お待たせしました。と店員の言葉の後に、テーブルを埋め尽くすように二人の頼んだものが所狭しと並べられていた。
真島の手元にはジョッキ一杯に注がれたビール、そして四角いお盆の上に乗っているのは、湯気の漂う多めに盛られた白米とお味噌汁、お新香。
そして、この定食のメインである刺身の盛られた器があった。
赤身、白身、大根のつま、青じその他にも食用の菊が添えられており、皿の端には小さな山を築いた山葵もある。
その切り身の脂がきらきらと光っていて、なまえはその様に目を奪われていた。
真島と同様になまえの目の前にも、刺身定食とジョッキが順に置かれていく。
そのジョッキからは仄かにグレープフルーツの苦味、柑橘系の酸味を想像させる爽やかな香りが鼻を掠めた。

目移りしているのが自分でもわかった、引っ切り無しに他のお皿を何度も見返しているのだから。
何から箸をつけようか迷っていると、自分の意思とは反対に自然と目線が正面へと誘導される。

「美味そうやなァ、お姉ちゃんもそう思うやろ。」
「はい、とても。」
「なら、今日も腹一杯に食って帰りや。」

ええな、と真島は汗をかき始めたジョッキに手を掛ける、なまえも、はい、と返事をして、ジョッキに手を伸ばす。
そして、二人はその手を持ち上げると、ジョッキの縁と縁を軽くこつんと当てた。
その後から遅れて、真島のお疲れさんと声が聞こえて来た。
なまえは喜んだ表情で真島に反復させた。

「もしお姉ちゃんから今日駄目やって、電話来たらどないしよかと思っとったんやで。」
「本当ですか?真島さん、今日が駄目なら明日や!って言う気がしますけど、」
「そらそやろ、俺はお姉ちゃんとこうして話しとんのが楽しゅうてしゃあないねん。」
「それは私も同じかもしれないです、真島さんといると楽しいです。」

流し込んだ酒がほろ苦い、後味が少し苦手なアルコールのあの味がする。
それでも、今日は真島と一緒だからか、苦手なその味さえも好きになれそうな気がしていた。
一口、ごくりと飲み、また一口。
口の端を指で優しく拭い、喉を過ぎた酒が胃を温め始めている。
悪酔いしてはいけない、今まで飲みの場では失敗無く、何とかやり過ごして来たけれど、今日はそこそこに不安だった。
楽しい食事の場で進む酒の量は予想出来ないくらいに多くなってしまう。
もしかしたら、もう既に飲むペースはいつも以上に早くなっているのかもしれない。
不思議だ、今日のお酒は美味しいと真島を見た。

ごくごく…と彼はジョッキを急な角度まで傾けていく。
まるで水を飲むように、何度も上下する喉仏から目が離せずに、自分ももう一口と流し込む。
この男、実に豪快な飲みっぷりである。

「真島さん、お酒強いんですか?」

傾けられたジョッキの底がテーブルとぶつかる。
真島は、ぷはっと爽快に聞こえる気持ちの良い声を上げた。

「ほんの二、三杯じゃ潰れんくらいには強いやろなァ。お姉ちゃんは…、正直言うて弱いやろ。」
「そ、そんな事ありませんよ、私だって、飲もうと思えば、そこそこには…。」
「ほんなら、今日は遠慮せず飲んでくれるんやろな?」
「そ、それは…、」
「今夜は楽しく飲みたい気分やったんや、丁度ええのう?お姉ちゃん?」
「私は、楽しくお食事がしたいです、」

奇遇やなぁ、俺もや。と真島だけ愉しそうに顔を綻ばせた。
なまえは手元にあったジョッキを再度見やる、飲み過ぎない、と新たに決心を固める。
真島の手元のそれは既に半分まで減っており、不意に、真島さん強いって言ってたけど、潰れるまで飲まないよね?と冷静なもう一人の内なる自分が語り掛けて来た。
その客観的な言葉にぎょっとしつつ、なまえはようやくお盆に添えられた箸を手にする。


いただきます、と箸先を勿論刺身に向け、斜めに並べられた隙間にそれを潜り込ませた。
真島はまだジョッキから手を離せそうになく、なまえは赤身を一枚、小皿を満たす醤油にさっと浸す。
赤身から滴る醤油の滴に、なまえは空いた片手で髪を耳に掛けてから、それを口に運んだ。
刺身の柔らかな食感と絡む醤油の味に、嬉しい悲鳴を上げるよりも先にほかほかの白米を運んでいく。
暖かなご飯と冷ややかな刺身、その温度差にさえ、顔が綻んでしまう。

「美味しいです…!」
「せやろ。俺もここ来たらよう頼んどるわ、何回食っても美味いんや。」
「真島さんって美味しいお店、よく知ってるんですね。この間のラーメンもとっても美味しかったですし、」
「まだまだ美味い店知っとるでぇ。俺はなァ、お姉ちゃんに食わせたいモンが山のようにあんねや。」
「そ、そんなに、ですか?」
「せや。…ま、なんちゅうかのぉ、お姉ちゃんの飯食っとる顔が好きなんや。」

ほんまに美味いわぁ…って感じがえらい出とんねん。と口元をにやけさせたまま、真島も箸を取り、まずは、と味噌汁を啜った。
なまえはその言葉に熱くなり始めた顔を冷ますように、酒を流し込んだ。
鼻を擽るグレープフルーツの香りがなまえの平常心を少しだけ取り戻してくれる。
不意に渡された『好き』の単語に、真島を直視出来なかったが、胸の内では勝手に舞い上がる鼓動を痛い程に感じていた。

「お姉ちゃん、顔赤いで。もう酔っとんのかいな。」
「ち、違います。暑いんです、不思議と…!」
「ほんまか?せやったら、そない必死にならんでもええやろ。」
「なってません…。もう、真島さんがべろんべろんに酔っても知りませんからね、」
「なら、飲み過ぎんよう、気ぃ付けなあかんなァ、」

いつの間にか膨らんだ真島の頬に、なまえは次の二口目は何にしようかと迷い出す。
本当は何を食べるかなんて決まっていたが、今は迷っていたかった。
食事が終わってしまえば、きっと真島と別れることになる。
当然の事だけれど、なまえはこの時間を少しでも長く、大切に過ごしたいと思っていた。
ただゆっくりと、真島との時間を優先したかった。

黙って真島を見る、呑気に白米をかき込んでいた。
その姿から何故だか目が離せない、不意に胸が暖かくなる。
いつも着用している革手袋のままで箸を握っている姿だとか、大きな口で刺身や米を放り込むように食べる姿だとか、その行動一つ一つに真島らしさを感じていた。
きっと彼だから許容しているのだろう、なまえは自分でそう思う。
真島の事を少しでも知れたような気がして、俯いては上がる口角を隠すように味噌汁茶碗を口元に寄せた。



***



俯きながら味噌汁を啜る姿に真島は視線を忍ばせていた。
彼女の伏し目がちな表情に擽られる感情が胸中にある。
何処と無く嬉しそうに見える表情から覗く、僅かな色気をその瞳や睫毛が醸し出していた。
なまえが真島を見つめている事がそれなりにあるのは知っていた。
けれど、真島も自分がそうなる前にと、ついつい酒に手を出してしまう。
まだ酔うような量ではない、けれど、彼女と一緒に飲むという状況が珍しくて、飲むペースもいつもよりかは早い。
一口、喉奥に流し込んだ酒が焼けるような感覚を残して消えていく。

『目は口ほどに物を言う』、その言葉の通りだと苦笑する。
なまえも真島もその通りにあちらこちらへと瞳を潜ませ、口には出来ない何かを訴えていた。
なんや、変なとこ似てもうたなぁ…、と箸先がお新香の一切れを掴み、口の中へと収まっていく。
ボリボリと聞こえの良い咀嚼音を立て、また米を頬張っては味噌汁を流し込む。
そして、刺身を大根のつまと山葵を少々、それらを醤油に泳がせ、胃に収めていった。
着実に並べられた皿の底が見え始め、空腹も満たされ始める。
それはゆっくりと食事をしているなまえも例外ではなく、与えられた時間の終わりが見える瞬間でもあった。


「そや、お姉ちゃん。デートの事やけど、再来週ほんまに空いとるんか?」
「え、…ええ、勿論。丁度空いている日があるんです。」
「で、再来週のいつやねん。」
「確か、土曜日だったはず。丁度休日で、そこだけ他の予定も無いんです。」
「土曜やな?忘れんようにせな、あかんな。」
「でも、真島さんがデートだなんて、」
「なんや、俺がデート言っとったらおかしいんか?」
「いえ、…その、」

意外でした、と微笑んだ割に、真剣に口を真一文字に結ぶ。
爛々と揺れる瞳が真島の瞳を貫く。

「俺かて男や。そりゃあ、可愛いお姉ちゃんと一緒に遊び行きたなるで。」
「ってことは真島さんは今、…そういう方居ないんですか?」
「ん、なんやそれ…。…ああ、せやなァ、こんな良い男ほっとく女の気が知れんで、ほんまに。」

そう思うやろ?と愚痴っぽく同意を得ようとすれば、本当ですね、と笑いの合間になまえが頷いた。

「反対にお姉ちゃんはええ人おらんのか?」
「わ、わたしてすか…?」
「せや。俺に他所の女かっさらって、連れ回すような趣味は無いねん。」
「じゃあ、…大丈夫ですね。」

生憎私もそんな人居ないんです、と眉を下げ、まだなみなみと中身の残ったジョッキの縁に唇を当てた。
傾いて見えた彼女のジョッキの底に真島は勿体無いのう、と一人呟きながら、胸の奥に設けていた感情のストッパーを一つ外してしまった。