「まだ時間はええんか?」
店内の盛り上がった雰囲気が落ち着き始めた頃、真島はなまえにそう声を掛けた。
二人が食していた刺身定食の盆の上は綺麗になった皿だけが置かれていて、もう間もなくそれらは店員によって片付けられてしまうだろう。
「まだ大丈夫ですよ。なんて言っても明日はお休みですからね。」
「ほぉ、明日は休みかいな。ほんなら、まだお姉ちゃん連れ回しても大丈夫やな。」
「連れ回すって、…あ、あんまり遅い時間はちょっと、」
「なんや、あかんのか。休みや言うとったやないか。」
「でもダメですよ、だって、夜はちゃんと寝なきゃ。…まさか真島さん、寝ないつもりだったんですか?」
「ちゃうわ、酒が俺を求めとんねん。しゃーないから酒に構っとると、いつの間にか朝になるんや。不思議やなァ…。」
「…今日はちゃんと帰って寝ましょうね。」
空腹が満たされてからはお互いに手元の酒を飲み続けていた。
とは言っても、なまえはスローペースでゆっくりと流し込んでいたが、問題は真島である。
先程から飲むと言うより浴びる様に、がぶがぶと中身を空にしては、次に来たジョッキをまた空にしていく。
そんな飲み方をしていても、ちっとも真島の頬は赤らむことは無いし、まだ呂律もしっかりしている。
真島の言った通り、彼は酒に強いようだ。
しかし、真島が『いつの間にか朝になんねん。』と言い放った事で、なまえは今日のお酒はセーブさせなきゃいけない、と一人妙な正義感に燃えていた。
それを知ってか知らずか、真島はもう何杯目になるかわからない酒を飲み干してしまった。
そろそろストップをかけるべきだと、なまえは空のジョッキを持ち上げ、次持ってきてや〜!と上機嫌に声を上げる真島のその腕を下げた。
真島はきょとんとした顔でなまえを見つめていた。
その視線になまえは少し戸惑っていた、実はその先について何も考えていなかったのだ。
間延びした声を漏らした後、咄嗟に出てきたのはこれまた突拍子の無い、誘い文句だった。
「ああ、えっと…、私とお話しましょう。真島さん。」
二、三秒経ってから真島はきょとんとした顔を元に戻し、せやったら、適当なつまみと飲みもんあった方がええやろ?と折角下ろしていた腕をまた上げた。
注文頼むわ〜!と投げ掛けた言葉に、少々お待ちを!と夜でも明るく元気な声が返ってくる。
黒い革手袋は再びフードメニューを手に取り、お姉ちゃんも選んどき、と差し出す。
「真島さん、今日は飲み過ぎちゃダメですよ。」
「まだ飲み足りひんわ。お姉ちゃんも遠慮せんと、どんどん飲んだれや。」
「…お酒なんて沢山飲まなくても楽しいですよ、私。」
それは独り言のように行くあての無いものだった。
真島にぶつける為の言葉では無かったけれど、それはするりと正面にいる本人の耳に入り込むと、心臓の奥にある柔らかな心のような場所に緩やかに刺さった。
騒ぎ立てるように回り始めた酔いが急速に引いていく。
彼女の溜息のようにも聞こえる声に、真島も行くあての無い言葉で、せやな、と呟いた。
「なら、次の一杯で終いにしよか。お姉ちゃんと楽しくお喋りでもしようやないか。」
「はい…!」
「そない嬉しそうな顔すんなや、お冷いるやろ?」
「ええ、いただきます、」
潰れてもうたら、お姉ちゃんとお喋り出来ひんもんなァ、と真島は空っぽのまま、手元に置き去りにされたジョッキをテーブルの端に寄せる。
まるで微睡みに似た、酔った雰囲気が真島から消えていた。
暖かな視線に釘付けになっている間、なまえは真島の顔にふと微かに赤らむ頬を見つけて、自分だけの秘密にしてしまおうと差し出されたメニューを取った。
真島が呼び付けた店員は数分だけ間を空けてから、二人のテーブルへとやってきた。
手にしていたメモ帳にボールペンが真島の言葉を追うように、紙面を走り、止まってはまた不規則に走る。
日本酒とお冷と枝豆、たったそれだけだったけれど、二人が他愛もない話をするのにはそれくらいが丁度良かった。
注文の確認を済ませた店員はジョッキを二つほど抱えて、厨房へと戻って行く。
一つは真島のもの、もう一つはやっと空っぽになったばかりのなまえのものだった。
飲むペースが早い方では無かったこともあり、初めに頼んだサワーがなかなか減らず、食事が終わっても尚、飲み続けていた。
それももう空になり、気が付くと体も少し暖かくなり過ぎているようで、真島の頼んでくれたお冷が待ち遠しいと思った。
急にテーブルの上が寂しくなってしまったからだろうか、真島は懐を探り、煙草と思われる箱を取り出すと、ええか、と一呼吸置いた。
大丈夫ですよ、と備え付けの灰皿を真島の前に持ち出す。
すまんな、と深い意味を持たない言葉がなまえの元へやってくると、なまえはいいえ、と受け止めた。
相手の声音や言葉から意味を探るのはとても容易ではない。
しかし、それを必要としない、今のように身軽な会話をなまえはどこか気に入っていた。
丁寧な言葉を選んだ会話も良いだろう、それとは反対に砕けた会話も良い。
けれど、反射的に交わされる意味の無い、相槌だけで成り立つ会話の良さがそこにあった。
「煙たかったら言うてや。お姉ちゃん、煙草吸わんやろ?」
「ええ、そうですね。でも気にしないで下さい。」
「嫌やないんか?俺の顔色なんぞ伺わなくてええんやで。嫌なら嫌言うたってくれや。」
「いいえ…!そう言うのじゃないんですけど、」
真島の中途半端に咥えた煙草が喋る度に上下する、なまえの好きな姿の一歩手前にいる真島に告白するように告げる。
「好きなんです、真島さんの煙草吸ってる姿。なんか好きです。」
ここで二度目のきょとん顔である。
真島は本日二回目のそれを顔に貼り付けたせいで、咥えていた煙草がテーブルの上に落ちて横たわっていた。
なまえも真島のその様に、自分の言葉を思い返しては、何か変な事を言ってしまったのかと不安が顔に出始める。
その頬はほんのりと赤く、たった一杯の酒でも感情の起伏を滑らかにしてしまうくらいには酔っていた。
酒に酔ったのか、それとも雰囲気に酔ったのか、それはなまえにも分からなかった。
「やっぱ、酒入ると人間大胆になるもんやなァ…。」
「それってどういう…?」
「…女言うんは怖いのぉ、自覚無いんかいな…。おぉ、怖い怖い、」
「あの、ちゃんと教えてください、」
「ざっくり言うと、お姉ちゃんも中々やる女やないかっちゅうことや。」
「そう、ですかね…?あ、真島さん悪酔いしてます…?」
真島は、いや、俺ちゃうわ。と飛び出そうになった言葉を、拾った煙草で無理矢理遮った。
そして代わりに、そうかもしれへんなァ、と返し、置いてかれっ放しの煙草にお待ちかねの火を灯す。
呼吸と同じ手順で、酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出すように、独特の香りのする煙を吐く。
「…ええで、やったる。今からたっぷり見せたるから、よう見とけや。」
煙を吐き出す時の口元、煙越しに見えた気怠そうな瞳、革手袋越しに見える細くて長い骨張った指先、テーブルに肘掛た腕、そして長くなった灰を落とす仕草。
街で偶然出会い、連れて行ってもらった喫茶店でも同じ姿を見ている筈なのに、あの時と今なまえが胸に感じているものは全く同じものでは無かった。
見惚れているのに、どこかぼんやりと考え事をしているような感覚だった。
肝心な意識は目の前の真島を通り越して、遠い先の事を見つめていた。
酷く不鮮明な未来予想をなまえは真島越しに見た。
それはあまりにも乙女チックで、どこかの童話のように優しい。
なまえが真島の近くにいる、なんて都合のいい空想事だろう。
それでもその並んで歩く景色を素直に羨ましいと思う。
夢を見る思考に自分でも恥ずかしくなり、自ずと髪に触れた。
さらさらと通り抜ける感触に頬の熱さが落ち着いていく。
真島の煙草が短くなっていた。
さて、どうしようかと視線を外に逃がしてみると、カウンター越しに二人が頼んだであろうものが並べられていた。
それがこちらへやって来るのは時間の問題で、なまえとしては今すぐにでも、あのお冷を飲んでクールダウンしたいと密かに思っている。