そこは丁度、異人町の鶴亀橋付近だった。定期的に炊き出しをやっている小さな一区画で、なまえは声をかけられた。辺りに声の主を探してみたが、人の姿はない。しかし、不意に足元で感じた柔らかな感触に視線を下に向けると、そこには大きな毛玉がぽつんと置かれていた。もぞもぞと動いては人懐っこそうに口元を足に擦りつけてくる。ぴょこんと立った耳に、くりくりとした目。しっぽは緩やかに左右に揺れており、ねーねー、と話しかけるように鳴いている。
「……ねこ?」
その場にしゃがみ込み、足元にいた猫の顔を覗き込む。ぐりぐりと顔を強く擦り付けてくるものだから、何となしに頭を撫でてみればご機嫌と言った感じに喉を鳴らし始める。噛まれたり、引っ掻かれたりするかと思ったのだが、どうやら人に慣れている猫のようだ。どうしたの?と戯れで声をかけてみると、こちらをじっと見た後に数歩先へ歩いて行った。そして、振り返ったかと思うと小さく鳴いた。ついてこい、と言いたそうに。
なまえはその猫に誘われるがまま、後をついて行った。櫻川通りを南に、その途中にある角を曲がれば、中央通り西に出る。しかし、猫の足はまだ止まらない。一体、どこへ連れて行きたいのだろうか。猫と人間の旅は続く。行き先が分からず、内心困ってはいたが、猫について行った先にあるものが気になるのも正直なところで、葛藤しながら進んでいると、なまえと猫は意外な人物と遭遇した。
「よぉ、こんなところで何してんだ」
「桑名さん」
「なんだ、猫の散歩か?奇妙なことしてるんだな」
「……えっと、これはちょっと訳ありで」
中央通り西には異人町の便利屋である桑名の事務所がある。それは以前招かれた時に知っていたのだが、まさかこのタイミングで出会すとは思ってもみなかった。すると、数歩先を歩いていた猫がまっすぐに桑名に向かって近付いている。なまえはこれ以上、変に距離を縮める訳にもいかず、猫の動向を見守っていた。のそのそと警戒心なく近付いて行った猫は、桑名の前で足を止めると、にゃーんと一言鳴いた。桑名も足元で鳴いた猫に気を取られ、じっと見つめている。
「お前、あの時の猫か?」
「この子のこと、知ってるんですか?」
「ああ。この間、隣の店が人手が足りねえってんで手伝いに入ってたんだ。その時、店の裏でコイツを見かけてな」
「あ、もしかしてご飯を?」
「勿論、ちゃんと食える部分をやったんだが」
なんだ、また腹が減ってんのか?と足元の猫を抱き抱えると、猫はただ鳴いて返事をするばかり。なまえは桑名が猫を抱えて話をしている姿が微笑ましく、新鮮だと口元がゆるゆるになっていくのを感じていた。その視線に気が付いたのか、桑名も表情の柔らかななまえを見た。そして、もう一度猫を見やり、小さく話しかける。
「……お前、もしかしてこの子を連れて来たかったのか?この間の礼に?」
「にゃー」
「猫ってのはそういうのにも鼻が利くもんなのかねぇ」
「にゃー」
「ま、とにかくありがとな」
「にゃー」
人語と猫語の応酬は静かに終わり、桑名は抱えていた猫をそっと道路の上に戻す。それから少し撫でてやると、満足したらしく猫は狭い隙間に潜って行ってしまった。
「どうやら、アイツは気も利く猫みたいだ」
「桑名さんは猫にも顔が知られてるんですね」
「まあな。でも、アイツら人を見る目があるよなぁ。みょうじ君もそう思うだろ?」
「ふふ、そうかもしれませんね」
「ま、ここで会ったのも何かの縁だ。どうだい、素敵な便利屋さんとお茶でも」
それ、自分で言っちゃうんですか。じゃあ、代わりに言ってくれるか?……素敵な便利屋さん。よし、いい子だ。今日は何が食べたい。喫茶ポケットのストロベリーパフェ。お安い御用だ。みょうじ君ならアールグレイを付けてもいい。
二人は歩幅を合わせて歩いて行く。なまえは予期せぬお茶の誘いに顔を綻ばせ、桑名はあの猫に感謝しなきゃな、と内心密かに思っていると、なまえが突然思い出したように話し始めた。
「そう言えば、桑名さんはあの猫と仲良しなんですよね?」
「ああ。ある意味、同じ釜の飯を食ってる」
「私、ちょっと前にも猫に誘われたことがあって」
「またあの猫か?」
「いえ、あの時は中華街の猫でした。確か、顔にある模様が眉毛みたいな子で」
「どこに誘われた」
「えっと、八神さんのところです」
「な……っ?!八神の所だと……!」
なんで、よりにもよって他所の探偵のところに案内されるんだよ!と桑名は声を荒らげていた。なまえもそれには驚いており、桑名に落ち着くよう言い聞かせ、その続きを話し出す。
なまえは中華街にいる猫に、今日と同じく誘われてついて行った。その先には丁度、依頼をこなしているであろう八神がおり、今までに二回も八神の元へと案内されていることを告げた。完全に初耳で寝耳に水だと、桑名は相槌が打てないままだ。
「八神さんが受けた依頼に、猫が関わってるらしくて、それで最近は仲良くしてるって言ってましたよ」
「アイツは一体どんな依頼を受けてんだ……?」
「詳しくは分かりませんけど、だから八神さんのところに行ったのかなって」
「だとしても、異人町で縄張りを持つなら、まずは俺に話を通すべきだ」
「く、桑名さん……?」
あ、もしかして。となまえは眉をゆるやかに吊り上げて桑名に詰め寄った。桑名はなまえが眉間に皺を寄せていることに気付くと、まずいと思ったのか誤解のないようにもう一度言い直す。
「お、俺は異人町のベテランだ。八神君さえ話を通してくれれば、相談くらいには乗ってやろうと……」
「そう言って、前も街中で喧嘩してたって杉浦くん言ってましたよ」
「……探偵稼業ってのは守秘義務があるんじゃないのか、杉浦君」
「もう。猫のことで、大の大人が喧嘩なんかしないでくださいね」
ああ、気をつけるよ。となまえの圧に押され、桑名は口を噤む。これは異人町のベテランであるが故のメンツであったり、プライドであったりするのだが、実際それらはあまり関係しない。ただ、桑名の中で引っかかったのは、彼女のことだった。ここ、異人町には八神の後輩である杉浦や同業の九十九がいる。彼らはしっかりと自分に仁義を切り、筋を通した人間だ。それに免じて八神がこの街で、ある程度好き勝手にやるのは構わない。だが、彼女のことに関してはそれを許したくない。
「でも、桑名さんって年上なのに子供みたいな一面があるんですね。知らなかった、ふふ」
「おいおい、俺を子供扱いするにはみょうじ君もまだ年齢が足りないだろう」
「だって、猫のことで八神さんを嫌だなって思ってるんですよね?」
それってまるっきり子供じゃないですか。と痛いところを突かれ、君には分からない事情があるんだ。と返せば、じゃあ私にも教えてください。と更に迫られてしまった。
「この街の猫が八神さんと仲良くしちゃいけない理由」
「……ぐ、それは、」
大っぴらにみょうじなまえが八神に取られるのが気に食わないとは言えない。どうしたものかと考え込んでいると、今度は別の猫がなまえに声をかけてきた。先の一匹と同じく顔を足元に擦り付けては、心地良さそうに喉を鳴らしている。その様子になまえも足元の猫を無視出来ないと身を屈め、猫の相手に回る。彼女に迫られることは滅多にないが、内容があまり良いものではない。これが男女の仲に係わるものなら、喜んで迫られたことだろう。
「桑名さん、この子可愛いです」
「ああ、そうだな。君によく似てるよ」
「おだてられても何もないですからね」
厳しい言葉を返した割には、鼻高々に綻んだ顔をしているなまえから猫を抱き上げ、小声で語りかける。
「……お前は他所の探偵なんかに懐くんじゃねえぞ。いいか、次も俺のところに彼女を連れて来るんだ」
いいな?と訊ねると、猫は気ままににゃーんと鳴き、つぶらな瞳で桑名を見つめ返すばかりだ。そして、桑名もやられたままではいられないと、今度猫達に缶詰めの差し入れでもしてやろうと目論むのであった。もうこれ以上、彼女を八神に取られたくない一心、故に。