見知らぬ女との遭遇。交わされた殴打の嵐。あの時、感じた胸騒ぎは決して忘れられない。自分を仕留めようとした相手との出会いは刺激的な出来事の一つとして記憶に刻まれ、男を魅了し続けていた。
数日ぶりに目覚めた男の体は神室町にある柄本医院内の手狭な病室にあった。女に毒を盛られた後、男は真っ先にこの場所を目指し、辿り着いてすぐに意識を失ってしまったそうだ。そして目覚めたのは、開業医である柄本が死力を尽くし、適切な処置を施して四日目に差し掛かる直前だったと聞かされている。
命の危機であったと告げられ、まだ生きていることを実感した男は笑みを噛み殺し、満足気に病床を離れようとしたが、医者である柄本がそれを容易く許すはずもなく、男はしばらくの療養を言い付けられて今に至る。
『素手じゃあきっと力及ばずだわ』
事に及ぶ前に女はそう口にしていた。今思えば、なんて物騒な一言だろうか。しかし、それを許したのは他の誰でもない自分であり、彼女からそれを受け取ったのも自分自身である。唇の隙間にぬるりと入り込んで来た舌先と飲まされた固形物の感触は今でも鮮明に覚えていた。何食わぬ顔をして毒を盛った相手の女の、胸を穿つほどの笑みも。
彼女は今まで顔を会わせてきた誰よりも強かで、確実に殺しにかかっていた。それが酷く愉しくて仕方ない、それが酷くたまらなくて仕方ない。鉄砲や刃物と言った見慣れた得物ばかりを使うつまらない奴らとは違う、彼女は真に殺し屋なのだろう。一体どこの組織の人間か。自ずと興味は湧いて出てくる。しかし、男は既に彼女について調べ始めていた。自分の子である組員に事情を話し、素性を探れと。だが、決して手を出すなと。これは自身に売られた喧嘩なのだから、自分以外の誰かがその愉しみを横取りしようものなら、例え自分の子であっても、男は容赦しないだろう。
「俺が生きとること知ったら、あの姉ちゃんはどないな顔すんねやろなァ」
ヒヒヒ、と止まらぬ笑みに男は、真島吾朗は取り憑かれていた。あからさまに不機嫌な顔をして見せるだろうか。はたまた、ポーカーフェイスで次の手を打ちに来るのだろうか。どちらにせよ、それが真島にとって恐れや不安になり得ることはなかった。今の真島が望んでやまないのは、彼女から与えられるスリルに他ならない。そして、真島は指折り数えては彼女への欲望を募らせていくだろう。彼女と再会する、その日を。
***
あの日、真島吾朗に毒を飲ませた女は神室町郊外にある廃虚の一角に身を隠していた。殺し屋稼業の人間は依頼を終えれば、直ちに仮住まいの拠点を立ち去るものだ。しかし、殺し屋の女はそうすることが出来なかった。女にとって真島吾朗の殺害は呆気なく、そして手応えが全くなかったからだ。ましてや、あの男は自ら毒を飲んだのだ。女としては、事の顛末は容易に想像出来た。
女が知っている情報として、神室町には闇医者と呼ばれる人物がおり、腕利きの名医だと知られている。それに神室町を縄張りとする東城会のヤクザである真島吾朗がその医者の噂を知らないはずがなく、恐らく彼は生きているだろう。女の仮説を裏付けるように、女の元には一通の手紙が届いており、とある建物の窓際でベッドに横たわる真島の姿が撮影された写真が入っていた。
組織からの遠回しな催促は女にとってどうでもいいものだった。殺そうとした男が今も生きている、その事実の方がよっぽど大事なのだ。組織はこんな粗末な手紙を送っただけで、常に喉元に刃物を突きつけた気でいるのだろう。だが、このような行為は女からしてみれば不要なチラシをポストに投函されただけのことで、女の興味は既に一人の男へと向けられていた。次はどんな手を使おうか、どこで落ち合おうか、どんな女性が好みだろうか。楽しみが湯水のように湧いて出てくる。殺しを生業とする組織の一員であるみょうじなまえは嬉しそうな笑みを浮かべてから真面目な顔で真島の写真を見つめていた。
「すごい、自分から毒を飲んだのにまだ生きてる」
なまえは標的である真島のことについては粗方調べがついていた。まずは東城会の幹部クラスのヤクザであること。次に真島組と言えば、東城会きっての武闘派であること。そして、組長である真島も例に漏れず、要注意人物であること。ここまでの情報ですら、真島という男が如何に危険且つ油断ならない相手かを物語っているというのに、実際に顔を会わせなければ、あの癖になるような独特の雰囲気を感じ取ることが出来なかった。
「また近い内に会いに行くわ。その時は快気祝いを持ってね」
そうしたら、目の前でフルーツでも剥いてあげましょうね。と柔和な仕草で髪を耳にかけ、お気に入りのナイフが眠る引き出しに手を伸ばした。穏やかな表情のまま、なまえは手にしたナイフを机に深く突き立てると、上機嫌な様子で近くのソファーに寝転がった。机に自立するナイフの切っ先は写真の真島をしっかりと捉えていた。