翌朝、酷く荒らされた部屋で二人は目覚めた。先に早起きだったのはなまえの方で、真島はその数時間後に起床した。彼女からは爽やかな石鹸の香りがしており、目覚めた後にシャワーでも浴びたのだろう。メイクも完璧に仕上がっており、そういう意味でも全く隙のない状態だった。艶のないマットな唇は柔らかに形を変えていく。
「おはよう、組長さん」
「おお、おはようさん」
「よく眠れた?」
「なんだかんだでよう寝れたわ」
それは良かった。と微笑みかけるなまえに、昨夜の言葉を思い出す。明日からは元の関係でよろしくと言っていた。恐らくもう油断してはならないのだろう。
「ありがとね、昨日は」
「昨日の礼っちゅうことか」
荒んだ一室には温かな食事が並べられていた。なまえが言うには、フロントに頼んでおいたのだと。トースト、スクランブルエッグ、ベーコン……と朝食らしい朝食が並べられており、なまえはグラスにたっぷりとオレンジジュースを注いでいる。目も当てられないくらいに廃れた一室で出来すぎた朝食を摂る。裸足にレザーパンツ、上裸と言った清々しい朝には不向きな恰好で、真島は裂けた布地のソファーに腰掛け、皿に手を伸ばした。
「まずはどうぞ。スッキリするわ」
なまえは手にしていたオレンジのグラスを真島の手元に置く。そして、飲んではいかが?と勧めている。やけに自然で、やけに気の利いた彼女の行動に真島は寝ぼけ眼でありながら、彼女の思惑の一端を見抜いていた。
「なら、まずはお姉ちゃんが飲まな」
「どうして?」
「今日からはもう昨日のような関係やない。せやったら、お姉ちゃんのことはそういう目で見なアカン」
「疑ってるのね?」
なら、いいわ。となまえは真島の手元に置いたグラスを手に取ると、ぐい、と傾け、その中身を口にする。そして、にやり、とわざとらしく舌なめずりをして見せた。濡れた舌先が余韻を残していく。濃厚であるだけでなく、爽やかな酸味が残るそれを飲み下したなまえは満足そうだ。
「どう?ただの美味しいオレンジジュースよ」
「いや、遠慮しとくわ」
「私のじゃ不満ってこと」
「せや。せめて、お姉ちゃんの口紅がそれやなかったら飲んどった」
「……よく見てるのね。私、男の人ってそういうのに疎いものだとばかり」
「よう覚えとるわ。似たような口紅しとった日に、毒飲まされとるからなァ」
どきり、としたのはなまえの方で、悪い感覚ではない。恥じらう乙女の一目惚れのように、きらびやかに胸を高鳴らせるのと同じ感覚だった。よく見ていてくれたと言わんばかりに、顔を綻ばせるなまえは機嫌良く自分のグラスを真島に差し出した。
「こっちには手を付けてないの。だから、無害よ」
「にしても、どないなっとんねん。お姉ちゃんは毒を飲んどるんやろ?」
「……ふふ、毒には慣れてるの。ある程度までだけど、」
「それで何人殺った」
「さあ?でも、みんなすぐにさよならしちゃうから」
テーブルに肘をつき、うっとりとした目で真島を見つめているなまえは恋人のような顔をしていた。口元に触れる指先は爪に施されたネイルでギラギラと光っている。なまえの黒目は忙しなく真島の一挙一動を捉えては、好奇心を覗かせながら自分のフォークを手に取った。そして、スクランブルエッグを一口分掬い取って、やんわりと食む。
朝の静かな食事を装いながら、肝心の視線だけは外さず、殺し屋はヤクザを、ヤクザは殺し屋を射抜き続けている。まるで互いの喉元に刃物を突き付けているかのように重たい沈黙をものともせず、二人は淡々と朝食を食べ進めていく。静かな時間の中、終始不敵に微笑んでいたのはなまえで、普段通りに振舞っていたのは真島だった。朝食を摂り終えたところで、別れを切り出したのはなまえの方だった。
「ごちそうさま。楽しいデートだったわ」
「もう行くんか、つれへんのぉ」
「あれだけ濃い時間を過ごしてるんだから、これ以上はね」
「ええやないか、胸焼けするまで居ったら」
「ふふ、私のこと好きでしょ。組長さん」
「そらぁ、あちこちに得物隠しとるお姉ちゃんなんぞ、そう滅多におらんからな」
ド直球でタイプや。と真島はいやらしい笑みを返す。なまえは懐から白いレースのハンカチを取り出すと、口元を優しく拭っている。その挙動があまりにも自然だった。自然過ぎるが故に、真島の嗅覚は本能的に命の危機を察する。視線を合わせた次の瞬間だった。テーブルの真ん中に汚れたハンカチを置いたなまえの口には何かのピンが咥えられており、それを吐き捨てた後に『ごちそうさま』と呟いた。流れるようにハンカチに目をやれば、リップを拭き取ったであろうハンカチと共にそれは置かれている。
真島は咄嗟にテーブルを蹴り倒し、なまえは颯爽と部屋から出て行く。出口に向かっている時間はなかった。だから、少しでもそれから離れた場所に逃げなければと、真島は浴室に駆け込むと個室のトイレに向かい、目の前の扉を足で押さえつけるようにして、それが襲ってくるのを待った。真島が身を隠してから数秒後、大きな衝撃と共に爆風が部屋一面に充満し、窓ガラスを粉々に砕き、部屋にあるもの全てを爆発と共に消してしまった。爆音が耳を劈く。個室の扉を押さえていたとはいえ、真島にも少なからずダメージは蓄積されていた。蹴飛ばすように扉を開けると、そこは一面焼き野原と化していた。
「ようやってくれるわ、ホンマに本気っちゅうことか」
手榴弾。彼女は自然な挙動でピンを引き抜き、悟られぬようにテーブルに置いてみせた。一夜を共にしたが、まだこんなものを隠し持っていたとは。底の知れない相手だと再認識し、真島はじわりと黒い煙を吐き出す燃えた一室から足早に出て行った。ここは長居すべき場所ではない。街中で爆発があったとなれば、昨夜に引き続き警察の人間がここら辺一帯を封鎖することだろう。面倒なことになる前に真島は不運に見舞われたホテルを後にした。