黒岩満と相馬和樹に目をつけられたみょうじなまえという女は過去さえなければ、どこにでもいる堅気の一般人だった。しかし、奇異な環境で生まれ育った彼女はかつて裏社会の人間だった。良く出来た欺瞞を金で売り払い、溢れる甘い汁に群がる害虫の一人でしかなかった。彼女がいつから裏社会から足を洗いたいと思うようになったのか。それは彼女自身が特に何かをし損じてしまった訳ではなく、ただ漠然と己の虚しさに気付かされたからだ。出来の良い欺瞞を求める手は数多にあった。だが、誰も彼女自身に目を向けることはしなかった。都合のいい事実を作り出せるだけの人間を、どうして等身大で見なければならないのだろうか。真に必要なのは彼女ではなく、彼女の持つ技術だった。その人となりは全く重要ではないと。
だからこそ、彼女は何もかもを捨てて、新しい人生を歩もうと一般社会に馴染む努力をした。自身を脅かす足音を耳にすれば、自身の噂を嗅ぎつければ、直ぐに新天地へと移り住み、過去が風化するのを待っていた。だが、待ち続けるということがどれだけ過酷なものか、当時の彼女は想像していなかった。なんてことの無い一日を当たり前のように過ごせない恐怖。今日をやり過ごしたところで明日何が起こるのか分からない不安。なまえは精神的に疲労していた。そんな彼女の手を取ったのが黒岩だった。
「それが黒岩さんの出会いってわけか」
「やっと静かに暮らせると思ってたんですけどね」
「そりゃあ、手厳しい。二人の関係に水を差しちゃったかな」
「今の私に出来ることは何もないです。黒岩さんからもそう言い付けられてますし」
「いや、俺は息抜きも兼ねてここに来てるんだ。そう身構えないでほしいね」
すっかりこの部屋の通い人となった相馬は、なまえに出されたカップを傾けている。窓の外は夕暮れが夜に呑まれている風景を映し出している。なまえは丁度、仕事を終えて帰宅したところだった。玄関に置かれた男物の革靴は黒岩のものではなく、見慣れないことから相馬が来ているのだろうと知った。そして、案の定、リビングへと行ってみれば、我が物顔で寛いでいる相馬の姿があった。
少し前にも同じことがあった。その時は嫌な目に遭わされていたこともあり、なまえは警戒心を抱いていたのだが、相馬は帰宅したなまえを見るなり、おかえり。と迎えられたのだ。警戒心を露わにしていたなまえに相馬は荷物の鞄を受け取ると、疲れてるでしょ。と労う言葉をかけてきた。それから、なまえが簡単に片付けを済ませるのを待ち、相馬はなまえに興味を抱いていると打ち明けたのだ。
「でも、そんな馴れ初めがあったとはね。いい話を聞かせてもらったよ」
「それじゃあ、私からも一つ聞いていいですか」
「いいよ、この間のこともあるし」
「どうして私の居場所が分かったんですか」
「ウチにはそういうのに詳しい人がいてね。欲しい情報は大抵、簡単に流れ込んでくる」
「……そうですか、ありがとうございます」
「あれ、もういいの?一つとは言わず、いくつでも答えてあげようって思ってたのに」
なまえも遅れてカップを傾ける。僅かに冷めた紅茶が乾いた口内を潤していく。正直、相馬と二人きりで話をするのは苦手だった。初対面の時には喉元にナイフを押し付けられ、二度目に顔を合わせれば尋問紛いのことをされているのだ。誰もが相馬に苦手意識を抱かざるを得ないだろう。要するにあまり深入りをしたくなかった。
「この間のこと、気にしてるんなら謝るよ」
唇を閉ざし、真っ直ぐに向けられた視線が両目を穿つ。沈黙が続く。恐ろしいほどに無口な沈黙の中で、なまえは肌が粟立つのを感じていた。何も脅かされてなどいないのに、相馬の目を見ているとぞわぞわと背中に嫌なものが走り去っていく。
「もう、大丈夫ですから。謝ってくださったので、私ももう気にしません」
「そう?悪いね」
「いえ、相馬さんからそう言ってもらえて気が楽になりましたから」
一瞬、あの日の夜に聞かされた相馬の言葉が甦る。自分には嘘が通用しない、そのようなものは全て見抜けるのだと。なまえは自分が足をかけたばかりの階段が崩れていくような錯覚に陥っていたが、相馬は薄ら笑いを浮かべてなまえの話を聞いていた。恐らく、腹の奥に隠している恐怖心を既に嗅ぎ付けているはずだ。しかし、それを咎めないのは、問い質さないのは、相馬がなまえの嘘を他愛もない気遣いの一つであると解釈しているのかもしれない。
「俺だって、いつもああじゃないんだ」
「……そう、ですか」
「みょうじさんには俺が怖い人だって思われちゃってるからね」
そんなことを言うつもりはなかった。ただ、平日の仕事の疲れとあまりにも重苦しい緊迫感に、なまえがなんとか保っていた警戒心の均衡がいつの間にか崩れていた。
「違うんですか……?」
「あん時はそれでも構わなかった。でも、今のみょうじさんなら、それじゃ駄目だって思ったよ」
それに女性には優しくしないと。とまるで取ってつけたようなことを口にする相馬が意外で、目を丸くすれば、相馬もつられて破顔する。初めて血の通った時間に思えた。意図せず、じゃれついてしまった自分に驚きを隠せない。だが、それを良しとした相馬にも同じ思いを抱いていた。あの時とは確かに状況が違う。だからこそ、今こうして話が出来ているのかもしれない。不穏な空気が少しだけ薄れていく気がした。
「やっと普通に話せた」
「えっと、ごめんなさい。急に馴れ馴れしくなってしまって」
「いや、気にすることないよ。是非、俺ともそうして欲しいね」
黒岩さんとだけじゃなく。と言い放った相馬の視線が突然、恐ろしく感じられた。以前受けた尋問の時とは違う、もっと形容し難い何かが相馬の中にある。警戒を解いてはならなかったのかもしれない。相馬は綺麗な顔で笑っている。綺麗に見えてしまうからこそ、体が怯えているのだ。彼もまた、黒岩と同じ裏の顔を持つ人間だった。
「急に顔色が悪くなったみたいだけど」
「これは、その……、」
大丈夫ですから、と言い切ることは出来なかった。それよりも先に自然な動きで相馬はなまえの隣に腰掛けていた。隣まで距離を詰められてしまっては逃げることが出来ない。あの日の夜がフラッシュバックする。蛇のように鋭い眼光に晒され、なまえは満足に身動きが取れなかった。だが、恐怖している自分を見て相馬は愉しそうに笑うのだ。口角を吊り上げ、酷く愉しそうに。
「みょうじさんって、よく優しいって言われるタイプでしょ」
臀部に相馬の手が置かれる。表情と行動が噛み合っていない。拒みたいのに声を出せない。恐怖が喉に張り付いている。拒まなければと思えば思うほど、焦燥が思考を鈍らせていた。
「こんな俺でも謝りさえすれば、許してくれる」
元裏社会の人間とは思えないほどだ。と囁くと、臀部に置いた手を今度は背中に滑らせる。体の曲線をしっかりとなぞっていく相馬に、なまえは煽られていた。恐怖に思考が麻痺すると、後は肉体が当然の反応を示すだけだ。例えそれが誤解や勘違いであったとしても、体は都合よく解釈してしまう。
「やっぱり、黒岩さんから貰っちゃおうか」
出来るかどうかはさておき。相馬は僅かに満たされたように見える。背中を撫でていた手がやがて首筋へと触れた。指先やゴツゴツとした関節、爪がなまえの脈を愛撫する度にくすぐったさを覚えた。知りたくなかった感覚が相馬によって、覚えさせられている。そう思うと、呼吸に熱が混ざるようになった。しかし、このままなだれ込んではならないと、なまえは唇を噛みながら耐えていた。
「そうやって我慢してる姿を見ると、こっちも唆られるよ」
「そ、相馬さん、怖いです、」
「言ったろ?女性には優しくしないとって」
悪いね。冗談だよ、冗談。と謝りを口にしているが、その表情は満足という他ならない。愉快なのだろう、自分より弱い女が恐ろしさのあまり涙し、懇願する姿が。酷く堪らないのだろう。
「それじゃあ、明日も仕事だろうから俺は帰るよ」
するりと体に巻き付いていた何かが解けていく。カタギさんも大変だからね。と言い残し、相馬は席を立った。恐ろしいと思った視線も既にどこにも無く、なまえは浅い呼吸を繰り返している。まだ首筋には相馬の感覚が残っているようで、体がぞくりと震えた。
相馬が部屋を出て行った後も、なまえは暫く動けなかった。だが、彼女の中で奇妙な感覚が芽生えていた。恐怖に麻痺していたはずの思考が、良からぬものに触れている。そんな、奇妙な感覚が。