穿つ。払う、突く。なまえはいつの間にか手の甲に愛用しているメリケンサックを装着し、真島だけを捉えてその一撃を振るい続けている。時折、しなやかに伸びた脚で狙ってはみるが、大した一撃にはならない。真島は深手を追わないような攻撃であれば好んで受け止めていた。しかし、なまえは攻撃を受けてはくれるが、返してこない真島に苛立ちを覚えている。変則的な攻撃を混ぜ込めば、この守りは崩れ去るだろう。だが、それでは気が済まないのだ。なまえは真島の『証明』を今か今かと待ち望んでいる。
「どうして全てを受け止めてくれないの?」
「危ないモンまでもろたら、ホンマにあかんからな」
「それじゃあ、いつになったら証明してくれる?」
「あァ?もうちょいしたらや、もうちょいしたら!」
どっちつかずの返事に痺れを切らしたなまえはスタンガンを取り出し、すかさず真島の皮膚に電極を押し当てようとした。だが、反応が早かったのは真島の方で、なまえの腕を蹴り上げると、空中にスタンガンが高く舞う。無効化されたスタンガンを惜しむ暇もなく、次にホテルの備品であるガラス製の灰皿を手に取り、大きく振り回す。何故、こういう場所に限って鈍器になりうるタイプの灰皿が置かれているのかと、真島は店の人間に言いたい。しかし、ここがこの異常な状況を想定した場所ではないことも理解していた。
「ホンマに、よう次から次へと手数の多い姉ちゃんや!」
「でも、好きでしょ?こういうの、」
「まァな」
黒い革の掌が遂に女の手首を捕らえ、そのまま近くの壁際へと押し寄せて行く。女の背中に微かな衝撃が走ったところで、もうひとつの黒革が鈍器を取り上げ、傍のベッドに放り投げる。その隙に女の脚は真島の脇腹へと打ち込まれた。だが、男性特有の硬い筋肉の感触が脛を伝うだけだった。
「足癖悪い子やのぉ、」
「そろそろ放してくれない?押さえられっぱなしじゃ辛いわ」
「なら、まずはこの足退かさな」
なまえの足を受け止める真島の手はより力を増していく。押すことも引くことも出来ず、不格好な形で壁際に拘束されているなまえは面白くないと不機嫌そうに見た。媚びるでもなく、脅迫するでもなく、ただ睨みつけている。そんな彼女に真島は笑みを深くし、よりその距離を縮めて行った。目と鼻の先に相手がいる、そんな距離感で真島はなまえに語りかけた。
「なァ、このままやったらお姉ちゃんも動かれへん。俺も動かれへん。つまらん時間や」
「で、何が言いたいの?」
「そろそろ仲直りしてもええんちゃうか」
「仲直り?組長さんが言ってたのってそれのこと?」
「そら、お姉ちゃんと痴話喧嘩すんのもええ。やが、喧嘩っちゅうのは関係が深いほど遠慮がなくなるもんや」
そうね。と赤いリップが艶めかしく歪む。話を理解しているような振る舞いをしているが、怒りの炎は収まっていないと強い眼光を放つ瞳から読み取れる。いつまでもこのままでいられるはずは無い。しかし、拘束を解き、彼女を解放して次に何が起こる? 良からぬことに決まっていると分かっていながら、ほんの少し両手の力を緩めると。
「あら、やっぱり優しいのね」
真っ赤な唇の隙間から白い歯が覗き、真島のとった行動が悪手であったと一瞬の内に理解させられる。まずは体が大きくよろめいた。彼女に突き飛ばされたからだ。すぐに彼女の方を見た。しかし、顔にかかった冷たい液体に目を塞がれてしまう。花瓶を手にした彼女の高らかな笑い声が響き、背に衝撃が走ったのは今度は真島の方だった。察するに床に押し倒されたのだろう、濡れそぼったまつ毛が上下共にくっつこうとして上手く目が開けられない。
腹部に程よい重みを感じ、脇腹に柔らかな感触を覚え、耳元で彼女の声が響く。逆に押し倒されたこの状況を手放しで喜べる者などいないだろう。迫られていることを除いては。
「大丈夫?重たくない?」
「ホンマに食っとるんかっちゅう感じやな」
「さあ、痴話喧嘩の続きよ」
ほら、こっちをよく見て。と右目の瞼を指先で拭われる。水気の残る瞳に視界はまだはっきりとはしていなかった。だが、ぐにゃぐにゃに歪んだ視界の中でそれは一直線に振り下ろされた。真正面からモロに食らうことのないよう、出来るだけ振り下ろされた手に合わせて、一撃一撃をいなして行く。しかし、完全にダメージを無効化出来ている訳ではない為、やがて鼻腔に何かがせり上がってくる感覚を覚えた。鼻血が出てきたところで、なまえは殴るのをやめ、真島の両頬に手を添えた。
「痛い?大丈夫?」
「おう、こないなもんかすり傷や」
「なら、もう少し続けてもいい?」
「そらァあかんわ」
動きが止まったのを見計らい、真島はなまえの体を力一杯に押しやると、バランスを崩して床に倒れ込む。そして畳み掛けるように彼女の体に跨ると、今度こそ我儘な女の両手を身につけていたベルトで縛り上げる。
「これで終いやで、姉ちゃん」
「残念」
手首をベルトで縛り上げられたにも拘わらず、なまえは綺麗な顔を崩しはしなかった。寧ろ、あの約束はまだかと催促すらしているのだから。真島は鼻腔に溜まった血を外に勢いよく吹き飛ばすと、ゆっくりとなまえに覆い被さった。
「何する気?」
そして、真っ赤な唇に自分のそれを重ねて見せた。相手のことを何も考えないような、身勝手さになまえは目を見開いている。触れただけでは満足しないと今度は口内へ自分の舌を割り込ませていた。貪るような口付けになまえは目を閉じ、真島に全てを委ねていた。怒り狂った女の唇を奪おうだなどと考える男が、この世の中に何人存在することだろうか。下手をすれば逆鱗に触れる可能性があり、状況は悪化の一途を辿る。しかし、それを省みず、こうして真島はやってのけたのだ。その勇気と無謀と大胆さになまえはすっかり怒りを忘れ、口付けに耽っていた。
「……わたし、こんな状況でキスされたの初めて」
「まァ、普通ならせえへんからなァ」
「わかった、もう許してあげる」
「こない物わかりええなら、初めっからチューしとくんやった」
「違うわよ、組長さんが一生懸命に私に付き合ってくれたからよ」
「なら、殴られた甲斐があったっちゅうもんや」
「組長さんのそういうところが好き」
それで、好き勝手したいんじゃなかったの?と上向きの睫毛を揺らして女が笑う。穴が開き、破れ、剥がれかかった壁紙や割れたガラス片が散らばる床。痴話喧嘩を繰り広げた一室の荒み様は異常な程だった。荒んだ部屋に荒んだ二人が羽を伸ばしている。
「ほら、まずは血を拭かないと。垂れちゃってる」
彼女の言葉につられて真下を見れば、自分だけでなく、組み敷いた彼女の胸元や腹部にもその赤が付着していた。やがてその血は彼女のくびれをなぞるようにゆっくりと肌の上を濡らして行った。