冷たい水が喉を潤していく。
有り余る熱も下がり、微かに濡れた唇をおしぼりで押し付けるように拭う。
圧が抜けたように体が軽くなるのを感じていると、ぷちぷちと小さく何かが弾ける音が聞こえてくる。
夢見がちな空想もどこかへ旅立ってしまったらしく、気恥しさもどこへやら。
頼んだものが運ばれたタイミングで、真島は灰皿に煙草を押し潰して火を消してしまった。
寂しかったテーブルの上も今では取り皿とコップが二つ並び、その中心には深い皿に盛られた枝豆達が茹で上がった姿のまま、塩をかけられた状態でそこにあった。
流石にこのままではいられないと、真島の手袋は灰皿の近くに纏めて置いてある。
真島の目の前にある取り皿に中身の無い鞘がゆっくりと積まれていく。
時折、あちあちと枝豆を摘む指先が忙しなく動いている。
きっとこの枝豆は茹でて間もないが為、とても熱いのだろう。
「食べる時は気ぃ付けるんやで、あっついからのぉ、」
「はい、真島さん見てるとそう思います。」
「ほれ、お姉ちゃんの皿にも入れたる。こっち寄せんかい。」
「お願いします、」
真島は一度その指先をおしぼりで強引に拭い、深皿の枝豆の山から一つずつなまえの取り皿に移し入れていく。
あちち、と熱そうな指先はすぐにおしぼりの元へ戻って行くが、またすぐに山に手を伸ばす。
「ありがとうございます、もう大丈夫です。」
「おう、熱い内に食っときや。」
「じゃあ、私もいただきますね。」
なまえも同様に指先を冷たくなったおしぼりに触れさせ、熱いと分かっているせいで躊躇いがちな右手で恐る恐る枝豆を一つ摘んでみせる。
確かにじんわりと親指と人差し指の先端を熱くさせる、このままじゃまずいとなまえは唇に緑の鞘を寄せる。
そこに左手の親指、人差し指を添えて、鞘の膨らみを一つ押し出す様に強く潰した。
ぷちっと皮の裂ける音、中からは淡い緑が飛び出してくる。
それから、間髪入れずに残る膨らみを潰しては、豆を口の中へと運んでいく。
そして、ようやく咀嚼が始まった。
塩味で引き出される枝豆の微かな甘みに、なまえは美味しいと口にした。
空っぽになってしまった鞘は、まだ手付かずのものより端に置いておく、間違ってもまた手を付けてしまわないように。
美味しい、すぐに次が食べたいと早る気持ちを抑えるように、なまえはお冷を流し込んだ。
真島はと言えば、なまえに続いて水のように無色透明な日本酒の注がれたコップを傾けていた。
「多分、この枝豆あっという間に無くなっちゃいますね。」
「せやろなァ、なんやお姉ちゃん、もっと食いたいんか?」
「はい、って言いたいですけど、返事はいいえです。」
「…ほんまに食いやすいわ、こう言う軽いつまみっちゅうんは、」
「そうですね、だから、好きなんですけどね、」
残念です、と続いてしまいそうな言葉を飲み込む。
何が残念かって、たくさん枝豆を食べられない事じゃない。
この深皿に盛られた枝豆の鞘の膨らみが全部無くなってしまえば、今日が終わる。
なまえと真島が二人で居られた今日が終わりを告げるのだ。
これで真島との付き合いが終わる訳では無い、それでもあの時よりも一層別れを惜しむ気持ちが大きくなっていた。
不思議だ、真島と過ごした時間の中で、なまえの胸の器は縁ぎりぎりまで満たされた筈だったのに、別れを認識しただけでそれらが全て無くなってしまいそうに思えた。
それでも、なまえの枝豆に伸ばす手は止まらない。
二人で味わうべきそれはこの深皿の中にある。
その数をまだこんなにあると捉えるか、もうこれだけしかないと捉えるか。
なまえは前者を選んだ、少しでも別れに対する悲観へ反抗してみようと思った。
「ほんなら、またここでメシ食ったらええねや。お姉ちゃんが来たい言うてくれれば、何度だって連れて来たるわ。」
「それじゃあ、私が枝豆大好きみたいじゃないですか。」
「ちゃうんか?お姉ちゃんが枝豆をたらふく食いたいっちゅう話やろ?」
「返事はいいえって言いましたよ、真島さん、」
「せやったら、その手止めな説得力がないでぇ、お姉ちゃん、」
ヒヒヒ、と笑う真島に何故だか悔しさみたいなものを感じる。
半分当たりで半分外れ、でも肝心な所は見事に読み間違い。
きっとそこに悔しさが生まれたのだろう、簡単に胸の内が覗かれてしまいそうだったから。
しかし、当てられた半分を隠すように、なまえはその手を止めなかった。
「真島さんって、意地悪な事も言うんですね。」
「そりゃあ俺も男や、好きな女の子にはちょっかい出してきた口やで、」
「じゃあ、…私もそう思っていいんでしょうか、」
「それはお姉ちゃんの自由や。せやけど、もしそうなら、今はちょっかいで済んでも、その後は『ちょっかい』だけじゃ済まへんやろなァ。」
含み笑いが混じり合う会話。
今は二人の間を漂い満たす雰囲気に流されるまま、本意を濁し、まるで冗談のように軽く言葉を交わす。
駆け引きにすらならないそれは、ただじゃれているだけのお遊びみたいなものだった。
けれど、両者とも自ら本意を濁しておきながら、交わした言葉の端々から思惑の断片を感じ取っている。
「意外です、小さい男の子みたいな事するなんて、」
「男はいくつになってもそんなもんや、」
「女だってあんまり変わらないですよ、」
「ほぉん、そんなもんかいな、」
「ええ、そうです。基本、乙女ですから。」
「男も女もなんや似たようなモンなんやな。」
談笑、鞘の裂ける音、辺りの薄れてきたざわめき、店内の換気扇の音。
深皿に山を築いていた枝豆達もその数を減らしていた。
そして、今度は互いの取り皿の上に山を築いていき、深皿には欠けた緑の山があった。
粗熱も次第に薄れ、今では気軽に手に取れる程に冷めてしまった。
二人の他愛もない会話はそれが綺麗に無くなるまで続けられた。
最後の一つは真島がなまえに譲った。
最初なまえは遠慮したものの、真島が無理矢理になまえの皿にそれを置き去りにしてしまった。
ありがとうございます、と告げれば、お姉ちゃんは枝豆が好きなんやろ、と得意気な顔で頬杖をついている。
誤解されてると知っていながら、その真島の行動が嬉しくて、勿体ないと思いつつ、それを口にした。
こうして、二人の最後の食事は終わりを迎えた。
二人とも名残惜しそうに、冷めきったおしぼりで口元を拭っている。
この間、二人の視線はぶつからなかった。
ご馳走様でした、と遅れてやってくる、ごちそうさん、の声が少し味気ない。
真島が席を立とうとする、ガタガタと椅子が床に擦れる音がした。
なまえもそれを追うように、慌てて立ち上がった。
真島はどないしたんや、となまえを見た。
なまえは今日のお会計は私に出させて下さいと真島を見つめ返している。
真島はそれを拒んでいたのだが、なまえのどうしてもと言う勢いに負け、それを飲み込んだ。
ガラス戸がうるさく揺れる。
建付けが悪いからなのかは分からない、外の風はひんやりとしていて体の温かさに気付かされる。
潜った暖簾は風に煽られ、ゆらゆらと揺れていた。
きっとこの店には三時間ほどは長居してしまっただろう、それでも、目の前を通り過ぎる人の群れは、何時であろうとあまり変わらないように見えた。
時間に追われていたのは真島となまえのふたりきり。
「お姉ちゃんはこれからどうするんや、」
「私は真っ直ぐお家に帰りますよ、ですから、真島さんもお家に帰ってください。今日くらいはちゃんと寝ないと、」
「ほんまはお姉ちゃんの事を連れ回したかったんやけどなァ、…しゃあないわ、」
真島の後頭部を掻く仕草、大きく吐き捨てた溜息。
なまえも今は同じ気持ちだった、真島もそうであるならほんのちょっぴり嬉しい。
あの日の散歩とは違う、今度こそ正式に訪れた別れ。
それじゃあ、とその場から立ち去ろうとした時だった。
またいつの日かのように、なまえの腕を引っ張る腕があった。
その腕は蛇柄、指先は黒い革。
真島は不敵な笑みを浮かべている、これもどこかで見たような光景。
「お姉ちゃんを連れ回すんはまた今度にしたる。せやから、今から俺と散歩しよか。」
「ま、真島さん、」
「俺の気は変わりやすいんや、…俺がそう思うとる内に行かな。」
なまえは瞬きを挟んでから、真島の腕をそっと解いた。
真島は驚いた顔をしていた、しかし、なまえの行動の意図をすぐに理解した。
解いた腕の指先を、なまえの小さな指先が攫う。
革手袋越しに感じる感触、二人は刹那の沈黙を共有している。
「ほな、行こか。」
「じゃあ、あと少しだけ、お願いします。」
先に歩き始めたのは真島、それに合わせてなまえも歩き始めた。
そして、二人は衰えない人混みの中に紛れて行った。