あれから相馬はなまえの部屋を訪れてはいない。顔を合わせる時間がなければないほど、気楽になる心があった。だからこそ、明かりのない無人の部屋を見てほっとするのだろう。最近は何かと緊張した場面が多いこともあり、なまえは荷物を近くに放り出して、ベッドに寝そべった。疲れた体を思いっきり預けられるのはベッドだけだ。ゆっくり空気を吸い込み、ゆっくり吐けば、体が脱力してじんわりと解れていく。気持ちいい感覚に甘えて瞼を閉じたなまえはいつの間にか眠りに落ちてしまった。
 次に目が覚めたのは、徐々に意識を揺り起こされた時だった。時計が無性に気になり、体を起こして座り込む。辺りを見回したところで携帯を鞄に入れっぱなしだったことを思い出し、寝室を出ようとした。すると、突然目の前に背の高い人影が現れ、なまえは驚きに小さな悲鳴を上げる。

「く、黒岩さん……。来てたんですね」
「連絡しても中々出ねぇ。面倒事に巻き込まれたかと思えば、呑気に寝てやがる」
「……ごめんなさい。ちょっと休むだけのつもりだったんですけど、つい」
「最近は何かと立て込んでるからな」
「そう言えば、今日はどうしたんですか」

 いつもの様子見だ。黒岩は溜め息混じりに呟く。この部屋は元々、自分を匿う為に用意してくれた場所だ。今ではまるで自分の部屋のように勝手を知った場所だが、そう言った理由もあり、こうして黒岩もここを訪れる。しかし、相馬が現れてから、黒岩の様子見は定期的なものへと変わっていた。なまえは喉の渇きを潤そうとキッチンに立つ。冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、近くのグラススタンドからグラスを一つ手に取り、まずは一杯分注ぎ入れた。

「黒岩さんも飲みますか」
「少しでいい」
「それじゃあ、かけて待っててください」

 更にもう一つグラスを用意し、水を控えめに注ぐ。まだどこかぼんやりとしていたが、なまえは無事に二つのグラスをキッチンの傍にあるテーブルに並べた。一つは自分の手元に、もう一つは黒岩の手元に。黒岩は深く息を吐きながら、胸元のネクタイを緩めている。きっちりと結ばれていたネクタイは遂に取り払われてしまい、テーブルの端に投げ出された。

「あの、ゆっくりしていってください。黒岩さんも毎日大変でしょうから」
「そうだな。ところで、お前の方はどうだ」
「……私は特に」
「アイツが来てから、お前も大変だろ」
「そうですね、相馬さんといると変に緊張するんです」
「まあ、何考えてるか分からねえ奴だ。妙なことに巻き込まれんじゃねぇぞ」

 彼にも疲労がのしかかっているせいか、いつも無表情な黒岩が余計にそう見えた。顔の陰影にすら無機質な印象を受ける。本来ならば自分一人で匿うべき人物を、他の人間にも半ば任せている状態なのだ。黒岩としては面白くないだろう。なまえは深く頷き、手元の水をゆっくりと飲み干した。中身のなくなったグラスを手に、なまえはキッチンの流しの前に立つ。そして、グラスを置き去りにすると、背後に気配を感じた。黒岩のものだ。後ろから伸びた手には同じ中身がからっぽになったグラスがあり、なまえは静かに振り返る。
 逃げ場のない狭い空間で、噛み付くようなキスをされた。既に手持ち無沙汰になった手で後頭部を押さえられ、黒岩の気が済むまで続くのだ。どんなに胸元を叩こうとも、どんなに強く胸元を押そうとも、非力な女の抵抗は虚しく終わる。息苦しさと熱い舌先の愛撫に頭はゆっくりと理性を溶かされていく。熱くて苦しくて、どうにかしたいのに、手馴れたように理性を剥がされてしまう。深い密接の後に解離は訪れた。下手な息継ぎに黒岩は愉悦に浸って笑うでもなく、剥がれた理性に余裕のなさを滲ませるでもなく、ただ見下ろしていた。唇の濡れた自分だけが浅ましく、卑しく、そして余裕がない。

「もうすっかりって顔だな」
「……そういう気分じゃないって思ってました、」
「誰だって、気が変わることぐらいある」
「あの、」
「お前はどうしたい」

 さっきので満足なら終わりにしてやる。
 深い黒の瞳が煌々と光を放つ。黒岩にとってセックスはあまり重要ではない。目の前の男が真に重要としているのは、女一人を繋ぎ止めておけるだけの強い繋がりだ。その為なら、依存や中毒の類でも平気で覚えさせようとする。そして、そのような黒岩を目にした時、なまえは自分の中の煽られた欲求を黒岩の思い描いた通りに結び付けていくのだ。例え、故意に繋ぎ目がほつれていたとしても。
 男はいつもそうだった。こちらの返事を待つ間、心底どうでもいいと言いたそうな顔で自分を見下ろす。決定権を委ねているのに、結局は建前でしかないのだ。全て手に取るように把握しているのだろう。このように問いかければ、女がどんな反応を示し、どんな返事をするのか。彼がきつく結わえた赤い糸を断ち切ることは決してない。それを許さないが為の、依存関係なのだ。


「……つづけて、ほしいです」
「そうか。なら、少し遊ぶか」

 なあ、なまえ。と黒岩が女の首輪を引く。下腹部が嫌な疼き方をしている。こんなにも容赦なく力関係を見せつけられていても、なまえは黒岩を拒みはしなかった。無理矢理に従っているでも、従わされているでもない。結ばれた赤い糸の通り、なまえは黒岩と関係を受け入れている。
 なまえは流しを背にしたまま床に腰を落とすと、黒岩を熱っぽい瞳で見上げた。黒岩は流しの上にある照明を消し、近くの椅子を持ってきては静かに腰掛ける。椅子にもたれ掛かる男と床に座り込んだ女。二人の間には湿った空気が漂っている。見下される視線と見上げる視線。名を呼ぶ必要などなく、女から先に歩み寄る。そして、黒岩の内腿に頬を寄せては羞恥の色が滲む顔で、もう一度だけ下から見上げていた。

「欲情してんだろ、お前の面を見れば分かる」
「……黒岩さんのせいです」
「ハッ、言うじゃねえか」

 だから、今日は帰らないでください。と、か細い声が静寂に呑まれて消えた。どくどくと熱い何かが下腹部に降りていく。どうしようもなかった。ストレスの分だけ体は快楽を素直に求め、なまえ自身も我慢の限界だった。ここ最近は立て込んでいた。予期せぬ巡り合わせ、恐怖に何度凍えたことだろう。触れて欲しいのだ、この体の芯に纒わりつく熱に。返事はベルトの金具に触れる黒岩の指先だった。金具の擦れる音を聞き、次にファスナーが下がっていく音を聞いた。そして、滾った熱源になまえは身震いしていた。
 心臓の鼓動が重く、深く、脈を打つ。今までにも何度か体を重ねてはいるものの、やはり羞恥心は消えてくれない。なまえは見下す視線に犯されたまま、黒岩自身に唇を寄せた。自分でも自分や煽られた欲求に抗えない。そう、教えられたから。そう、覚えさせられたから。自分を匿ってくれている相手に施すような行為ではないのかもしれない。後ろめたさに目を合わせられず、逃れるように瞼を閉ざす。不意に頭に何かが触れる感触がし、なまえは閉ざしていた瞼を開く。

「従順だな。悪くねえ」

 黒岩から伸びた手が頭を撫でたかと思えば、今度は強く自分の方へと引き寄せるものだから、なまえは恥じらっていた唇から舌を覗かせた。濡れた舌先で熱を愛撫する。濡れた唇で熱に吸い付く。濡れた瞳で熱を咥え込む。その女の行動に男は酷く加虐心が煽られていた。満たされた欲求は底知れない。満たされる度に次から次を欲するのだ。黒岩という男も自身の欲求には素直な人間だった。熱を咥えたなまえの喉奥まで犯すように、滾った熱をより深くへと押し込ませていく。
 突然、慣れぬ異物が喉奥を刺激したことで、なまえの体は反射的に硬直していた。狭い肉壁を無理矢理押し広げていく感覚に、胃が激しく収縮を繰り返す。熱い何かが込み上げるのを必死に堪えながら、喉の肉壁まで嬲る黒岩に強く惹かれてしまう部分があった。淫らに響く水音がやけに生々しく脳を揺さぶる。感覚的に犯されているだけでなく、悪癖を増やそうとしているような気がした。しかし、続く息苦しさや喉奥を突かれて嘔吐く体に思考や理性は掻き消されてしまう。視界も涙で滲み、体も快楽の熱に塗れており、正常な判断は出来なかった。

 微量の快楽が意識に植え付けられる。これは痛みや苦しみは使い方によっては、人を繋ぎ止める枷になる証明でもあった。初めは突然のことで体が自然と拒絶反応を示していたが、今では与えられる微量な快楽に貪欲になっていた。後頭部に添えられた手に引き寄せられる度、唾液や舌が絡まり、喉奥を掠めるようにストロークされてしまえば、じわじわと快感が喉を伝って下半身になだれ込む。しかし、これでは疼いた体は満たされない。
 快楽を乞う。なまえが見上げた先にいたのは、僅かに表情を歪ませた黒岩だった。それが近いのだと思うと、何度も引き寄せていた黒岩の手も止まる。滾った熱は喉奥で吐精していた。喉を圧迫されるのと息苦しさで、なまえは朦朧としながら喉奥で吐き出された欲を受け止めている。反り返る熱がどくどくと脈打つ度に白濁が絡みついては、不快な感触を残していく。


「どうするかはお前次第だ。好きにしろ」

 吐精を終え、ずるり、とそれは引き抜かれた。なまえの口には絡む白濁だけが残されており、その処理についてはこちらに委ねられてしまった。他人事のように再びベルトに手をかけている黒岩に待ってと告げると、僅かに目の色を変えた黒岩の手が口元に伸びてきた。厚みのある指先が口を無理矢理こじ開け、口内を晒す。そのどこにも白濁はなく、なまえの目を覗き込んだ。

「まさか、そこまでするとは思わなかったよ」

 羞恥心を刺激するような言葉選びだった。なまえも自分のした行為が淫らなものであると分かっていたからだ。しかし、黒岩は満足そうな笑みを薄らと浮かべ、なまえの喉仏を撫でる。まだ喉奥に絡みつく感覚がある。それは自分が飲み込んだ白濁のせいだった。こうまでしてしまった以上、なまえの昂った熱は理性を殺してしまっている。黒岩に懇願すれば、すぐに手を引かれた。向かった先は寝室で、なまえは今すぐにでも部屋の闇に溶けてしまいたいと、熱に浮いた瞳を鈍く光らせた。