「よお、邪魔するぜ」
「東さん、わざわざ来てくださってありがとうございます」
「堅苦しいのはナシだ、事情が事情だからな」
「どうぞ座ってください。今、コーヒー淹れますね」
初日、東は八神探偵事務所を訪れていた。目的はなまえに引き寄せられる『災い』を撃退、もしくは回避する為だった。革のソファーに腰を落ち着けた東はレンズ越しになまえを見た。彼女自身に変わったところは見られない。彼女はまだ『災い』とやらには遭遇していないようだ。
「みょうじ、お前の予定はどうなってんだ?」
「えっと、今日はこの後少し外に出ます」
「何しに行くんだよ」
「八神さんに頼まれてた荷物の受け取りですね。天下一通りのPOPPOまで」
「ったく、八神もみょうじに甘えてねぇで自分で受け取りに行きゃあいいのによ」
「今、嬉しいことに依頼が立て込んでるんですよ。八神さんには頑張ってきてもらわなきゃ」
「じゃあ、依頼が成功した暁にはメシでも奢ってもらいな」
ふふ、それはどうでしょう。なんだよ、含みのある言い方して。今日の依頼、神室町での猫探しと賃貸物件の曰くを調査するんですって。……そりゃあ、たかが知れてるかもな。でも、それがお仕事ですから。私は応援するのみです。
どうぞ。と東の手元に暖かな湯気を漂わせるマグカップが置かれる。傍にはスティックタイプの砂糖が添えられ、なまえの元にも同じものが置いてある。あと、これも。と更に個包装のバームクーヘンが盛られたバスケットをローテーブルの中心に置き、ようやくなまえも腰を椅子に落ち着けた。二人は向かい合うような形で座っている。
「東さんは今日、予定は大丈夫だったんですか?」
「俺のことは気にすんな」
「でも、突然呼び付けるような形になってしまって」
「だから、気にすんな。俺は何とも思っちゃいねえよ。ただ兄貴があんまりにも気にしてるもんだから、俺も」
「そうだったんですね。だとしても、ありがたいです」
じゃあ、これを食べたら出ましょうか。とお菓子に真っ先に手を伸ばしている彼女に、俺の分も食っていいぞ。と告げると、いいんですか……?!と両目を輝かせながらこちらを見ていた。確かに海藤が日頃から気にかけているのも分かる気がした。彼女には隙が多い。だからこそ、他人につけ込まれてしまう恐れがある。東は敢えて口にはせず、マグカップに手を伸ばした。
彼女はぺろりとお菓子を平らげると、今度は外出の準備に取り掛かっていた。既に飲み終えたコーヒーのマグカップも流しに二つ並べてある。それは戻って来たら、洗うのだそうだ。必要なものを鞄に詰め込み、二人は事務所を出た。しっかりと戸締りも確認して。
ビルの外に出ると、中道通りがやけに混んでいるように見えた。まだ明るい時間なのにいつもより多くの人が通りを行き交っている。先に歩き出したのは東だった。それについて行くような形でなまえも歩き始める。天下一通りにあるPOPPOは中道通りを横切り、路地を行った先にある。なまえも東も嫌という程にこの街を歩き尽くした住人なのだ。今更、道に迷うことや場所を調べるといったことはない。だが、唐突にやって来るトラブルだけは何年経っても上手く逃げられないままだった。
「ねぇ、お姉さん」
「……え?あ、はい」
「俺たち、ちょっと道が分かんなくて、」
「困ってるんで、よければ助けてもらえませんか?」
なまえに声をかけてきた相手は二人組の男だった。困っていると言いながら、その顔はどこかにやけていて警戒心を抱かせるような雰囲気をまとっている。咄嗟に東のことを見たのだが、まだ気付いていないようで、人混みの中で見えるのは見慣れた背中だけだった。視線だけはやたらと慌ただしいのに、それを知ってか知らずか、目の前の男達はなまえをそう簡単に解放してくれない。
「ごめんなさい、人を待たせてるので……」
「じゃあ、その人も一緒に。それなら、どうですか?」
「そう、本当に困ってて。俺たち」
「あの、そう言うのはちょっと、」
正に押し問答だった。相手はなまえの話を聞いているようで全く聞いていない。のらりくらりと言い逃れては足止めしてばかり。しかし、こちらもただ待っているだけではなかった。傍になまえの姿がないことに気付いた東は、人混みを強引にかき分け、なまえの元へと近付く。
「おい、何してんだ」
東は威圧的に男達と距離を詰める。そして、なまえとの間に割って入り、普段では聞くことのない本業を匂わせる言葉選びで男達を問い詰めていった。レンズの奥の目は全く笑っていない。
「ソイツは俺のツレでな。答えによっちゃあ、場所を変えなきゃならねえ」
見た目から察するところがあったのだろう。おい、ヤクザだぞ……!と血相を変えて男達は人混みに紛れて逃げてしまった。あっという間に見えなくなった姿に、なまえは胸をなで下ろしていた。東も小さくため息をつき、今度はなまえの手を引いて歩き出した。
「ったく、言ってる傍から面倒事に巻き込まれんじゃねえ」
「ごめんなさい。でも、全然話を聞いてくれなくて」
「当たり前だ。ああいう奴らはその場に足止めして、ごねれば何とかなると思ってる連中だからな」
「……ありがとうございました。東さんがいてくれて、本当によかった」
「やっぱり荷物は自分で取りに行けって言った方がいいな」
「あ、行きます、行きます……!このまま行っちゃいましょう!」
見えてきたコンビニを前になまえは急ぎ足で隣に並ぶと、東を見上げた。見上げるような形になってしまうのは仕方がないことだ。彼女の方が背が低く、目線が自分より下にあるのだから。しかし、何でもないはずのその視線が自分に、自分だけに向けられていると思うと、不意に胸の奥が喧しくなった。まるで殴られた患部のように、胸の奥が熱を帯びていた。自分が彼女の『為』になれたからなのかもしれない。
***
無事に荷物を受け取り、事務所へと戻って来ていたなまえは姿の見えない東のことを探していた。恐らくまだ帰ってはいないのだろう。彼は帰る際には必ず声をかけてくれる人物だからだ。辺りを見渡し、少し考えてみる。何か足りないものがある。なんとなくテーブルが気になり、じっと見つめていると、いつもある灰皿がないことに気付いた。もしかして、と事務所を出て直ぐに屋上へと続く階段を見た。
階段を上った先にその姿はあった。辺りに煙が漂っていることから、今は喫煙中のようだ。彼の名を呼べば、彼は急いで辺りの煙を手で払い、指に引っ掛けていた煙草の火を灰皿に押し付ける。別に気にしないでいいのに。と言えば、吸わねえ人間の前で吸うわけにもいかねぇだろ。と人の良さが滲み出る返事がやって来て、なまえはなぜだか嬉しくなった。
「よかった。まだ帰ってなくて」
「黙って帰らねぇよ」
「今日のこと、また改めてお礼したいです」
「いいって。ただお前ももう少し気をつけろ」
「そうですね。……海藤さんが心配しちゃうから」
それは東さんも困りますもんね。なまえは聞き分けのいい顔で頷いていた。東は自分より自分のことを分かろうとしているその姿にもどかしさを覚えた。本音と建前、いつまで建前ばかり並べるつもりだろうか。本音を飲み込むのはとても容易い。だが、いつまでもその容易さに甘えていていいのだろうか。今日感じた熱を殺してしまうのは、あまりにも寂しい。
「いや、本当はそうじゃねえ」
彼女に聞き分けのいい顔をやめさせたかった。彼女に些細な誤解をされたままでは帰れなかった。彼女にもう一度、しっかりと見つめてもらいたかった。誰かを理由にするのではなく、自分自身を理由にしたいと。
「俺だって、みょうじに何かあったら飛んでいくだろうよ」
煙草もなく、酒もないこの両手が酷く頼りない。それでも言わずにはいられなかった。きっとこの機会を逃してしまったら、口にすることが出来なくなると思ったからだ。この身に追い風は吹いてくれない。
「周りのヤツら、みんなお前を気にかけてる。それは俺も同じだ。女だからじゃねえ、お前だから俺は……」
そこまで言って、息を呑んだ。やめさせたかった顔はとっくに掻き消えており、代わりにあったのは懸命に自分の話を聞こうとしている彼女の顔だった。自分は一体、どこまで口走ってしまったのだろうか。建前を並べるのはやめるつもりだが、簡単に本心を晒すつもりはない。今日はただのきっかけに過ぎず、いつか揺るがない何かを手にした時、彼女に明かしたい。
「俺は、なんですか……?」
「え、ああ、いや、」
「わたし、東さんは海藤さんと付き合いが長いから、それでって思ってました」
「間違ってねえ。俺だって最初はそうだった」
「でも、今の話を聞いたら、よく分からないですけどなんか嬉しくて」
みんなを巻き込んでる時点ですごく申し訳ないのに、……ってごめんなさい。変なこと言って。
心の整理がついていないのは東だけではなかった。なまえもまた同様にかき乱された胸の内があった。もうこれ以上、自分の何かを語って聞かせる必要はない。何も持たない手で彼女の頭に触れた。だから、放っておけないのだと最後に告げ、こちらを見つめる瞳に自分の視線を重ね合わせた。今、この心臓が臆病に脈打っていると、彼女は知っているだろうか。
今更、屋上に風が吹き抜ける。後から遅れてやってきた『追い風』だろうか。しかし、もうそんな曖昧なものに大切なことを任せていられない。自分自身の手で、言葉で、実力で、いつか ──── 。
「一服もしたことだし、戻るか」
「まだ吸ってても大丈夫ですよ。煙草、途中でしたよね?」
「いや、また見てねえところで何かあっても困るしな」
「やっぱり、東さんって優しいですよね」
「馬鹿。ヤクザに向かって何言ってんだ」
二人は他愛もないことを話しながら、屋内に続く扉に手をかける。楽しそうな笑い声が小さく響く中、なまえと東は事務所へと戻って行くのだった。