カチャカチャと皿が水気に混じって擦れる音がする。この時期の蛇口から流れる水の冷たさに小さな悲鳴も聞こえてきた。だから、自分がやると言ったのに。とわざわざ腰を上げれば、なまえちゃんは座ってて。と早めに釘を刺されてしまった。

「秋山さん、あんまり無理しないでくださいね。いつでも代わりますから」
「いいの、いいの。たまには出来るところを見せておかないと」
「私にですか?」
「そう、なまえちゃんに」

 意味深だなあ、匂わせてます?と軽く突いてみれば、ん〜?何を?と問われ、有耶無耶にされてしまった。十分ほど前、この家で行われていた忘年会が終わり、それぞれが帰路に着く中、秋山だけここに留まることを選んだ。勿論、他のメンバーだって残って後片付けをしたいと言ってくれていたのだが、秋山の巧みな話術に丸め込まれ、初めに申し出た通りになった。しんとした静けさに少しだけ賑やかさが恋しくなる。二人きりでいるのが寂しいわけではないが、今日は相当楽しかったのだ。
 秋山が水場に立ち、自分はごみ袋の口を一つに括っている。これが終わってしまえば、秋山の方に合流出来る。しかし、冬の冷水に指先をかじかませて洗い物をしてくれている背中を見ると、不思議な感覚が込み上げてきた。確かに出来る人だ、それは洗い物のことではない。例え、だらしない性格であっても、自分の為にと口にし、得意ではない家事に手を出してくれるのは、損得関係なしに嬉しいことだ。普段であれば、出来、不出来を重視してしまうが、今日ばかりはありがとうと添えたい。

「秋山さんとお付き合い出来たら、その人幸せですね」

 自然と口を突いて出た。心底羨ましかったわけではない。ただ、小休止程度に。ちょっとした話のタネを見つけたつもりだった。なまえの言葉が意外だったのか、秋山も手を止め、こちらを振り返る。それ、本当?と目を丸くしているのだから、それなりに驚いているようだった。

「だって、自分の為にって言って、本当にやってくれるんですよ。そりゃあ、嬉しいですし、幸せじゃないですか」

 秋山の問いに対する答え、のつもりだった。しかし、秋山は神妙な顔をしては隣に来るよう、手招きを始めた。なまえは手にしていた袋の口を結び終えると、秋山に誘われるがまま隣に立つ。すると、突然顔に冷たい飛沫のようなものが飛んできた。ひやりと冷たい雫に顔を背け、恐る恐る秋山を見てみれば。こちらに手を向け、濡れた指先の水滴を飛ばしている姿があった。

「ちょ、ちょっと!何するんですか!」
「またなまえちゃんが良くないこと言ってるから」
「良くないって、なんですか……」
「そうやって思わせぶりなこと言ってると、後が大変だよってこと」
「思わせぶりだなんて、」

 秋山に投げられた言葉の意味を探る。そんなつもりでなかったのは本当だ。だが、相手にそう受け取られてしまっては反省すべき点なのだろうと思えない。顔の水滴を程々に拭き取ると、再び隣に立つ。より深く話を聞きたいと思い、秋山を見た。秋山は既に洗い物に戻っていたようで、それは横顔だった。やや俯いているせいで前髪が目元に垂れている。口元は相変わらず、不敵な笑みを浮かべており、何を考えているのか分からない。しかし、酒をそれなりに飲んでいたこともあり、彼の鼻の頭だけはうっすらと赤いのだから、微笑ましく感じられた。

「みんな、なまえちゃんのことが好きなはずだよ」
「みんなってことはないでしょう。変なこと言わないでください」
「嘘じゃない。本当だよ、本当」
「……どうして分かるんですか、秋山さんに」

 いじけた気持ちでそう返していた。そうやって一方的に決めつけられてはたまったものではない。それに主語が大きいような気がしている。確かに春日達とは良好な関係を築けているが、秋山の言うほどではないと思っていたからだ。単に酒が回っているだけなのかもしれないが、誰だってそう言われれば何故と問いたくなるのは当然のことではないだろうか。

「俺もなまえちゃんのことが好きだから」

 鼓膜に響いたのは秋山の言葉と蛇口から溢れる水の音だった。突然、この部屋のどこもかしこが静けさを取り戻した気がする。元々静かな部屋ではあったが、秋山のこの一言のために何もかもが口を噤んだように思えた。あっけらかんと、しかし、確かに。目の前の彼は自分を見つめている。

「もう、からかうのはやめてください」
「からかってない」
「お酒飲みすぎたんでしょう」
「飲みすぎてないし、酔ってもない」
「じゃあ、どうしてそんなこと……、」

 おかしいかな、俺がこういうこと言うの。今度は少しだけ騒がしい水音の中でそう呟いた。もしかしたら、自分に投げかけていたのかもしれない。もしくは秋山自身に問いかけているのかもしれない。どちらにせよ、その問いに返せるような言葉は互いに持ち合わせておらず、沈黙が間を繋ぐ。

「……秋山さんだって、そういうの良くないじゃないですか」

 水音の中でまた一つ物音が消えた。それは秋山の洗い物をする手の動きの音だった。まさか自分がそう言い返されるとは思ってもいなかったという顔が見える。すかさず蛇口を回し閉める。水音がなくなり、あとは何とも言えぬ沈黙が残されていた。

「じゃあ、今夜はここに残らないで帰ればよかったんです」
「……まあ、そうだね」
「きっと秋山さんも何か考えてるはずです。私には分からない何かを」

 違いますか。と半ば詰め寄る形で問いかける。すると、秋山はまず苦笑いを浮かべ、今日はなまえちゃんの勝ちかな。と明かした。自分の勝ちだと言われ、なまえは二の句が継げないでいた。意外だったのだ、秋山の明かしたその言葉が。

「俺だってよく分かってるさ、自分のことは」
「自分のこと、ですか?」
「正直、自分がどういう風に動けば状況が変わるか、大抵の局面なら読める」
「じゃあ、今のこの状況も……?」
「そう。だから、言ったでしょ。出来るところ見せておかないとねって」
「なら、私はどうすれば、」

 秋山は更に苦笑する。本来ならば、用意していたルートなるものが秋山の中にはあったのだろう。しかし、なまえが予期せずそのルートを潰してしまったのだ。だからと言って、今更そのルートに合流出来るよう図るのは何か違うような気がするのだが、目の前の苦笑する秋山を見てしまうと申し訳ないことをしてしまったかのように思える。

「さっきの、気にしてる?」
「……す、少しだけ」
「じゃあさ、一つだけなまえちゃんにお願いしたいことがあってね。いいかな」
「ええ、私に出来ることであれば」

 ──── 俺に優しくしてくれる?今だけでいいから。
 これまた意外な言葉だった。優しくして欲しいというのは、全く難しくない頼みだからだ。やさしく?と首を傾げると、そう、やさしく。と口元を緩ませて秋山は笑う。人に優しくする、それは簡単なことのように思えて、実は酷く難しい。相手や自分が何も意識していなければ、それは当然の如く与えられるだろう。しかし、優しくして欲しいと頼まれてしまえば、その『優しく接する』タイミングを見つけなければならない。そうなってしまうと、人に優しくするという行為はとてもハードルの高いことのように思えるのではないだろうか。

「今日、ここに残れたのは単に運が良かったからなんだよ」
「そんな大袈裟な、」
「みんな、どこかで出し抜きたいもんだ。ライバルって言うの?そんな奴より自分が一番に、」

 なりたいって言うのは、誰もが抱く願望じゃない?どこか物寂しげに笑ってみせる。格好良い大人ほど、時折弱い表情を見せるのだと初めて知った。長く生きることで身についた強さだとか、そういったものが貝殻のように本当の自分を覆い隠してしまう。そんな気がして。どうすればいいのだろう、彼のような強い人に優しくするには。どうすれば、と考えると同時に口を開く。

「……ほら、手が止まってますよ。秋山さん」

 出し抜きたいんですよね、他の人より。じゃあ、私のお手伝いしてくださいよ。そうしたら、今日だけ特別に一番にしてあげます。
 元々、誰が一番だとか二番だとか、考えたことはない。だが、寂しげな人が誰かの一番になりたいと零すのだから、今の自分に出来る優しさはささやかな願いを叶えてやることだと思った。これはとても個人的私情の入り交じった身勝手だ。それでも、次に秋山が見せた心底嬉しそうな笑顔を目の前にしてしまうと、あながち間違いではなかったのかもしれない。ああ。でも、またこういう事をしてしまうと、言われてしまうだろうか。

「……はは、本当になまえちゃんは上手いね」
「何も上手くないです。これだって思わせぶりだとか、そういうのじゃないですから」
「思わせぶり、じゃない?」
「ええ。秋山さんにだけ、ちゃんと言ってます」
「じゃあ、今日は信じちゃおうかな」

 今は手が濡れてるから、ごめんね。と秋山の声を最後に、右頬にあたたかくて柔らかな感触がした。数秒、そっと押し当てるように触れると静かに引いていく。先に目線がぴったり重なって、沸点に到達する。けれど、頭の中は真っ白なままで怒るでもなく、パニックになるでもなく、ただ秋山を見つめていた。そして、おどけたように口の端を持ち上げた秋山に、ようやく意識が現実に追いついて来た。

「……な、なにするんですか、」

 口から出て言ったのは、ひどく弱い言葉だった。声も驚きが抜けずに震えているようで、瞬きも回数がどんどん増えていく。

「あれ、だめだった?」
「だ、だめとか、いいとか、そう言うのじゃなくて、」
「なまえちゃんももう大人だから、ある程度展開ってのが読めてると思ってたんだけど」
「てんかい、ですか?」
「……どうして、俺の周りには人たらしが多いんだろ」

 だからかな、一番になりたいって思うの。と秋山はどこか寂しさの抜けたすっきりとした顔で、再び手元の皿に視線を落とした。なまえはなまえで、秋山の行動の意外さに驚いていたが、少しだけ何かが変わったような気がして、一番の意味を密かに考えていた。
 他の誰もが知らないだろう、秋山がたった今一番近いところにいることを。とにかく落ち着きたいと冷蔵庫を覗けば、二つビール缶が隣合って並んでおり、秋山駿という男が何処まで先を読んで行動している男なのか、分からなくなってしまった。ただ、今日の頑張りにビールくらいは付き合ってやらなければバチが当たると、なまえは秋山の仕事が終わるのを傍らで待ち続けることにした。