この日、八神探偵事務所にはなまえと杉浦の姿があった。朝から書類整理や事務業務に追われているなまえを杉浦は見ていた。実際、八神や海藤とは何度か一緒に仕事をしたことがあったが、なまえの仕事ぶりを見るのは初めてだと内心、興味津々だった。
「なんか意外。八神さんは閑古鳥が鳴いてるって言ってたのに」
「最近はちょこちょこ依頼が来るようになったから。出来ることは今の内にやっておかないと」
「へえ、頑張ってるんだ。なまえさん」
「そりゃあ、勿論。そのための私ですから」
ふふん。と胸を張ってみせるなまえに杉浦は、じゃあ、頑張ってるなまえさんに、僕がコーヒー淹れてあげるね。と流しの前に立った。あ、でも、私ブラック飲めないから、いつもミルクと砂糖入れてるんだけど。いいよ、それも僕がやってあげる。……なんか今日の杉浦くん、優しいね。え〜?僕はいつでも優しいでしょ。
杉浦となまえは年が一つしか変わらないこともあり、八神や海藤、東に比べて何かと気軽に会話の出来る関係だった。勿論、他の三人とも良好な関係は築いているのだが、やはり年が近いと言うのは気が楽だった。
キーを打ち込む音。天井に備え付けられたシーリングファンが静かに回る音。コンロにセットされたコーヒーケトルが熱せられ、中のお湯が沸騰していく音。コーヒーに入れる砂糖を探している杉浦の足音や棚を開け閉めする物音。静かな事務所に生活感のある音が小さく響いている。平和だ、あまねの言っていた『災い』のことを忘れてしまいそうなほど、ここは平和だった。
昨日は見知らぬ二人組の男に声をかけられ、立ち往生していたが、傍についてくれていた東のおかげで事なきを得た。ただ、それがあまねから知らされた『災い』なのかどうかは分からない。もしかしたら、まだこの後にも『災い』が控えていて、杉浦と一緒の時にやって来るのかもしれない。
入力したデータを一旦保存し、ぐぐぐ、と背伸びをすれば、はい、どうぞ。と温かなカフェラテが傍に置かれる。ありがとう。と手を伸ばせば、あまりの熱さにびっくりする程だった。
「なまえさん、熱いよ。それ」
「……そうだった、淹れたてだもんね」
「おっちょこちょいで火傷されても困るから」
「気をつけます……」
へへ、とソファーに腰掛けて、杉浦は笑う。それから、なまえは時折様子を見ながら、杉浦の用意してくれたカフェオレを飲んでいった。砂糖の量も丁度よく、とても飲みやすい。試しに杉浦に答え合わせをしてみれば、二本入れたと返され、普段自分が入れている本数と同じだと驚かされた。どうして?と聞けば、うーん、なんとなく。と返ってきて、すごいね。と二人して笑った。
「あら、今日はなまえちゃんいるのね」
突然、事務所の扉が開き、その物音に二人は入口を見た。すると、そこには八神にこのテナントを貸してくれているビル所有者の、冨岡理恵という女性が立っていた。毎月の家賃を破格の値段にしてくれてはいるものの、入ってくるものが少ないこともあり、中々家賃を払えていない。その事情はもちろん、事務員であるなまえにも伝わっており、なまえは慌てて席を立った。
「冨岡さん、今日はどうされたんですか?」
「ああ、別にお仕事じゃないのよ」
「そうなんですね、残念です。ふふ」
「八神くんにね、差し入れ。家賃も滞納してるくらいだからさ、ちゃんと食べるもの食べてるのか不安で」
「ああ。だから、最近冷蔵庫の中にラップのかかったお皿があるんですね」
「そうなの。ところで、なまえちゃんはお仕事中?」
「ええ、そうですけど」
「その人、依頼人?随分、かっこいいじゃない」
こっそりと耳打ちをするように、冨岡はなまえの傍に寄ると、口元に手を添え、生暖かい笑顔を見せた。早とちりだとか、勘違いの類のそれである。
「いえ、彼は八神さんのお手伝いをしてくれている杉浦くんです」
名を呼ばれたことに反応して、杉浦はこちらにくるりと振り返った。ん?と少しだけ首を傾げている姿もかっこいいのだから困る。うふふ、身近なところに出会いがあったりするんだから。とやけに楽しそうな声で返してくる冨岡に、なまえは苦笑していた。本当に違うんだけどなあ、と言い出せないでいると、空気を読んでくれたのだろう、冨岡はなまえに皿を預けて早々に立ち去ってしまった。
「なんだったの、なまえさん」
「八神さんにご飯の差し入れだって」
「そうなんだ。あ、ハンバーグ」
「冨岡さんって言う人なんだけど、料理すごく美味しいんだって」
「じゃあ、僕達で確かめちゃう?」
「だめ。これは八神さんの」
杉浦の前から皿を遠ざけると、そのまま事務所の冷蔵庫に運んでいく。あまり中身のない冷蔵庫の中段に皿を置き、そっと扉を閉める。すると、今度は別の誰かが事務所へとやって来たようだった。すいません。と男性の声が聞こえたからだ。
咄嗟に入口を見れば、今度は宅配業者のような格好の男性が、手に小包を持ちながら立っている。杉浦はなまえに、今日って荷物が来るって話してたっけ?と確認をとるが、なまえも八神からはそんな話を聞いていない。顔を見合わせ、先に動いたのはなまえだった。
「えっと、ここ宛に荷物ですか?」
「はい。こちらに届けるようにと」
「依頼主はどちらですか?」
「確か、伝票の方に……」
業者の男は小包に貼られている伝票の依頼人の欄を指さしたものの、なまえが目にしたのは見覚えのない郵便番号と住所、そして氏名だった。なまえは不信感を抱きながらも、平静を装い、この荷物に心当たりがないと告げた。なまえの言葉を聞いた男は明らかに困惑した顔で、困ったなあとだけ呟く。
「いや、ちょっと困りますねえ……」
「すみません。こちらも心当たりがありませんので、」
「代金も頂くように言われてましてね」
そうだ。それじゃあ、この箱の中身を確認してもらえません?と業者の男は、ぐいっと箱を押し付けるとなまえの目を睨み付けた。嫌な雰囲気が漂い始め、いえ、これは持ち帰ってもらって、この依頼人に確認をとられた方が良いと思います。となまえは押し付けられた箱を男へ返そうとした。それを傍から見ていた杉浦は業者の男へ鋭い視線を向けている。なまえの言い分は最もだ。
「それじゃあ、こっちが困るんだよなあ!」
「大きな声を出されても、怪しい物は受け取らないよう、言い付けられてますので」
「なら、受け取りたくなるようにするだけだな」
「……脅し、ですか」
「なあに、ちょっと怖い目に遭ってもらうだけだよ。話が分かるまで」
「お引き取りください」
急変した室内の空気の中、瞬発的に動けた人間が一人だけいた。男がその腕を振り上げた瞬間、なまえと男の間に割って入り、力任せに振り下ろされた腕を上手く受け流して見せる。
「ダメだよ、悪いこと考えちゃ。結局、こういう展開になっちゃうんだからさ」
「テメェ……!」
「杉浦くん!」
「なまえさん!これ!」
なまえが呼び掛けると、杉浦はすぐさま通話画面の携帯を投げ渡す。それをしっかりとキャッチし、なまえはコール音が途切れるのを今か今かと待っている。だが、男がそれを、『通報』を許すはずがなく、目の前の杉浦よりなまえを狙うべく、一歩踏み出す刹那。男の足を素早い何かが足を掠めとっていく。
「あのねぇ、女性に手をあげちゃいけないと思うんだけど?」
「この……っ!」
「海藤さんの言ってたことってこれ?……にしては、どう見ても無関係だよね」
足をとられた男は尻もちをついていたのだが、なまえの持っている電話が遂に繋がり、警察の手が迫っていると知るや否や、男は逃走を試みる。しかし、相手は容易くそれを許す人間ではない。
「彼女にしてくれた話を聞きたがってる人がいるからさ、ちょっとここで待っててくれないかな」
杉浦の蹴りが男の顔面にストレートに入ると、男はあまりの衝撃にその場に倒れ込んでしまった。なまえは目を閉じながら、現状の説明に努めており、杉浦は大きなため息を最後になまえの抱えていた小包を預かる。雑な梱包に、雑な伝票。蓋を開けてみれば、訳の分からない包み紙に水の入ったペットボトルが三本ほど詰められていた。雑な上になんてお粗末なものだろうか。気絶した男の傍に、力任せな詐欺の証拠を置いてやり、杉浦は通話を終えたなまえから携帯を受け取る。
「すぐ来てくれるって」
「そっか。ところで、大丈夫?怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫。杉浦くんが間に入ってくれたおかげで」
「よかった。ああいうのはよく来るの?」
「ううん、今日が初めて。……怖かったね」
あ、杉浦くんは怪我してない?あの人とやり合ってたよね?と困った顔でこちらを見上げるなまえに、杉浦はむず痒い気持ちを覚えた。だが、自分のことより彼女自身について話がしたかった。
「なまえさん、凄いね」
「え?」
「普通はあんなヤツが来たら、お引き取りくださいなんて言えないよ」
「……そうだね。でも、私がしっかりしないと、八神さんや海藤さんに心配かけちゃうし」
怖かっただろうに、なまえは自分に笑顔を見せてくれる。まだどこか恐れが後を引きずっているが、彼女の勇気を天秤にかけると、そうしたい気持ちの方が勝っていた。
えらいね。僕なんかより。とほんの少し低い位置にある頭を優しく撫でた。何度も繰り返し、撫でているのに、どうして自分が彼女の気持ちを汲んでやりたいと思ったのかは分からない。だが、手の下にいる彼女は不服そうに、こちらを見上げている。何故だろうか。
「あれ、なんか嫌そう?」
「ううん、嫌じゃないよ。でもね、」
「でも?」
「……私の方が杉浦くんよりお姉さんだからね」
なまえはするりと杉浦の手から抜け出し、精一杯背伸びをしてみせた。杉浦は自分の予想と違った行動をするなまえに驚きつつも、一生懸命につま先立ちで腕を伸ばしている彼女のことを見守っていた。すると、今度は杉浦の頭の上に何かが触れる。
「私だけじゃないよ、えらかったのは杉浦くんも同じ」
優しい手つきが髪を撫でる。ありがとうね、助けてくれて。と温もりが降ってくる。彼女がつま先立ちになりたかった理由もわかった。だが、頭を撫でられたのはいつぶりだろうか。どこか気恥ずかしい自分がいるのも事実だ。ちらりとなまえを盗み見れば、無事であることを誰よりも一番喜んでいる笑顔がある。だから、杉浦はなまえのことを年上だとは思えず、もっと近くにいたいと思うのだと気付いた瞬間だった。
「もうすぐ警察、来るんでしょ」
「あ、そうだね。じゃあ、おしまい」
「なまえさんって先輩ってカンジがしないんだよね」
「え、何、急に、」
「本当は僕と同い年じゃない?」
「ち、違います……!」
元通りの背の並びに戻り、二人は気絶した男が目を覚まして逃げ出さないように見張り続けていた。その後、事務所下に到着した警官によって、悪質な詐欺を働こうとした男は連れて行かれた。