未だ退院の許可が下りず、今日もまた真島の姿は柄本医院にあった。心配し過ぎだと言えば、死にかけ過ぎだと辛辣に返され、自身の不自由に嘆いてばかり。体が鈍ってしまうと深い溜め息、嫌というほどに寝たおかげで昼寝をする必要は無い。つまりは退屈だった。しかし、その退屈しのぎの話し相手も今は留守にしており、退屈を極めている。
 あ〜あ、と大きな声で退屈を口にしても、うるさいぞと悪態をつく医者はいない。今なら抜け出せるだろうかと考えていると、不意に足音が聞こえてきた。階段を上がってくる音、通路を行く音、近くの扉を開ける音、中に入ってこちらへと近づいてくる音。やっと帰って来よったんか、とぼやいたのも束の間、真島の病室に戻って来たのは柄本ではなかった。


「あァ?誰や自分」

 まず視界に入ったのは花束、そして次にフルーツの盛られたバスケット。まるで見舞いに来たと言わんばかりの手土産に埋もれて、その相手は口を開く。体の調子はどうかと聞かれた真島はその声で相手が誰かを知る。とっくに治っとんのに、ここの医者がまだアカン言うてのぉ、と愚痴を返してやる。そっけなく相槌を挟んだ相手は近くのテーブルに手土産を置き、適当に椅子を一つ見繕って真島のベッドの傍に落ち着いた。

「暇すぎて死んでしまいそう?」
「ホンマその通りや」
「そう。ふふ、だからやめておけば良かったのに」
「お姉ちゃんに迫られて手ェ出さへんのは失礼やろが」
「そうかしら」
「たまらんかったでェ、あん時のイッパツ。今思い出しても体が疼いてしゃあないわ」

 お姉ちゃんでも、俺をこないな気持ちにさせてくれるんや思たら、毒のひとつやふたつは飲まな。でも、下手したら死んでたかもしれないのに? 俺はしぶといからのォ、ちっぽけな毒じゃあ殺れへんで。へぇ、もうちょっと強いのにしとけば良かった。
 両者共に笑みを浮かべたまま、物騒極まりない会話の応酬は続き、互いに腹の探り合いをしている。ボロが出るのが先か、手が出るのが先か。相手は病み上がりの極道で、隣に構えるのは体調万全な殺し屋で。笑みの合間に視線が突き刺さり、会話の合間に空気はやがて張り詰めていく。

「そんで何しに来たんや」
「なにって、あなたのお見舞いに」
「俺を殺そうとしてた姉ちゃんが、か?」
「ええ。いいじゃない、殺そうとしてきた相手がお見舞いに来ても」
「……ホンマはそっちのフルーツにやばいもん入れとるんちゃうか」
「食べ物は粗末にしちゃだめでしょ」
「その通りや」
「ふふ、よかった」

 ひとつ剥きましょうか。とバスケットからどこにでもあるビニール袋、紙皿。そして、りんごとナイフを手に取り、その赤い膨らみに刃を寝かせ、ゆっくりと回し始めた。シャリシャリとりんごの真っ赤な皮膚が削ぎ落とされ、次第に中の淡い黄色が露出していく。女の手際の良さに悪寒に似たようなものが走り抜けた。ただりんごの皮を剥いているに過ぎないくせに、その手つきがやけに慣れていて本職の片鱗を見る。食べやすいようにと一口大にカットしているくせに、女の視線は相変わらず真島へと向けられている。

「さあ、一口どうぞ」

 ナイフの切っ先には丁度一口分のりんごが突き刺されており、まるで試されているかのようだった。あらゆる可能性が脳裏を過ぎる。長考する油断は許されない。女の真っ赤なリップは大胆不敵に歪む。こちらも歯を見せ、笑ってやれば女の眉が上向きに跳ねる。愉しそうだ、だが、愉しいのは自分も同じだ。

「ほな、もらうわ」

 真っ赤なリップを歪ませてまで笑っている女の目だけは真島を捉えて離さなかった。真島の隻眼も女の視線を掴んで離していない。切っ先に引っかかるりんごに歯を立て、そのままかっ攫えば、女はどこか嬉しそうに表情を解していく。その感覚は痛いほどによく分かる。高揚感、沸き立つ闘志、執着の始まり。全て自分でも体験したことのある感覚ばかりだ。そしてこの時になって初めて気付かされた。この女も自分と同じタチの悪い人間なのだと。口にしたりんごを噛み潰していく。果汁が溢れて乾いた喉を甘ったらしく潤していく。次のひと口を急かすような甘ったるさで。

「美味しい?」
「うまいわ。どや、お姉ちゃんもひとつ」

 紙皿の上に残るりんごを手にし、こちらに釘付けの彼女の口元へ運ぶ。真っ赤な唇の間から覗く、真っ赤な舌に息を呑む。女はりんごを口にすると、ゆっくりと咀嚼し、果汁を飲み、胃の底へと沈めていく。指先から伝う果汁さえも温かな舌先で舐めとられ、女は静かに汚れた口元をハンカチで拭っていた。

「ようわからんやっちゃ。俺を殺りたいんか、生かしときたいんか、はっきりせぇへん」
「最終的に依頼は果たすわ。ただ、それまでの過程を楽しむ権利が私にもあると思って」
「ただ殺すんじゃつまらへん、ちゅうことか」
「周りはとやかく言ってくるけど、そんなの一々聞いてたら日が暮れちゃうもの」

 それに、と続けた女の目が艶やかに光る。正直、あなたが生きていてくれて嬉しかった。まだまだ色んなことが出来そうだから。と恋する少女のように熱い視線を送る女に真島は体の芯が疼くのを感じていた。自分が殺されずにいれば、あの日のように刺激的なことが何度もやって来るのだと飢えていた本能が期待に膨らむ。

「俺はしぶとい男やでェ、お姉ちゃんが嫌や言うてもどこまででも追いかけ回したるわ」
「それはそれは情熱的ですこと」

 女は心底愉快でたまらないと笑みを絶やさず、しかし、その手元では用の済んだナイフを手にしていたハンカチで何重にも包んでいる。面会時間の終わりを知らされ、真島の期待に膨れていた欲は空気の抜けた風船のように萎んでいく。突然、よそよそしくなった女の帰り支度を見届け、別れを惜しむような言葉でもひとつくらい投げかけようかと考えていると。

「それじゃあ、お大事に」

 視界に肌色がそっと重なり、彼女の髪がさらりと揺れた。触れて離れた後の静寂の間に彼女は荷物をまとめて出ていってしまった。いつまでもこの部屋にいられないと真島は遂に本腰を入れて柄本に掛け合うことを決めた。