真島の一言になまえは固まり、驚いているようだった。一階の広いホールに面したテーブルには、真島の他になまえだけが取り残されたようにソファーに腰掛けていた。ここは大阪蒼天堀、キャバレーグランド。支配人である真島と、店のキャストであるなまえは互いに顔を付き合わせながら、まだ見えぬ来客について話をしていたのだ。
「嫌やないんか、なまえちゃん」
「いえ、嫌なことなんて何も」
「ほんまか?言いづらいんやったら、俺やなくても同じキャストの子に言うたらええ」
「お気遣いは嬉しいんですが、本当に何のことか」
なまえには、とある太客がいた。大抵、この店にやって来る客は羽振りの良い人間ばかりだ。それこそ、提供するサービスに釣り合うような将来有望な人物達ばかり。だが、彼女を気に入ってくれている男だけは、他の人間とはまるで毛並みが違う相手だった。極道、それも極めてタチの悪い部類に入るヤクザだ。以前も、この店に真島目当てで来店した際には、好きなだけ暴れ倒し、挙句の果てには得物まで持ち出した危険人物だ。もう二度と店にやって来ることはないと踏んでいたのだが、今度のお気に入りは真島から彼女へとシフトしたらしい。
「そないなこと言うても、相手はヤクザや。なまえちゃんが言いづらかったら、俺が代わりに話し合わなあかん」
「ですから、本当に嫌なことなんてないんですよ」
「……俺にはわからん」
「支配人との件は聞いてますけど、でも、普通にお客さんとして接してくれてます」
「あの、西谷がか?」
「ええ。たまにいやらしい目で見てくるくらいで、それ以外は全然」
「その、いやらしい目っちゅうのも平気なんか」
「ふふ、寧ろ可愛いくらいです」
あの西谷を前にして、可愛いと言ってのけるなまえに真島は言葉を失っていた。西谷との付き合いがあるせいか、豪胆な性格へと変わっていたのだろうか。真島は西谷がどういった人間かを分かっているつもりだ。そんな相手を笑って受け流すほどの豪胆さを、真島はたった今目の当たりにしたのだ。初めて会った頃には、このような積極性や豪胆さを垣間見ることはなかった。どこにでもいるような、人との距離をある程度保てるような子であるとしか。しかし、確かに西谷と出会ってからのなまえは、控えめな女性であったことを忘れさせるくらいに快活で朗らかな人物になったように思う。
「ウチは誰がお客やろうと、お触り禁止でやっとる。俺は正直、西谷が手ェ出さへんようには思えんのや」
「でも、私は触られたことがないので」
「ほんまか……?!」
「確かにいやらしい目で見られることはありますが、それ以上のことはないですよ」
「おしり触られたりもか?」
「はい」
「胸触られたりもか?」
「ええ、全く一度も」
真島は開いた口が塞がらなかった。その様子を見たなまえも驚いていたようで、二人の間に妙な沈黙が流れる。なまえの言葉を疑うわけではないが、どうしても彼女の言い分と自分の知る西谷の姿が上手く当てはまらない。だからこそ、余計に彼女から西谷の話を聞きたくなった。自分の知らない一面を覗かせるあの男が、なまえに対してはどのような姿を見せているのかを。
「テーブルにつく時はどんな感じや」
「普通に気のいいおじさまって感じですよ」
「まあ、陰気なタイプとちゃうからな」
「はよ、おいで。もっと近くに座り、って嬉しそうにしてくれます」
「なまえちゃんみたいな子がタイプなんやろな」
「西谷さん、今の支配人と同じこと言ってました」
それから、なまえの口から語られる西谷誉という男は実に陽気な人物像であることが窺えた。いつも自分を指名するのは、俺の好みやからと恥ずかしげもなく添えてくれること。変に酒ばかりを勧めず、無理に酔わせず、楽しい時間を過ごせるようにと考えてくれていること。お触りなどをしてこないのも、好きな子を困らせるんは性にあわんからと言っていたこと。全てが予想と反しており、ただ単純に意外だった。そして、その西谷との話をするなまえも笑顔のままで、何一つ嘘などないのだと理解した瞬間だった。
「この前なんて、私が西谷さんのスーツと同じ色のドレスを着ていったら、ずーっとべっぴんさんやべっぴんさんやって言ってくれて」
「相当、惚れ込んどるな。アイツ」
「なんて言いますか、本当に可愛いんです。西谷さん」
「ほお、なまえちゃんにそこまで言わすとは」
「そのドレス、実は胸元がいつもより開いていて恥ずかしかったんですけど、」
ふふふ、と口元に手を添え、なまえは笑いを堪えるように続けた。
「……鼻の下、伸ばしちゃって。どうしました?って聞いても、目逸らすばかりで」
「あん時は俺も目のやり場に困るほどやったからな」
「でも、支配人も見てたの知ってますよ」
「うっ、……すまん」
「大丈夫ですよ。そういうのもありだって分かってますから、ここ」
ああ、彼女のこういうところに弱いのだと実感する。あの西谷が大人しくなるのも頷ける。この子は無防備そうに見えて、実はしっかりしているタイプの子なのだと。もしかしたら、年上キラーなるものなのかもしれない。実際、自分もそれなりのところにいたり、するのだが。
「それに嬉しいじゃないですか。自分が綺麗な格好をしたら、相手が照れちゃうくらい見蕩れてくれるの」
「まあ、せやな。ほんまに女の子はよう変わる」
「だから、正直に照れてくれたり、ちょっとえっちな目をしてたりしてても、私は嫌じゃないです」
「あの大人しかったなまえちゃんがなぁ」
記憶の片隅に置いてある、彼女は今より消極的で笑顔も控えめな女性だった。それが今はどうだろうか。危険な相手であるとは言え、たった一人の人間をここまで変えてしまったのだ。あの、西谷誉と言う男が。
「客がキャストに気に入られるなんぞ、滅多にないっちゅうのに」
「……で、でも、このお店のルールを破ったりはしませんから。支配人に迷惑はかけません……!」
「話はよう分かった。なまえちゃんがそこまで言うんなら、信じたる」
「ありがとうございます、支配人……!」
無邪気さを例えれば、子どものようであり、色っぽさを取り上げれば、大人のそれである。けれど、一つ話し出せば、年頃の娘であることを思い知らされる。あの男を飼い慣らせるのは、案外こう言った純粋で素朴な、明るい女性だったりするのかもしれない。
これは真島の好きな瞬間の内の一つだった。自身の店でトップを張れる女の子達は皆、かつての彼女と同じようにまだ荒削りでありながら、どこがギラリと輝く一面を持ち合わせていた。それがまるで彼女の中にもあるのだと告げられているような気がして、真島は密かに誇らしげな気持ちになる。すると、今まで話題の人物であった男がキャバレーグランドに姿を見せた。
「なんや、ま〜だ真島くんおったんかいな」
間延びして、耳にまとわりつく様な声。床を革靴で踏み鳴らしながら、二人のテーブルの前まで来ると、当然と言うように彼女の隣につく。おって当然やろ、俺はここの支配人や。と正論で返したところで、この男にはてんで通用しない。
「ま、ええわ。せやったら、真島くんも一緒に飲もうや」
「せやから、俺は支配人やぞ。客と一緒には飲めへんやろ」
「ええやないかあ、なあ?なまえちゃん。たまには三人で仲良う飲んだら」
「あのなぁ、こっちはまだ仕事中や言うてんねん」
「せやから、今日は貸切にしたんやないか」
「アホなこと抜かすな」
喧嘩しないでくださいよ……!となまえが間に割って入る。しかし、彼女が間に割って入ったことで西谷の興味はすぐ彼女に戻ってしまった。
「なまえちゃん、聞いとったかあ?真島くんはワシの酒が飲めへん言うて」
「しょうがないですよ、支配人なんですから」
「ほんなら、はよ飲もうや。真島くんが飲めへんなら、二人でしこたま飲むだけや」
「あまり飲みすぎないでくださいね」
「大丈夫や、なまえちゃんに迷惑はかけへん約束やからな」
ほんまに程々にしてくれや。と真島は席を立とうとした。すると、突然自分を呼ぶ声に真島はそれ以上、動けなくなってしまった。声の主は西谷だった。
「なまえちゃん、今日着とるドレス、背中が丸見えやないか!」
「ええ、この間着てたドレスは胸元が広すぎって言ってたから」
「こない、背中が開いてたらあちこちに手ェ入れられてまうでえ、」
「おい、西谷。再三言うとるが、ウチは……」
「お触り禁止、なまえちゃんから口酸っぱく言われとる」
それでも、や。となまえの背中を注視する西谷の顔は表情筋がいやらしく緩んでいた。そろそろ彼女も西谷のだらしない顔に気付く頃だろうとなまえを見た。やはり彼女も西谷の言葉を気にしているようで、どこか気恥ずかしそうにドレスの具合を見ていた。
「へ、変ですか?」
「いや、変っちゅうわけやない。ただ、」
「ただ?なんですか、支配人」
「なまえちゃんも実ってきた、ちゅうんか?」
「それ、どういうことですか……」
真島くんがはっきり言わんから、なまえちゃんご機嫌ななめになってもうたやないか。と軽く悪態をつくのは西谷で、なまえは相変わらず今日のドレスを気にしている。自分の言い回しが悪いとは言え、はっきりとは言ってやれないだろうと内心。
彼女の背筋が緩やかにしなる。背中が開き過ぎだと西谷に言われたからだ。だが、言われてしまえば気になるのが性分というもので、だからこそなまえは何度も背筋をしならせている。その姿がやけに艶めかしく、美しいものだった。自分より年下の、ましてや同じ店のキャストだ。そんな彼女に気を惹かれている自分がいる。支配人である自分がそのようなことを伝える訳にはいかない。
「よう言うわ。西谷、あんたはどう思っとるんや」
「おお、ワシか。ワシはな……、」
西谷が放った一言は、場の空気を凍らせるのに一役買っていた。確かに今は夜だ、深い時間だ。しかし、目の前には自分も含めて女の子がいる場なのだ。西谷が発したのは、性的な意味を大いに含む直接的な言葉の数々。横目で彼女を見れば、滅多に耳にしない直接的な表現に顔を赤らめている。西谷はと言えば、いかがわしい身振り手振りでなまえに迫っている。これが本性だとなまえも分かってくれただろうか。この店には厄介な客も来る。当然のことだ。
しかし、西谷だけは。西谷誉だけはその中でも群を抜いて厄介な客なのだ。少し目眩がすると言った彼女に、西谷はすかさず声をかける。
「そらあ大変や。せやったら、なまえちゃんがゆっくり出来るとこ行かな」
「ウチはアフターもやっとらんで」
「アフターやない。仕事切り上げて、なまえちゃんのプライベートや」
「プライベートっちゅうんなら、俺が付き添ったるわ。一応、職場で具合悪うなっとんのやから」
「なんや、真島くん。ワシには厳しいこと言うといて、自分はなまえちゃんと二人っきりになろうとしてんねやろ」
「あんたといるよりかはマシやろ。二人っきりにしたら、何されるか分かったもんやない」
「それはワシのセリフや、真島くん」
真島と西谷の攻防を二人の中心で見守ることとなったなまえは椅子に深くもたれ掛かる。目眩なんて本当に軽い症状のものが一瞬だけちらりと出てきただけだ。だが、今の二人を止められるほどの元気もない。大の大人が言い合っているのを他所に、なまえはこの口喧嘩が終わるまでじっと待つ他にないと二人の賑やかさの傍で小さく背中を丸めた。