どす黒い視線の応酬が沈黙の内に繰り広げられている。ソファーにふんぞり返っているのは相馬で、テーブルを挟んで佇んでいるのは黒岩だ。なまえは口元に残る痣と首の絞められたであろう赤らんだ皮膚が痛々しく見える。

「この間は本当に悪かったって」
「誰が謝ってくれって言ったんだよ」
「だって、みょうじさん。全然、俺に話してくれないからさ。少しは自覚を持たせようって思って」
「コイツは俺が面倒見てんだ、勝手なことしてんじゃねえよ」

 いつにも増して黒岩の声から放たれる威圧感が重厚だった。だが、相馬は慣れているのか動揺する素振りは見られない。しかし、いつ均衡を保っている糸が千切れるか分からなかった。それほどまでに二人の間には殺気のようなものが漂っている。何もかもが不安定な状態で、この部屋には存在する。相手に対する憎悪や怒り、殺気に威圧、報復と言った負の感情がひしめき合い、渦を巻いていた。その核となる人物が自分なのだから、なまえはいたたまれない気分だった。

「へぇ、刑事さんはみょうじさんにご執心か」
「お前は何しに来たんだ?コイツに話断られてんだろうが」
「俺はみょうじさんのことが気に入ってね。仕事とか、そう言うの抜きにして仲良くしたいんだ」
「てめえ、ふざけてんのか」
「じゃあ、刑事さんはどうしてみょうじさんのこと匿ってる?私情以外に理由があるのかな」

 さあ、どうだろうな?と視線を外してすぐのことだった。黒岩は懐に手を忍ばせると、ゆっくりと相馬に近付き、相馬が自分に視線を合わせたタイミングで素早く手を引き抜いた。その手に握られていたのは先端の鋭利なアイスピックで、相馬の目を狙って振り下ろされる。しかし、相馬は寸前で黒岩を蹴り飛ばすと、やれやれと言った様子でソファーから立ち上がる。

「危ないよ、そんなもの振り下ろしたら」
「てめえは目ん玉抉って棄ててやるよ」
「アンタは『それ』、得意そうだ。でも、奇遇だな」

 俺も使うんだ、アイスピック。と相馬は手にナイフを握り締めている。決して仲裁に入ることの出来ないなまえは、二人の因縁を黙って見ているしか出来なかった。仮にその場に飛び出し、間に割って入ったところで、後に待ち受けるのは痛みだけなのだから。

 なまえは覚えている。いや、なまえがと言うより、なまえの体が恐怖の瞬間を覚えている。黒岩の意に反した行動を起こした時、それは痛烈に、鮮明に襲いかかってきた。表面的な暴力と言うより、内面に特化した暴力だった。ただ力強く殴れば良いのではなく、ずっと鈍く響いて取り除けないような痛みを黒岩は得意とした。勿論、力任せの暴力だって得意な筈だが、相手はただのヤクザではない。自分が匿っている女なのだ。分からせることが出来れば、黒岩にとってそれでいい。
 そして、相馬はそんな黒岩とは対称的なタイプだった。内面的な暴力の黒岩と違い、相馬は表面的な暴力が得意なのだと思った。それは先日の尋問の時にそう感じたのだ。表面的にまずは追い詰めることで痛みが恐怖を呼び起こし、更に心理状態を負に落とし込むことで、心身共に消耗させていく。そうやって相手に自分の毒を回り巡らせるのだ。


 まるで鋭利な棘の生えた蔦に雁字搦めにされているようだった。もうそんな思いはたくさんだと、本来の自分を抹消したと言うのに。それでもまだ自分を逃がさないと深く棘が突き刺さっている。黒に染った人間はどこまで行っても黒のまま、決して白には戻れない。遠い昔に聞いた覚えのある言葉を思い出し、なまえは自分がここにいる理由が分かった気がした。
 すると、もうこれ以上は不毛であると判断したのか、かすり傷ひとつ負っていない二人は構えを解く。力と忍耐力では黒岩が勝り、素早さとテクニックでは相馬が勝っていた。長々とやったところで、こんな場所では決着すらつかないのだ。互いに受け流してばかりいたが、ある程度の鬱憤は晴れたようで二人は静寂を保ちながら、それぞれ椅子に腰掛ける。

「お前、ちょろちょろ動き回って目障りなんだよ」
「そりゃあ光栄だね」
「減らず口、叩いてんじゃねえ」
「ほら、みょうじさんが困ってる」

 相馬の一言が癪に触ったのか、黒岩は立ち上がると彼女を引き連れて部屋を出て行った。荒れた部屋に相馬を残して。相馬は一人置き去りにされた事実に、と言うよりかは、黒岩の見せた凶暴なまでの戦闘術に打ちのめされていた。あれをモロに食らって立っていられる人物は居ないだろう。今になって冷や汗が吹き出す。
 みょうじなまえはとんでもない番犬を飼っている。そう思うと、胸の奥の深い闇の中で何かが熱を帯び、闇を焦がしていく。めらめらと燃え始めた嫉妬の炎に相馬は眉間の皺を深くした。


***


「あの、大丈夫なんですか」

 黒岩の返事はない。食事に出るという口実で彼女を連れ出したのは他ならない黒岩だが、そのまま楽しく食事に出かけるという訳では無いのだろう。まだ怒りが滲んでいるのが見て取れた。無愛想なまでに無口を貫き通した黒岩はエレベーターに乗り込むと、ようやく重たい口を開いた。

「気に入らねえ野郎だ。また面倒なのに好かれたな、なまえ」

 上手く答えられなかった。相馬が自身の前に現れたのも突然のことで、まさかこんなに早く手を出してくるとも思っていなかった。だからこそ、黒岩の火に油を注いでしまったのだろう。相馬による尋問を受けた翌日、黒岩に連絡を入れると仕事終わりに部屋を訪ねて来てくれた。そして、赤みがかった口元の傷や絞められた跡の残る首を見るや否や、不快感を露わにしたのだ。

「今夜はウチに来い。明日、あの部屋に業者入れて片付けさせる」
「分かりました。ありがとうございます」
「アイツ、俺からお前をくすねるつもりだろうな」
「くすねるって……、」
「仕事抜きだとか言ってたが、だとしても厄介だ」

 壁にもたれ掛かり、腕を組む黒岩はまだ溜飲が下がらないようで再び口を閉ざしてしまった。なまえは今更になって、隠しもしていない暴力の痕跡への目を気にしていた。せめて首元の隠れる上着でも羽織ってくれば良かったと黙り込む。すると、首元を気にしているのが黒岩にも分かったのか、タクシー捕まえてやる。と一言告げ、一階へと下っていくエレベーターの中で二人は沈黙を共にする。