、北村さん、大丈夫ですか、と問い掛ける。ああ、本当に、本当に楽しかったんだぁ……、と遂に瞳のダムは崩壊してしまった。ぼろぼろと涙の塊が溢れて落ち、北村の眉間には深く皺が寄せられた。

「ぐぅ……っ。なまえ、……俺は、俺は、皆で集まれたのが嬉しくてだな、うう……。」

 まるで子どものように拙い言葉を並べて、何かを一生懸命に伝えようとしている北村にくすぐったさを覚えた。胸の奥がむずむずとして、じんわりと暖かくなっていく感触がなまえの手を動かした。硬そうな頬を柔らかな指先が撫でる。何度もぼろぼろと零れる涙を掬って、うんうん、と北村の話に耳を傾けているなまえに、北村は動きを止めた。

「……どうしました、北村さ……、」

 がばっと勢い良く、自分の体を真正面から覆う北村のスーツ色に視界は染まる。ぎゅっと抱き締められる感触、まだ止みそうにない涙の音、鼻に香るのは少しの酒臭さ。自分より大きな彼が背中を丸めて、自分を抱き締めている。妙な気分だった、何故なら北村は酔っ払っていて且つ泣いているのだから。広い背中に腕を回し、上下に何度も背中を撫でた。

「……落ち着くんだ、こうしていると、」
「あの、」
「手、止めないでくれ。」
「わかりました。じゃあ、もう少しだけ。」

 相変わらず、ぐずつきが尾を引く中、なまえは北村の背中を撫で続けていた。普段の厳格で真摯な背中も今日くらいは休ませてあげよう。ぽつりと名を呼ばれれば、なんです?と返事をし、再びぎゅっと抱き締める腕が力んでいれば、その滅多に見ない素直さにくすぐったさを噛み締める。最初は戸惑っていたこの絡みも、ある程度時間が経ってしまえば慣れてしまうようで。ぐずついた涙の気配が消えた頃、北村は不意にぽつりと呟いた。


「俺は……、俺は正義の在り方を体現出来ていただろうか。」

 さっきまで酔っていたことを忘れてしまうほどに、その一言はなまえの耳に刺さった。背中を撫でていた手もすっかり止まってしまい、北村の独白に返す言葉を探している。そうだ、この背中はいつも、いつでも重責を背負っていた。自身の信じた正義は、信じていた正義は知らず知らずの内にすり替えられ、本当の意味さえ忘れ去られていた。腐敗したそれに抗うように北村は自身の正義を貫くことを選んだ。今日この日まで、そしてこれからも。
 本当はまだ返す言葉など見つかっていない。それでも北村の独白を受け止めるようになまえは衝動的に口を開いた。

「わ、わたしは、警察と言う言葉を聞いたら、真っ先に北村さんが出て来ます。神室町の他のお巡りさんよりも先に。おかしな話ですけど、もし、自分の身に何かあったら、その時に助けてもらいたいのは、その、北村さんなんです、」

 なまえの独白にも返事はなかった。しかし、そんなことよりも心の欠片を吐き出す唇がまた一つ言葉を紡ぐ。

「だから、私の中で北村さんは清く正しい刑事さんです。その、なんて言いますか、北村さんなら絶対助けてくれるって、安心すると言いますか、」

 ……な、何言ってるんですかね、私、ごめんなさい。と急いで笑顔を貼り付け、誤魔化してみたものの、北村の反応はない。変なこと言っちゃった、とちくりと胸が痛むのと同時に北村が微かに笑った。

「フッ、買い被りすぎだ。俺はそんなに出来た人間じゃない。」
「でも、」
「分かっている、だから、何度も言うな。俺だってそういう風に言われれば、照れ臭いと思ったりするんだぞ。」

 落ち着き、普段と変わらないような声音の中で見つけた頬熱くなる感情に、なまえは北村の背中を撫でることが出来なくなっていた。触れることを躊躇いながら、抱き締めるスーツの中を抜け出そうとしたが、……待ってくれ、の一言になまえは耳を傾ける。

「なまえ、今の俺はいつもと違っておかしな行動や言動をしているかもしれない。だが、こんな俺でも良いなら、俺の助けが必要だと言うなら、遠慮せずに呼んでくれ。」

 密着していた体が離れていく。北村の暖かな手はなまえの肩に置かれ、ほろ酔いの瞳に捉えられては目を逸らせないまま、瞳の奥と奥で密かに繋がり合う。まるで勘違いしてしまいそうなシチュエーションになまえは頷くことしか出来なかった。その反応に満足した顔で北村はもう一度だけなまえを抱き寄せると、なまえの肩に顔を預けて寝息を立てた。
 遂に北村は眠りに落ちてしまった。なまえは嬉しいような、まだちょっぴり物足りないような複雑な気持ちで北村の体を揺すり、お布団に行きましょう、と眠って間もない北村を揺り起こすのだった。



***



 眩しい陽の光に往生際の悪い眠気を無理矢理追いやってすぐ。北村は目の前に広がる光景に言葉を失っていた。なんて言うべきなのか、どんな言葉を言えばいいのか。飲み過ぎによる頭痛は不快で、寝ぼけた頭を叩いてみても、これは夢かと頬をどんなに強く抓っても、寝ぼけ眼をシャツの袖で擦ってみても、現実は変わらない。
 今現在、北村は自分のものとは違う柔らかな匂いのベッドで布団に包まれている。そして同じベッドの上で、同じ布団に包まれていたのは、あどけない寝顔を晒すなまえだった。自分が粗相をしていないか、なまえの布団を捲ってみようと手を伸ばしたが、どんな理由であれ、彼女の眠りを妨げるのは如何なものかと思い止まる。


 一人温もりの布団を抜け出て、洗面台へと向かい、まず第一に寝起きの顔を水道の冷水で引き締めた。鏡に映る自分の首元や胸元を念の為、確認してみるが、やましい痕はない。少しほっとする心情で、昨晩の出来事を思い返してみる。
 昨日は忘年会で春日達と賑やかな時間を過ごした。皆で鍋をつつきながら、酒を嗜み、今年一年を振り返っていた。それから途中でどんどん出てくる酒を飲み干していった辺りから記憶が無い。この部屋で朝を迎えたことから、自分は泥酔し、なまえの世話になったのだろう。

「酔っていた自分がみょうじに迷惑をかけていないといいのだが……。しかし、同じ布団にいたと言うことは……、いや、まだ分からないだろう。」

 時折、脳内でそういった映像が流れて来る。なまえを下に敷いて、熱に浮かされた瞳に注視され、艶やかな唇が名を囁き、そして────。いや、まだそうと決まったわけじゃない、と自身のいかがわしい妄想をかき消し、北村は再び鏡面を見た。深呼吸を挟み、そうであった場合は覚悟を決め、そうでなかった場合は猛省すべきだと、北村の中で区切りがついたタイミングで、家のチャイムが鳴った。

「……む、春日か。確か空き缶のゴミ袋を回収すると言っていたな。」

 北村は濡れた顔をタオルで拭き、未だ眠っているなまえの代わりにドアスコープを覗いてから扉を開けた。そこには予想が外れたと驚いた表情の春日が立っている。

「なんだ、北村じゃねぇか。」
「春日か、おはよう。」
「おう、おはよう……って、そうじゃねぇよ。なまえはどうした?」
「なまえ……、みょうじならまだ寝ている。」
「……なんか、今日のお前テンション低くねぇか?」
「いや、そんなことは、」
「あっ!まさか、北村、お前、なまえとなんかあったな?!」
「ばっ……、あるわけないだろう!」

 それ、本当か?ほ、本当だ。ほぉ、じゃあ、取り敢えず一服でもすっかな。……俺も付き合おう。北村、お前煙草吸ってたか?外の空気を吸うだけだ。ま、別にいいけどよ。
 気まずい雰囲気漂う二人の間に今度は白い煙が紛れ込む。春日が煙草を吸っている。北村は外の空気を吸いながら、もう一度冷静になろうと努めている。ため息か深呼吸か、はたまた体内を循環した煙を逃がしているだけか。この時ばかりは静寂だけがやけに身軽である。

「で、北村。お前、なまえと寝たのか?」

 何食わぬ顔で訊ねてきた春日の背中を反射で強く叩く。いてッ、と情けない声が外に響き、更にはその衝撃で手にしていた煙草を落としかけていた。恨みがましい瞳がこちらを睨む。一つ咳払いをし、お前の質問があまりにも不適切だったからな、すまん。と睨み返せば、不満をいくつかこぼして再び煙草を口元に添える。

「じゃあ、何もなかったってことでいいんだよな、」
「ああ。……しかし、」
「なんだよ、妙に深刻そうな顔して。お前が何もねぇってんだったら、何もねぇ。そうだろ?」
「……記憶が無いんだ、」
「まじかよ、」

 こうなったら本人に直接聞くしかねぇよな。そうだな、お前の言う通りだ。じゃあ、俺は煙草吸い終わったら、空き缶回収して帰っから、あとは二人できちんと話しろよ。ああ、何も無いといいんだが。全くだぜ。
 北村は目に眩しい朝日に思いを馳せながら、なまえとの空白の時間を何度も手繰り寄せていた。ま、頑張んな。と春日に強く背中を叩かれ、ビリビリと痺れる痛みにどこか励まされているような気がしていた。

 なまえが目覚めてから語ったのは、北村が自身にくっ付いてばかりだったと言うこと。ぼろぼろと子どものように涙をこぼして泣いていたと言うこと。自分の前で弱音を吐いていた北村が珍しかったと言うこと。そして、北村は頼れる警官なのだと再認識したと言う、なまえの告白だけである。