バットのスイング音と打球音が爽快に響くバッティングセンターにその男は入り浸っていた。液晶に表示された選手に目もくれず、ただ放たれた球目掛けて手にした金属バットをフルスイングしている。当たろうが当たらなかろうがどちらでも良い。球を打つ瞬間に伝わる衝撃に手が痺れる気配はなく、どこか物足りなささえ感じていた時だった。
不意に隣から気持ちのいい打球音が響いた。その打席にあるのは自分より小柄な女の姿だ。やるやないか、あの姉ちゃん。と零しながら、男は次の打球をバッティングセンター内に設けられたネットまで打ち返す。両者が繰り広げる打球音の応酬に次第にボルテージが上がっていくのを肌で感じる。女は不敵な笑みを浮かべたまま、球を遠くへ打ち上げ、男も同様に後を追って高く打ち上げていく。しかし、先に打席を去ったのは女であった。何かに満足したかのような表情で女は身軽にバッターボックスを後にする。それを見ていた男は自身に向かって投げられた球のことなどを忘れ、去り行く女に声をかけた。
「ええ腕しとんなァ、姉ちゃん」
女は振り返り、嬉しそうに口角を上げて笑っただけだった。その笑みに誘われるように男も打席を離れ、彼女の後を追う。
「せやけど、あかんなァ。勝手に店のモン持ち出すんは」
女はまだ微笑んでいる。その手には先程まで振り回していたそれが握られている。そして、女はその金属バットを引き摺りながら、店の外へと向かっていく。床と擦れるバットの金属音はどこか不吉であり不気味で、危険信号の一つのように聞こえてくる。彼女の目尻に伸びるアイラインが目に突き刺さる。マットな質感の唇がより一層、笑みに歪む。金属音は更に大きく響く。
「……まるで誘っとるかのような仕草やな」
「よければ、お付き合いいただきたいわ」
「見た目通り、積極的やないか」
「さっきのが楽しかったから」
もうちょっとだけ、一緒に居たいって。含みを持たせた言葉が紡がれていく一方で、男には滾る熱意があった。今にも身体が動き出しそうなほどの疼きは、あの得物から感じられる物騒さに触発されている。これから何が始まるのか、期待に胸が騒ぐ。それはそれは愉しくて仕方がない、戯れだろう。まさか性別の垣根を越えてまで、自身の元にそんな相手が現れてくれるとは。気乗りしないと口にしては失礼だろう、相手はあれほどまでに意欲的だと言うのに。
「ここ、いい場所ね。私、気に入っちゃった」
「ほんなら、また来ればええ。せやけど、まずは仲良うなってからやな」
「みんなのバッティングセンターじゃないの」
「俺の縄張りや」
「そう?それは困ったわね……」
仲良くだとか、困っただとか。互いに思ってもいない言葉を投げ合って次が来るのを待っている。しかし、この時ほど次の手を読むのが容易だと思ったことはなかった。金属バットを手にしていたのは、女だけではなかったからだ。グリップが手に馴染む感覚は女だけのものではない。バットの切っ先を相手に向けられるのは彼女だけではない。フルスイングするかどうかはさておき、両者共に同じ得物を持ち、向かい合っている今、何が起きてもおかしくはない。
「どうやったら、あなたと仲良くなれるかしら」
「なら、まずは自分が何者か吐かなアカンわ」
そんな手荒な真似をしてまで、吐かせるつもり?どっちが先に手ェ出すかやろ。じゃあ……。
女は我先にとバットを構え、まずは横に一振り払ってみせた。スポーツ感が微塵も感じられないスイング音に男はゾクゾクしている。にやけヅラを引っさげ、彼女の真正面に立つと自分より背の低い女を見下ろす。当たってしまうわよ。当たりに来たんや。痛いのが好き?そう言う姉ちゃんはどないや。……私は。
怖いわ。と聞こえた刹那、女は手にしていたバットを振りかぶり、真っ直ぐに振り下ろした。バットが穿つのは男の脳天でもなく、男の肉体でもなく、全く同じ金属製のそれだった。耳を劈く音が辺りに響き渡る。女は強い衝撃に体を仰け反らせることなく、ビリビリと痺れた腕を庇うこともせず、綺麗な顔を崩さないよう控えめに驚いていた。男はと言えば、女の一撃を受けたバットを見て愉快だと言わんばかりに目を丸くする。一撃を受け止めた箇所は大きく凹んでおり、二度と使い物にはならないだろう。
「あ〜あ、こらアカンわ。お釈迦になってもうた」
「もうホームランは打てそうにないかも」
「そんな必要ないやろ」
「ええ、勿論」
男から距離をとった女は再び打席に立ち、同様に大きく凹んだバットを握りしめたまま、笑みを崩さない。目尻のアイラインが跳ね上がり、カールした睫毛が待ち切れないと何度も揺れ、瞳は煌々と輝いている。こちらも我慢の限界だと男も首を鳴らし、戦闘態勢に入ってすぐ。
先に踏み出したのは女で、初手の一閃が空気をも切り裂きながら男の元へと走っていく。向かい来る一撃をしっかりと受け止めた男は反撃の構えに入り、今度は自身のスイングを披露する。しかし、女は防御よりも回避を選び、後方へと再び距離をとるなど、互いに一進一退を繰り返す。何度も衝突する金属は甲高い悲鳴を上げ、この店内で起きている事の異様さを物語る。打てど打たせぬ、穿とうにも穿てぬ、攻防の果てにあったのは尋常ではない恍惚感。
「痛いのが怖いっちゅう割にはえらいかましてくれるやないか」
「本当はすごく怖い。でも、当たらないなら怖くないわ」
「えげつないこと言うてくれるわ、」
「正直、とっても楽しかった。でも、これももう使い物にならないだろうから」
……素手じゃあきっと力及ばずだわ。と女はぐにゃぐにゃにふやけきった金属バットを床に投げ捨て、男の懐へと近づいて行く。男も得物を持たない女に構えを解き、そのすぐ傍までやって来ることを許す。
「試しに一発殴ってみるか?」
「そんな野蛮じゃなくてよ」
「よう言うわ。人様に向かってバット振り回すヤツが言うセリフちゃうで」
「それもそうだわ」
なら、お淑やかにしましょう。と手を小さく叩いた女は目の前にある許された懐に潜り込むと、この時だけは可憐さを装ったつま先立ちで、その背を僅かばかり上に伸ばす。そして第二に男を襲ったのは、下唇を食まれる感触だった。予期せぬ不意打ちに男は女を突き飛ばすどころか、寧ろ黒髪を手繰り寄せて続きに耽っていた。すると、我先に開いた瞳が笑みに細まり、濡れた唇からおかしな感覚が流れ込んでくる。舌先が徐々に痺れ、意識がゆっくりと歪み出す。
「……まさか、求められるとは思わなかった。あなた、見た目と違って、その、……嬉しいわ」
自身の腕の中でどこか気恥ずかしそうに頬を赤らめている女の掠れたリップに警鐘が鳴り響く。肩を揺らして笑う女は男を大きく突き飛ばすと、名残惜しそうに店から去っていった。男は体を蝕む良からぬ何かに呻きながら、意識が飛ぶその前に店を後にすると、おぼつかない足取りでとある場所を目指して店を出た。