すっかりいつもの静けさを装い始めた路地裏を抜け、あからさまにご機嫌であると口角を持ち上げる。しかし、本心はどこかやるせない。久々の逢瀬も有耶無耶になってしまい、更には彼女が嫌悪する瞬間を目の当たりにしてしまったのだ。不幸中の幸いと言えば、彼女の代わりに物騒な彼らを相手に出来たことだ。密かに彼女が嫌悪した分まで上乗せして殴り付けておいたが、静まり返ったその場に彼女の姿はない。期待に膨らんでいた何かがじわじわと萎んでいく。お粗末な危機にまともに酔うことも出来ず、千鳥足を真似て事務所までの道を闊歩する。
 そんな真島の姿を見た通行人達は自ずと道を譲り、触らぬ神に……を忠実に守っている。早いお帰りに余計、萎える心情を抱えたまま事務所の扉を開けば。見知らぬレザーが視界に入り、呑気に凹んだ声が耳に入り、ふつふつと湧き上がる感情に駆られていた。

「的の懐に潜り込んどるくせに、えらい呑気やなァ?」

 ロングソファーに足どころか体を預けた人物は、トレンチコートを背もたれに掛け、チューブトップにタイトなパンツ、編み上げたブーツの全ては黒のレザーでまとめられている。あら、おかえりなさい。と真島の帰宅を喜ぶ声に、鼻歌交じりでテーブルを挟んだ反対側に置かれたソファーに腰掛ける。尖った爪先が眩しい革靴をテーブルに乗せ、胸いっぱいに深呼吸すると真島は面白くなさそうな顔をしているなまえに問う。

「ほんで、あの後何があったんや」
「聞いてくれる?」

 もの憂いげな顔でなまえは話し始める。あの路地裏で真島と別れた後、何があったのかを。近くに構えていた拠点に戻れば、散々な有り様だった。どこもかしこも荒らされ、真島に関するファイルも全て奪い去られてしまっていた。がらくたばかりが残された室内で、たった一度だけ電話が鳴った。言うなれば、サラリーマンのリストラだ。組織の重役はいつまで経っても真島の首を持って帰れないなまえに愛想が尽きたのだそうだ。果たしてそうだろうか、本心は依頼人からの多額の報酬が懐に入ってこないことに腹を立て、別の人間に仕事を任せたのではないだろうか。

「私じゃなくて他のヤツに、よ!」
「なんやそれ」
「ホントになんやそれ、だわ……」
「……ちゅうことは、お姉ちゃんはフリーの殺し屋になるんか」
「来月から少し出費を抑えないとダメなの」
「せやったら、ウチに来たらええ」
「組長さんのところに?」
「ええやないか。お抱えの殺し屋がおる組言うたら、更に箔がつくでぇ」

 お断りよ。と力なく手を振るものの、相変わらず真島組の事務所から、ロングソファーから離れる気配はない。しかし、真島は引かなかった。自分好みの相手が行き場もなく、自由になっていることなど滅多にあるものではない。他の誰かに引き取られるくらいなら、いっそのこと……と考えているのだが、肝心の彼女が釣れない。さて、どうすればこの大物は自身の元にやって来てくれるだろう。釣りは我慢の連続、忍耐力である。水面下で読めぬ獲物の動きを見極め、華麗に手中に収める。真島吾朗は彼女の波紋ひとつ生まれぬ、静寂なる水面に釣り針を落とし続けている。

「もう誰かの下につくのはまっぴらごめんよ。失業して傷心中なの、ほっといて」
「……ほんなら、俺の相手はお姉ちゃんやなくなるんか」
「そうなの、ほんっとに頭に来ちゃう」
「なら、もうこうして顔合わせる必要はないっちゅうことやな?」
「え?ちょ、ちょっと……!」

 波紋が一つ、凪いだ水面を揺らす。彼女は途端に破局寸前の恋人のように顔を悲しさで歪ませて身を乗り出した。

「どうして、組長さんまでそんなことを言うの……!」
「あァ?ホンマのことやろが」
「それは、そうだけど……!」
「往生際が悪いなァ。俺はな、誰にでも優しいんとちゃう。部外者はお断りや」

 一つの波紋が新たな波紋を生む。その連鎖が彼女から見て取れる。本心を明かせば、このまま別れというのは実に味気なく、こちらから願い下げなのだが、駆け引きにおける強力なカードであると察したのだ。幼い子供のように下唇を噛み締め、今にも涙がこぼれそうな瞳を伏せて、小さく呟く。

「……わかった、一緒にいる」
「傷心中なんやろ?無理せんで、のんびり休んどったらええやないか」

 構われると逃げたくなるくせに、突き放されると今までの距離感が嘘のように擦り寄ってくる。取っ付きにくそうに見えて、実は人一倍かまって欲しいのだと察すると、今までの出来事が面白いくらいに一つの事実を教えてくれる。嫉妬深くて独占欲も強い。強烈な個性でありながら、自身の中に譲れない芯を持っているとは、なんて可愛い子なのだろう。見てくれやあざとさのことを指しているのではなく、一人の人間に執着するその精神がひたむきで好感的なのだ。馬鹿な子ほど可愛いと言うが、彼女も自分によく似て振り切れるほど馬鹿なのだろう。

「そない、じぃっと見てもアカンもんはアカン」
「意地悪したいだけだって知ってるわ。もうそろそろ優しくしておかないと、本当に出ていくわよ」
「試してみい、俺が本気かどうか」
「そう、残念ね」

 乗り出したままになっていた身を引っ込め、なまえは再びソファーに横たわることなく、座り込んでいた。不敵に笑い、長いレザーの脚を組み、真島の隻眼を貫く。

「じゃあ、これで失業休暇はおしまい」
「で、これからどないする」
「邪魔してやるわ。あの路地裏の時とは比べ物にならないくらいにね」
「ええんか、そないなことして。親に弓引くようなもんやろが」
「親?今の組織のトップはね、二代目なの。だから、私が『親』だと言えるのは先代の方」
「お姉ちゃんがそこまで言うんやから、相当な奴やったんか」
「何でも好き勝手にやらせてくれたわ。そもそもが裏の稼業なんだから、事務的な仕事にはしたくないってね」
「ええ親やないか。よう分かっとる」

 でしょう!と口を尖らせ、身振り手振りで先代のトップである人物の話を続けた。裏社会においては珍しく昔気質な組織だった。義理や人情も勿論のこと、礼節など、特に極道などが重んじるものを同様に重んじる人だったそうだ。しかし、昔気質でありながら、真新しい目線を持っていたのだと語る。先程挙げた三つに加えて、先代は自由を重要視していた。一般的な組織というのは、個ではなく集団という認識であり、集団が集団らしくあるべき運営をしていく。けれど、その和を乱す者は統率性に欠けると爪弾きにされやすい。だが、彼女の組織では集団であると共に個も主張すべきだという運営方針だったらしい。
 組織に属する殺し屋は皆、その方針を決めた先代の元で暗躍していた。組織という括りでも、縛り付けるものがなければ、殺し屋と言うのは野に放たれた凶暴な野犬と同じなのだ。ましてや、それぞれが自分の良さを活かした選択を取れるのだから、ある意味タチが悪い。だからこそ、彼女のような容赦・手加減とは無縁の殺し屋が誕生したのだろう。まさに裏社会向きの、裏社会でしか生きられない人間そのものだった。

「でも、トップが変わってからと言うものの、報酬至上主義になっちゃって」
「いつの時代も金が絡むと、折角のおもろいもんが途端におもろなくなる」
「なんかノルマを抱えたセールスマンって感じ」
「……一番つまらんヤツやないか」

 ため息交じりに膝を抱えるなまえに、先代が退任した理由を問う。すると、彼女は気が乗らない様子でこう返した。先代は今のトップに殺されたと。その言葉で全てを察する。どんなに有能な人間がいようと、寝首をかかれて命を断たれてしまえば皆同じなのだ。死体に有能も無能も関係ない。死体に極道もカタギも関係ない。だが、それが裏社会でもある。自分だっていつ、寝首をかかれるかは分からない。それは自分自身だけでなく、なまえも例外ではない。

「だから、私は思いっ切り邪魔してやるの。私を邪険にしたこと、後悔させてやる」

 ひとり膝を抱えた少女が大人の女性の顔をする。眼光は鋭く、強い意志が感じられ、真島は背筋がゾクゾクと震えていた。なんて愉快な展開だろう、なんて胸を熱くさせられる展開だろう。彼女はもう先に進み出している。ならば、自分も彼女と同じ道に付き合ってやるのが道理ではないだろうか。

「なら、これからどないするかは決まったようなもんやな」
「ええ。組長さんには指一本触れさせやしないわ」
「……あァ?なんや、おどれは俺に黙って見てろ言うとんのか?」

 なまえが得意げに放った一言が、真島の癪に障る。 額に青筋が浮かぶ。

「そうよ、だってこれは私の喧嘩だもの」
「生意気なこと言うとらんで、口の利き方からやり直してきたらどうや」
「大丈夫よ、怖がらなくても。私がちゃんと守ってあげるから」

 緊迫した空気感の中で二人は互いを貫き続けていた。視線は決して逸らさず、相手の眼球の奥をじっと見据えている。一触即発。この均衡が崩れ、いつ爆ぜてもおかしくはない中、真島が先に動き出した。鈍く大きな物音。真島のレザーは目の前に置かれていたローテーブルを蹴飛ばしていた。なまえはその物音や真島のとった行動に驚く様子を見せない。互いに拮抗している。今にでも噛み付きたくて仕方ないというように見えた。

「こんな事なら、あん時」

 ──── 無理にでも分からせとったらよかったわ。
 ドスの効いた重く、まるで喉元に刃物を突き付けられているかのような威圧感が鼓膜に突き刺さる。恐怖の醸し方をよく分かっている人間の手口だった。しかし、なまえもまたそちら側の人間であった。真島の脅しには微動だにせず、寧ろ食い殺さんとばかりに視線で真島を絞め上げている。

「あら、組長さんはそういうプレイがお好きなのね」

 瞳は次第に爛々と輝き始める。険悪な雰囲気が徐々に和やかなものへと変わっていく。奇妙な間だった、一般的には受け入れられないコミュニケーションではあった。しかし、この二人にはそれが通用する。寧ろ、それでしか通じ合えない。

「でも、わたし痛いのは嫌よ」

 赤い口紅が三日月に裂けていく。狂犬もお月見がてらに笑いを噛み殺す。お互いに笑いたいのを必死に堪えては、視線をあちらこちらに振っている。そして、誰が予想出来たか分からない微妙な間に吹き出し、二人は高らかに笑い合う。よう言うわ。と真島がこぼせば、嘘じゃないもの。となまえが続ける。
 こうして、奇妙な共同戦線が張られることとなった。狂犬を仕留めたかった殺し屋は、殺し屋を掻い潜り人生の愉悦としたかった狂犬は、互いにたった一点を淀みなく見据えている。