足早に迎えた息抜きの終わりは胸に暖かな余韻を残した。頬を掠める冷たい風も気にすることなく、なまえとソンヒは自分達の拠点があるコリアン街へと戻って来た。コミジュルの縄張りであるが故に人の姿は少ない。廃虚のような建物が不気味に立ち並ぶ道を行けば、すぐに同胞達が目についた。ここはもうコミジュルの区画なのである。

「そうだ、なまえ。一つ頼まれてくれないか」
「頼み、ですか?私は構いませんが、」
「部屋に戻るついでに、ハン・ジュンギを呼んできてもらいたい。場所はモニタールームだ」

 アイツに用があってな、と口にするソンヒは、日中に見せた姿とは別人のように真面目な顔をしていた。何の話かは聞くまでもない、ソンヒとハン・ジュンギが交わす話は全て機密事項だ。そしてそれは全て、コミジュルである自分達に恩恵として齎される。一度頷き、ソンヒの目を見た。それじゃあ、頼んだぞ。と二手に別れ、コミジュルの総帥である彼女は異人町の全てを覗くモニタールームへ。なまえは迷いのない足取りでまずは近くにいる仲間の元へ。
 ハン・ジュンギの居場所とソンヒの名を挙げれば、必ず答えは帰ってくる。どうやらハン・ジュンギも先程まで出ていたらしく、ほんの数分前にここへ戻って来たとの事。もしかしたら、屋上で一服しているかもしれないと仲間の言葉に次の目的地が決まる。手短に礼を済ませ、なまえは屋上へと続く階段を目指した。


 やはり、ハン・ジュンギは屋上に居た。且つ仲間の言った通りにその手には煙草があり、一人で煙の中に佇んでいる。今日の任務も完遂したのだろう、もう少しゆっくりと一服していてもらいたいのだが、ソンヒからの呼び出しを食らっているからには出向いて貰わねばならない。申し訳ない気持ちになりながらも、なまえは黒コートの背中に声を掛けた。

「参謀、今よろしいですか」
「ええ、構いませんよ。私に用があって来たのでしょうから、」

 ハン・ジュンギは手にしていた煙草を地に落とし、靴底でその火を捻じ消す。靄のように漂う煙の中で彼がこちらを向く。なまえは今居る場所から近寄ることなく、話の続きをしようとしていたのだが、それは彼の意外な行動によって遮られることになる。
 表情から読み取れたのは驚きだった。こちらを向いたハン・ジュンギは自分を見ると、すぐに目を丸くしていた。その理由が分からずに二の句が続けられないでいると、こちらへと急ぎ足でやって来たハン・ジュンギに詰め寄られる。

「なまえ、あなたのその格好は一体、」
「これは……、その、」
「あなたにも少し考えていただきたいものですね」
「それは、どういう意味でしょうか……?」

 ハン・ジュンギの言葉の意味が分からない。一方的に責められてはいるが、ただの叱責とは何かが違うように感じられた。急ぎ足で乱雑に自分のコートを脱ぎ出したハン・ジュンギの行動の意図も分からないままでいると、自分の肩にそのコートを掛けられ、更に混乱する。

「こんな時期にそんな薄着でいては体を冷やしてしまう。これを貸しますから、すぐに部屋に戻りなさい」
「え……?で、ですが、これを借りてしまっては参謀が、」
「私のことより今はなまえ、あなたの方が心配です。それに、このような場所でその格好はあまり好ましくありませんよ」

 例え同胞達が家族と言えども、あなたに対してもっと親密な感情を抱く者も居るはずですから。と言い切り、ハン・ジュンギはなまえから要件を聞き出すと、あまり長居をせずに立ち去ってしまった。別れ際には、また後で部屋に伺います。その時にコートの返却を。と言い残して。なまえはハン・ジュンギの言い付け通り、肩に掛けられたコートを深く羽織って自室へと戻って行った。


***


 ──親密な感情を抱く者も居るはずですから。
 自分の言葉が深く胸に突き刺さる。初めて見た彼女の格好に未だ口にすべき言葉を見つけられないでいる。確か、今日はソンヒに付き合うのだと言っていた。そうなると、なまえのあの姿にはソンヒが一枚噛んでいるのかもしれない。
 ハン・ジュンギは黒のインナーシャツのまま、冷たい風を切って歩いていた。風は体の表面から体温を奪っていくものの、もっと奥深くにある思考の熱は取り除いてくれない。親密な感情とは、きっとこういう気持ちのことを言うのだろう。予想外だった、考えもしなかった、意外だった、……よく似合っていた。徐々に心は素直な言葉を吐き、それに理解を示す自分は、あのハン・ジュンギの皮が剥がれかかっている様に思えた。こんな顔ではソンヒに内心を悟られてしまうと、ハン・ジュンギは取り急ぎ冷静に努めた。



「まるで急いでその顔を作ってきたように見えるぞ、ハン・ジュンギ」
「それは少々誤りがあるかと。私はいつもこの顔なのです」
「フッ、そうだったな。すまない、妙なことを口にして」
「いいえ、構いません。いつものソンヒのお戯れでしょうから」

 モニタールームに到着して早々、不敵に笑うソンヒに確信する。なまえの華美な姿はソンヒによるものだと。既に冷えた体だと言うのに、内心冷や汗をかく。

「……どうやら、何かに気付いたようだな。そうだろう、」
「ええ。先程の笑みで何となく予想はつきました」
「それで、どうだった。アイツの格好は」
「露出が多いように感じられました。この時期にはあまり相応しくないかと、」
「ほう、お前は私がそういう答えを望んでいると思ったのか」

 ソンヒの悪い顔が見え、話の腰を折るように要件は何かと訊ねれば、そうだな……。と素の顔を覗かせて顎に手を添える。まさか、彼女の服装について感想を聞き出す為に呼び出したと言うのか。

「念の為に言っておくが、あれは私の息抜きに付き合ってくれたなまえへの礼だ」
「礼、ですか」
「ああ。それにアイツも気に入っていてな、まるで別人みたいだと喜んでいたよ」
「そう、でしたか。良い息抜きになったようで何よりです」
「とても良い一日だった。また機会があれば、アイツを借りていくが構わんな?」

 私の許可など不要です。フフ、そうか。これは良いことを聞いた。と企むは総帥、窺うは参謀。それを知らぬは一構成員の彼女。見透かされたような笑みにハン・ジュンギは肌寒さを覚えた。なまえにコートを預けてから数分が経っている、黒のインナーシャツだけでは体温の低下を止めることは出来ない。

「すまない、長話をしてしまったようだな。お前も風邪を引く前になまえに預けたコートを取ってくるといい」
「ですが、ソンヒの要件とは、」
「ああ、あれか。あれはただお前と話がしたかっただけだ。既に用は済んだ、もう行っていいぞ」

 悪戯な気まぐれに、完全にしてやられた。気まぐれ、いや、これは故意だ。ソンヒには何もかもが筒抜けでお見通しなのだ。

「ソンヒ、そのようなお戯れは、」
「ほら、早く行きな。なまえもいつまでもお前のコートを預けられてちゃ困るだろうからね」
「……分かりました。では、失礼します」


 モニタールームを追い出されたハン・ジュンギは徐々に冷えの強くなる体で、半ば強引にコートを預けたなまえの部屋へと向かった。しかし、手短に済ませるとは言え、ソンヒに心を揺さぶられ、見透かされた後では何と声をかければいいのか分からなくなった。気恥ずかしさが会いにくい理由となり、自分の邪魔をする。気にする必要は無い、いつも通りに用件を済ませ、さっさと立ち去ればいい。


 やがてシルバーアッシュの人影はコミジュルの居住区を訪れた。外観は廃れた賃貸物件、廃墟のような装い、組織にとって生命線である太く何重にも張り巡らされた配線が作り上げた蜘蛛の巣であっても、自分達が生活していけるだけの区域はある。その内の小さな一室に彼女の部屋があり、ハン・ジュンギは迷いながらもその扉の前までやって来た。ノックを二回、そして、私です。と告げれば、開かれた扉の隙間からなまえが顔を覗かせる。預けていたコートを取りに来たと伝えれば、なまえは部屋の奥からコートを大切そうに抱えて自分の前に現れた。

「その格好は、」
「参謀が仰っていた通り、確かにこの時期にあのような服装では体が冷えてしまって」

 屋上で見た姿のなまえはもういない。その代わりに自分の言葉に従った普段通りの格好をしているなまえがいた。ソンヒの、なまえも気に入っていたという言葉を思い出すと、自分の忠告があまりにも残酷なものだったんじゃないかと思えてしまう。

「……勘違いをさせてしまったようだ。なまえ、私は今日のあの格好を否定するつもりはありません。ただ、」
「ただ……?」
「ただ、……他者の目を気にしてしまったと言うのが、私の率直な感想です」

 自身の言葉の意味を理解出来ていないなまえはただ目を丸くさせるばかりで、ハン・ジュンギという目の前にいる男の頬が熱くなる感情を悟れずにいる。やがてなまえは抱えたコートを胸に視線を逃がすようになった。まだ答えが見つからないようで、もどかしさに息が詰まり、息継ぎをするように心の声を紡ぐ。より分かりやすく、噛み砕いて言い聞かせる。

「とても、良く似合っていました。ソンヒもなまえに何が似合うかきちんと分かっているのでしょう」
「……ありがとう、ございます。私は、てっきり、その、」
「なんです?言ってみなさい」
「参謀は、ああいう服装があまり好きではないのかと、」
「好きではない、決してそういう訳ではありません」

 決してそういう訳では。となまえの逃げた視線を追いかけるとそこには、滅多にないなまえの照れ、戸惑う姿があった。口を噤んで何かに耐え、眉は困ったと言いたげに、瞬きすら不規則に繰り返される。彼女はこんなにも分かりやすい人間だっただろうか。今まで何度も任務を共にしてきたが、こんなに読み取りやすい感情を表にしているのは初めてのことだ。そう言うところだ、なまえの不意を突かれて出てくる感情の一端に周りを気にしてしまう。庇護欲、かもしれない、彼女に抱いている感情の一つは。

「あなたは、思った以上に、」

 続きを遮ったのは携帯への着信だった。手に取り、通話に応じれば新たな用件が舞い込んでくる。もう長居は出来ない、なまえにもそう悟られたことだろう。寂しげに揺れた瞳を捉え、ハン・ジュンギは何も持たない手でなまえの頬に触れた。通話相手との受け答え、且つ慰めるように手のひらで彼女に触れる。熱い、ただこの手が冷え切ってしまっただけかもしれないが、手のひらで触れる彼女の頬は熱い。指先で頬を撫で、後に俯きがちな頭を撫でる。そして通話が終わる頃には少しだけ妙なムードが漂う。ああ、ここが横浜の街の夜景を一望出来る場所であったなら、と浮ついた考えもそこそこにハン・ジュンギはなまえからコートを受け取る。

「ソンヒは本当にいい相手を連れて、息抜きをしたようですね。羨ましい限りです」

 ですから、今度は私にお付き合いいただけますか。と彼女の次を押さえる。ソンヒになまえが貸し出される前に、彼女の一日を自分の手元へ置いておきたい。腕を通し、ファスナーの金具を噛み合せると、不意になまえの手がその金具へと伸びてきた。手はしっかりとそれを摘み、きゅっと首元まで金具を滑らせる。

「……参謀、お気を付けて」
「ええ、ありがとうございます。なまえもどうか体を冷やさぬように」

 立ち去る間際、なまえはハン・ジュンギに問い掛けた。それに、勿論。と答えれば、なまえはどこか嬉しそうな顔を隠せないまま、頭を下げていた。彼女を気遣い、足早に立ち去る。自分の動揺を悟られぬ為にも彼女に背を向ける必要があった。

"参謀の息抜きの日には、またあの姿でも構いませんか?"

 熱の冷めない言葉が何度も繰り返し響き続ける。その日が来れば言えるだろうか、動揺だと言い張る己の心情を。ありのままに素直な言葉で伝えられるだろうか、恋愛感情の一節を。らしくない女々しさを抱えながら、ハン・ジュンギは辺りの闇に溶けていった。