寂れた街灯が何度も点滅する道を二人は歩いていた。
先程まで紛れていた人混みに居られたのは、ほんの少しの間だけだった。
神室町を離れてしまえば、後は帰路を急ぐ人だけが慌ただしい足取りで、二人を追い抜いては先に曲がり角に消えていく。
気が付けば、真島となまえの二人だけがその道に取り残されていた。
二人の間には柔に握られたお互いの指先、二人分の靴の音が静寂に響いている。
まだ風は冷ややかだった、体の表面的な熱ばかり奪っていく所為で、芯の熱が取れない。
酔ったつもりはないけれど、体は本人より素直だと思った。
「えらい静かな道やな、」
「そうですね。仕事終わりだと、まだちらほらと歩いてる人とか居たりするんですけどね、」
「やっぱ付いてきて正解や。お姉ちゃんもな、こないな道一人で帰る言うたらあかんで。」
「…ふふ、ありがとうございます。」
「礼なんてええ。ただの散歩や、散歩。」
健康にええっちゅうやろ、と取って付けたような理由まで、丁寧に教えてくれる真島の左側をなまえは眺めていた。
最後に飲んでいた酒がそうさせているのか、ただ単に照れ隠しをしているのか、真島の頬は相変わらず薄らと赤らんでいる。
しかし、ただの散歩だと口にする割には、周囲に目配せをするように頭が動いていたりするのだから、可笑しい。
もしかしたら違うのかもしれない、でも、もしそうであるなら…と思うだけで顔が綻ぶのを止められない。
合わせてくれる歩幅、左側に置いてくれる意味、遠回りしがちな言葉。
随分と身近に居させてくれる人だとなまえは思った。
真島が居酒屋で言った言葉も、なまえが真島からの連絡を待っていた時も、初めて会った時も、今までの全てをごちゃ混ぜにして一纏めにした所で、なまえは自身の胸の内に純粋に惹かれる感情を見つけた。
その瞳の光は憂う、きっとその純粋さに身を焦がしながら、それを出来るだけ丁寧に、余すこと無く、飲み込む術を探している。
「真島さん、」
「なんや、急に改まって、」
「…ありがとうございます。」
「俺はなあんにもしてへんやろが、ただ歩いとるだけや。」
「歩いているだけで嬉しいです、私は、」
「さっきから何言うとんねん。お姉ちゃん、ほんまは酔っとんのちゃうか、」
違いますよ、と否定するものの、真島はそっぽを向いたまま、いいや、酔っとる!と更に否定する。
「私、そんなに変なこと言いましたか、」
「変なことっちゅうか、なんちゅうか…。せやな、むず痒いんや。」
「むず痒い…?」
「せや。お姉ちゃんがそない懐っこい事言うとんのが、俺にはむず痒いんや、」
「…要するに、照れてるんですね?」
真島が弾かれたように突然こちらを見た。
おまけに歩いていた足もぴったりと止まっている。
シンプルな疑問を抱いた表情のまま、なまえは瞬きをする。
自然と見上げた先の真島は言葉を詰まらせ、間を繋ぐように声を漏らし、目線を斜め上に逃がしてから、鼻から息を吐いた。
「そうかもしれへん、…お姉ちゃんも気ぃ付けや。」
それだけを言い残して、真島は再びそっぽを向いて歩き始めた。
「…何に気を付ければいいんでしょう?」
「まぁ、人懐っこいんはええが、あちこちで安売りしたらあかんってことや。」
「はあ、安売りですか、」
「ええか、そう言うんは狙った相手にだけ使わなあかんで。」
「どうしたんですか、真島さんこそ急に、」
たくさんお酒飲んでましたもんね、と声を掛けてみたが、なまえの元に帰ってきたのは少しだけ予想の外れた、俺も酔っとるかもしれへんなぁ、と言う控えめな言葉だった。
二人の飲んだ酒は二人を嫌でも素直にさせていたようで、なまえは心の内に近い言葉を選び、真島は怯んだように弱い言葉を選んだ。
それでも離れない手のひらは、お互いに同じ何かを抱いているからこそ、そのままなのだろう。
大人しくなった会話を宥めるように夜空の星は光り、夜闇は穏やかな静寂で二人を包み込んでいた。
***
静かな帰り道だった。
遅い時間という事もあったが、不思議と真島が隣に居てもあまり口数は増えなかった。
けれど、その間に気まずいと言った感情は無かった。
隣にいる事を確かめるように指先は何度もお互いの感触を探り、相変わらず緩やな速度の歩幅で、遂にここまで来れたのだから。
目の前には自分の家に続く薄暗い階段がある。
二階建てのアパート、至って普通でどこにでもあるような外観をしている。
二人は階段の前で足を止め、真島はなまえの方を向いては沈黙していた。
「着いたで。ここやろ、お姉ちゃんの家は。」
「はい、ありがとうございました。真島さんが一緒に来てくれて、助かりました。」
「おう。…あともうちょっとや、上まで付き合ったる。」
酷く聞き分けの良い顔で頷いた。
まだ素直が足りない、真島に『まだ』と言葉を繋げられる程のそれが足りない。
だから、彼の時間を分けてもらう言葉がどうしても出て来ない。
素直が足りないのなら、せめて今だけは我儘になってみたかった。
けれど、素直も我儘もどちらもなまえの手元には無い。
あるのは、離れ離れを約束された二つの指先だけ。
続きを拒んだ自分はもう居ない、出来るなら最後まで付き合ってくれても良いのに、と半ば八つ当たりに近い思いを抱く。
真島に手を取られ、自然と足も前へと歩いていく。
歩みを止める勇気さえも無かった、代わりに口を突いて出てきたのは、あまり意味を持たない空気のように軽い言葉だった。
「真島さん、先にどうぞ。」
「…ここはお姉ちゃんが先に上らなあかんとこやろが、」
「真島さん…、」
「男心のわからんお姉ちゃんやなァ…、」
お姉ちゃんも俺の立場になったらわかるで、とぶつくさ文句を垂れる真島の後に続いて、なまえはいつもの上り慣れた階段に足を掛けた。
足音が二つ、カツカツと靴が鳴り、目の前の階段の段差もどんどん無くなってしまう。
時間稼ぎの出来ない階段をすぐに上り終えた二人は、今度はなまえを先頭に終着点へと向かっていく。
アパートの二階、奥から二番目の扉。
まだ引かれた手は離れない、もうすぐそれは離れてしまうのだろうか。
皮肉にもあまり遠くない距離を残り数歩で歩き切り、なまえが先に足を止めた。
遅れて足を止めた真島と向き合い、ありがとうございました。と言い放つ。
最後だと告げるように、真島の手を空いていた片手で挟み込み、優しく握り締めた。
「…随分と可愛いことしてくれるのぉ、お姉ちゃん。」
「今日のご飯、とっても美味しかったです。また行きましょうね、」
「せやな、また行こか。」
「ええ、また、」
そして、最後に交わすべき言葉も売り尽くしてしまった。
なまえは名残惜しいと口には出さなかったが、表情の憂いだけで真島がそれを察するのに時間は掛からなかった。
ほろほろと指先は解けた、この微かな温もりも直に薄れてしまう。
先に背を向けたのはなまえだった、懐から取り出された鍵はなまえの前の扉を容易に開けた。
もう二度目は無いと視線すら扉に預けて、平行に保たれたレバーに手をかける。
それが多少の傾きを覚えれば、静かに無機質な音が響く。
半歩前に踏み出した足を止めて、何かを期待する様な瞳は別れを告げた場所へと誘われた。
もう居ないと思っていた。
別れは告げた、つい先程、確かに交わし、交わされた。
それなのに、どうして、と繋げる言葉よりも先に。
不意を突かれた視界はとても狭く、目の前にある彼を捉えていた。
また大雑把に頭を掻く仕草、大きな溜息。
完全に立ち止まったなまえの前へと彼は距離を詰める。
近付く靴音、鼓動が騒々しく、瞬きが煩わしい。
真島さん、と声を掛けるつもりだった、何かに遮られてしまうまでは。
優しく体を扉の先へと押し込む何かは暖かく柔らかい、そして仄かに酒の匂いがした。
擽られた鼻先を最後に辺りは暗闇に閉ざされ、なまえが聞いたのは扉がまた無機質に立てた、閉ざされる音だった。