息を呑む。仕事帰りのなまえは自宅の鍵があいていることに気付き、恐る恐る室内へと足を踏み入れ、そして明かりのないリビングのソファーに腰掛けている男の姿を目にした。あまりにも自然に日常に溶け込む男に血の気が引いていく。今日はこの間のように黒岩が来るかどうか分からない。もしかしたら、最悪の展開になるかもしれない。恐怖に硬直して佇んでいるなまえに男は声をかけた。

「おかえり。良い部屋だ、君はあの刑事さんと住んでるのかな」
「……今日は何の用ですか」
「あの後、刑事さんと何話した?俺のことは?」
「半グレ集団のリーダーだって」
「ま、本当のことだし、それでいいよ」
「聞いてもらいたい話ってなんですか」

 自分の部屋に知らない男がいるんじゃ、落ち着けないのも無理ないな。まずは座って話をしよう。ほら、座って。
 男はまるで自分の部屋かのように好き勝手に振る舞う。冷蔵庫からボトルを二本取り出しては、ぎこちなく座るなまえにその内の一本を手渡した。

「今日はナイフ、持ってないんですね」
「必要だった?それがないと話してくれない訳じゃないでしょ」
「……何も話さないかもしれませんよ」
「その時は可哀想だけど、荒々しいやり方に変えさせてもらう」

 脳内であの日のことがフラッシュバックする。無防備な体に押し当てられたナイフの刃先が、首元にくい込んでいく感触は今でも思い出すだけでも生きた心地のしないものだ。この男は獲物を狙う蛇のようににゅるりと人の弱い部分に入って来ようとしている。ただ今は静かに睨みを利かせ、表面上でだけ穏便に物事を進めようとしているのだ。


「それじゃあ、始めようか」

 男の話はこうだった。まずはなまえがニンベン師であるかどうかを訊ね、次にそうであるなら是非我々のグループに迎え入れたいと言ってきた。下っ端連中と一緒に仕事はさせない、偽造業は何よりも繊細な仕事だからと。そして、自分のお抱えのニンベン師として今より良い待遇で迎えたい。自分の配下になれば、今後一切他者に手出しさせないと。
 なまえは時折、何かを誤魔化すように話を偽った。例えば、自分はその家系に生まれたが一度もそのような仕事を受けたことは無い。それ故に稼業に関わる技術など知らないと告げた。だから、男には早々に切り上げてもらう予定だった。これ以上、何も話すことはなかった。しかし、それはなまえだけの話で、男は終始黙ってなまえの言い分を聞いていた。

「そっか。残念だよ」
「そうでしょうね、申し訳ありませんが、」
「いや、俺が残念に思ってるのは君の話についてじゃない」

 なまえの言葉を男が遮った瞬間、空気が張り詰めていく。肌が粟立つと同時に本能で察する。何かまずいことが起きようとしている。硬直していく体はソファーから剥がれてくれない。まずい、まずい、まずい。あの男の黒い眼差しが両目を突き刺すようで痛い。あの夜に感じたものが再び目の前にあるのだ。底知れない恐怖と絶望が、今度は男の形をして。瞬きと呼吸もままならなかった。ほんの数秒でも彼から目を逸らしてしまったなら、命が断たれてしまいそうだった。

「俺に嘘は通用しないんだって」

 ゆらりとソファーから立ち上がった男はなまえの前に立ちはだかると、自然な動作で頬を打った。肌の弾ける音と痛みが遅れてやって来る。何をされたか理解するよりも先に、男は大きく踏み込む。

「昔っから嘘を見抜くのが得意でね。だから、アンタの話が嘘だって俺には分かる」

 二発目、三発目。遂になまえはソファーから転げ落ち、痛みに痺れた頬に構うことすら忘れ、男を見上げていた。口内に広がる鉄臭い味が出血しているのだと教えてくれる。しかし、男は顔色一つ変えず、動揺も見せず、痛みに震える女の体を足で転がした。そして、馬乗りになり、女の髪を掴んではもう一度問い掛けた。

「なあ、アンタはニンベン師なんだろ」
「知りません、そんなもの……っ」
「それも嘘だね。じゃなきゃ、あの刑事さんが君のこと匿うと思う?」
「……っ、」
「ほら、目の色が変わった」

 掴んでいた髪を放した男は両手をなまえの首に滑らせていった。するり、と冷たくて節くれ立った指先が動と静の脈に触れる。躊躇いがなく、正確な位置に配置された指先はこれからこの首を絞め上げるのだと知らせていた。返事をする前に圧迫感に襲われる。キツく絞め上げるのではなく、血流を遅らせるように首を左右から圧迫され、なまえは息苦しさに顔を歪ませた。

「アンタはニンベン師として裏社会と関わりを持っていた。だが、何を思ったのか自分の存在を抹消し、今度はカタギとして生き始めた」

 どうだ?合ってるか?と男は絞める手の力を抜く。なまえは急いでたくさんの酸素を取り込もうと深い呼吸を繰り返している。思考が少しずつ汚染され、停止していく感覚が恐ろしい。首を絞められると、何も考えられなくなるのだ。出来ていたことが一つずつ潰されていくように。

「そして、あの刑事さんと出会って神室町にやって来た。何か良い条件を持ちかけられたはずだ。じゃなきゃ、裏社会と近い位置にあるこの街に戻って来ようとは思わない」

 合ってるだろ?と薄っぺらい笑みを浮かべて、男はこちらを覗き込む。再び首は嫌な圧迫感に苛まれ、なまえは泣きたくなるのを堪えようと唇を噛み締めた。本当に死んでしまうかもしれない。そうしたら、自分を匿ってくれた黒岩に迷惑がかかる。それだけが酷くやるせない。この男には協力は出来ないのだ。だが、相手はそれを許してくれない。下唇に歯が食い込む感触に鈍い痛みが伴っていく。このまま続ければ、唇が裂けてしまうだろう。

「そして、あの刑事さんはアンタに仕事をさせてる」

 遂に男から薄っぺらい笑みさえも消えてしまった。鋭い眼差しに息の根を掴まれた自分を救ってくれたのは、

「……アンタ、よっぽど口が堅いんだな。普通、カタギがここまでされたらすぐに吐いちまうんだが」

 首の圧迫感から解放され、なまえは浅い呼吸しか出来なかった。体へのダメージは深刻で、男の話も半分以上は聞けていない。意識が朦朧とする最中、男は自分を苦しめるのを止めた。救われた、脅かされた男に。口にしたい疑問は山ほどあるのに、止まりかけの思考では何も伝えられなかった。

「まあ、でもいいよ、もう。君の態度を見てれば分かったから。俺の掴んだ情報は正しかったってことをね」
「ぜ、全部、……知りません、……何も知らないん、です、」
「あ〜あ、俺も君みたいな子と楽しく仕事したかったんだけどなあ」

 俺のところには来てくれなそうだ。と男は散々痛めつけてきたなまえの首や頬に触れると、今までの行いがなかったかのように白々しく労わっていた。反応の薄いなまえの上に覆い被さると、至近距離で強い赤みの残った唇を親指の腹で撫でた。

「君が刑事さんのもんだなんて、認めたくないね」

 だから、仕事抜きで俺とも仲良くしてくれよ。そう呟き、男はなまえの上から降りると、今度は優しく彼女の体を起こしてやり、近くの壁に寄りかからせる。苦痛の指先がなまえの頭を撫で、頬を撫で、唇を撫でる。妙に心地良い感覚だった。狂った平衡感覚はふわふわとしていて、じんわりと広がる気持ちよさに体は脱力していく。

「怖かったろ?悪いね、職業病なんだ。ここまでしっかりやっておかないと、下のヤツらの手本にならないからさ」

 それから、なまえの意識がはっきりとするまで、体の反応が元に戻るまで、男は部屋に滞在し続けた。黒岩が来ないのを良いことに、やけに馴れ馴れしく、そして自分勝手になまえの暮らす部屋に溶け込む。本棚からめぼしい本を引き抜いては退屈を埋めるように読み、冷蔵庫の中を物色しては飲食したりと、男はなまえのテリトリーを完全に我が物としていた。
 その男の名は、相馬と言う。