要するに気に食わない相手であることには間違いなかった。それは黒岩も相馬も同じで、ただ一人を除いて、顔を合わせた時の雰囲気は険悪そのものだ。二人が乱闘を起こした日から別日、再び黒岩と相馬は対面していた。あの時と同じく、テーブルを挟んで二人は椅子に腰掛けている。静寂が重苦しい中、なまえはそれぞれの手元に暖かな飲み物を置いた。
「俺は刑事さんとやり合いたくて来てるんじゃないんだ」
「だろうな。俺も面倒事に時間を掛けてる暇はねえ」
「じゃあ、そろそろ落とし所ってのが見えてくると思うんだけどさ」
「落とし所だ?何で俺がお前と歩み寄ってやらなきゃなんねぇんだよ」
「いや、今回は俺から歩み寄る。だから、刑事さんは話を聞いてくれりゃあいい」
その後で返事を聞かせて欲しい。相馬は自分からの歩み寄りとして、次のようなことを口にした。自分達のグループはそこら辺のチンピラから、かつて名を馳せた東城会の元組員だった者たちの行き着く先であり、必要とあれば数人程度都合がつくのだそうだ。つまり、相馬は自分の手下を取引材料として黒岩に差し出すと言っているのだ。
更には裏の便利屋であるかのような動きをしてやれるとも言っていた。例えば、人を一人消すことや攫うこと。堅い口を無理矢理こじ開けることも出来る。そして、裏で握った情報を提供することも厭わない。そこまで言ってのけた相馬に、黒岩は腕を組み、眉間に深く皺を寄せて考えていた。
「そこまでして、ニンベン師だったヤツとお近付きになりたい理由があんのか」
「俺にも色々あるんでね。でも、彼女のことなら喜んで協力しますよ」
「はっ、そうかよ」
それに、エリート刑事だって彼女に割ける時間は限られてるでしょうに。そこまで分かってんなら、俺のいる時に部屋に寄り付くな。それは勿論ですよ。俺は刑事さんにじゃなくて、みょうじさんに会いに来てますから。
相変わらずどちらも引く気配はなく、部屋の空気は重さを増していく。体にべったりとしがみついてはそれぞれの口を塞いでいる。だが、黒岩は決して長考はしなかった。差し出された材料全てを受け取るつもりはないと言い切り、その理由としていつでも相馬と手を切れるようにする為だと牽制した。しかし、相馬はそれでも構わないと黒岩の言い分を受け入れた。
「言っとくが、勝手なことはすんじゃねえ」
「しないよ、しない。その為の歩み寄りでしょうに」
「どうだかな」
「仕事なんて持ちかけませんよ。黒岩さん、アンタ、俺のこと信用してないでしょ」
「ハナからそんなもんねぇよ」
露骨に嫌悪感を押し出す黒岩と、柔軟に対応してみせている相馬の視線は、互いの心臓を突き刺すように鋭利なままだった。黒岩は相馬を一気に握り潰してやりたいのだろう。相馬は黒岩を徐々に窮地へと陥れ、その首元を掻き切りたいのだろう。二人の物言わぬ応酬になまえはひとつ誤解をしていた。先日、自分を取り巻く環境は雁字搦めであり、それらから逃げ切ることは出来ないのだと理解したつもりだった。しかし、この男達を前にして、ようやく分かった。
雁字搦めだったのは自身の存在を抹消するまでのことで、今はもう二人の腹の中に落ちているのではないか、と。あとはゆっくりと自分の腹の中で、どろどろに溶けていくのを待つだけなのだ。この世の何処に、自分の腹に落ちた獲物を吐き出す動物が存在すると言うのだろうか。満腹になるまで噛み千切り、咀嚼し、飲み下した後は血となり、骨となり、肉となるだけ。既にこの肉塊は二人の男によって食されてしまったのだ。左目は自分、右足は自分と彼らは勝手に取り分を決めながら。たった今、女は自分の目の前でバラバラにされた。視線が錯綜する。女と男達の三つの視線がぐちゃぐちゃに入り交じって、乱れて、物欲しそうに一点を見つめている。
「それじゃあ、よろしく。みょうじさん」
「気に入らねえことがあったら、遠慮せずに言え。そこら辺に棄てて来てやる」
「……ありがとうございます、黒岩さん。よろしくお願いします、相馬さん」
ぎゅっと握り潰されるように胃壁が収縮する感覚に見舞われたが、なまえは深呼吸を繰り返す。まるで退路を断たれたように感じるのは何故だろう。触れてはいけないものに触れてしまう気がするのは何故だろう。この二人がただの一般人である自分に執着するのは何故だろう。そもそもの始まりを考えると、何もかもがおかしいことばかりだ。しかし、今更その疑問や矛盾を突き詰めたところでどうなるのだろうか。腹の中に落ちた獲物を吐き出す動物は存在しないが、腹の中に落ちて尚、逃げ出そうとする動物もまた存在しないのだ。
とって食われるだけの存在が、食らうばかりの存在と共存出来るのだろうか。出来るのだとしたら、それはどのようなものになるのだろう。両手にフォークとナイフを握るのは男達で、手元に置かれた無機質な皿の上に寝そべるのは女だ。その三角形をひっくり返し、弱者と強者の立場が逆転するのだろうか。それとも、フォークとナイフを捨て、自力では外すことの出来ない首輪にリードを繋ぐのだろうか。もしかしたら、どこかで愛に似た何かを見つけて、将来を約束するかもしれない。
ただ一つ言い切れるのは、誰もが望むハッピーエンドには辿り着けないだろう。黒岩満と相馬和樹の二人と関わり合いになって、人並みの幸せにありつける筈がない。暗闇の中を目隠しで歩かされる時のように、ふとした瞬間に湧き出る不穏な気配のように、身を投じなければならないほど追い詰められた時のように ──── 。
到底、幸せにはなれないと耳元で囁く声を聴いた。