次にこの部屋で彼女を見た時、相馬はなまえの変化を肌で、空気で、感じ取っていた。まるで淡白だった彼女が途端に色香を纏い始めたのだ。一々仕草に艶が宿り、所作や言葉の端々に気を惹かれてしまう。変化の理由は黒岩だろう。黒岩は自分より彼女との関係が深く、彼女もまた黒岩にはある程度の信頼を寄せている。その信頼に邪なものがない、とは言い切れないが。
だからこそ、相馬はなまえを見た時、面白くないと感じた。あの男は自分より先に彼女の存在に気付き、手元に置いているだけだ。そのくせ、やたらと威圧的に迫ってくる。敵に回したくない男だが、彼女はどうだろうか。基本的に大人しく、我も強くない。場合によっては毅然と立ち向かいはするものの、決して脅威ではない。寧ろ、染まりやすく従順な一面があるのではないだろうか。そう思うと、黒岩との関係性も酷いやり方で築かれたのではないかと推測する。
例えば、離れられないような何かを教え込んでしまえば、依存し、依存される関係となり、今のような関係性に発展することも可能なはずだ。ただ、それが肉体的なのか、精神的かものなのかは不明であるが、同じようなやり口であれば、自分も黒岩と同様の関係性になれるかもしれない。そこで相馬は一つ試してみることにした。彼女の黒岩への信頼を測るのと同時に、彼女が何かしらのアクションを起こすことで黒岩にどのような悪影響を及ぼすのか、を。
「黒岩さんは今、逃走してる犯人を追ってるそうでね」
「逃走してる犯人、ですか」
「ああ。これがまた一筋縄ではいかない相手らしくて」
「相馬さん、黒岩さんとそんなお話をされるんですね」
「まあ、もう赤の他人じゃないからね」
「それは、そうですけど、」
艶めいたまつ毛を揺らしてなまえは相馬の話を聞いていた。今日もまた部屋にやって来たかと思えば、突然黒岩の近況を訊ねてくるのだから、なまえは驚きを隠せなかった。確かに相馬の話通り、数日前に黒岩から暫くは顔を出しに行けないという連絡を貰ったばかりだ。だが、そのような事情に関しては何も話してはいなかった。相馬の話を聞き終える頃、なまえは憂いを含んだ表情で相馬を見た。
「黒岩さんのことが心配なんでしょ」
「ええ。だからと言って、私に出来ることは何もありませんけど」
「俺もさ、今回は大変だろうなあって思っててさ」
「相馬さんも……?どうして、」
「ウチには情報通がいるって話、したよな?」
こくりと頷くなまえに、相馬は不敵な笑みでこう告げる。俺も気になってソイツに話を聞いたり、軽く調べてみたんだ。相馬は独自に調べ上げた情報をなまえに事細かに打ち明けた。なまえも初めは困惑していたが、粗方概要が見えてくるとある程度の察しがついたようで、憂う表情はどこかへと消え去っていた。
犯人の男は未だに逃走を続けているものの、神室町でねぐらとしている場所は二つ。まず一つは犯人の女が経営している店、もう一つは神室町地下に広がる下水道。男は二つの拠点を定期的に行き来し、警察の追っ手を撒いているのだとか。しかし、ここで疑問が生じる。ここまでの情報であれば、黒岩ならすぐに掴めるのではないかと。
「犯人の女ってのがまた厄介でね、中々尻尾を掴ませてくんないんだよ」
「じゃあ、黒岩さんはそこで足止めされてるってことですか」
「姿を現さないんだそうだ。ここ数日間どれだけ張り込んでいても姿を見せやしないって」
だから、苦労したよ。この神室町で女ひとりの情報を洗い出すのはさ。ため息混じりに一連の苦労が吐き出される。相馬もこの事件に一枚噛みたがっているのは明白だった。しかし、何故か妙に引っかかることがある。個人的に思うのは、姿を現さないような人物の情報をどのように手にしたのだろう。警察を出し抜いて、そのような情報を得るにはそれなりの情報網が必要な筈だ。半グレグループのリーダーともなると、独自の情報網でも存在するのだろうか。
もし、仮にその人物が犯人の女であると分かっても、本人が自分の男の情報を安易に外部へと漏らすものだろうか。犯人である男を自分の店に匿うような女が。なまえは密かに疑惑が強まっていくのを感じた。何か、相馬の話には嫌な気配が纏わりついている気がしてならないのだ。
「あ、みょうじさんもネイルしてんだ」
「……え、ああ、はい。たまにですけど」
相馬の言う通り、なまえの指先は淡いベージュで塗り上げられている。相馬は人のことをよく見ている男なのだと思った。黒岩ですら、ネイルのことなど触れない話題だと言うのに。
「あれだ、長さには気をつけないと」
「長さ、ですか?」
「そう。引っ掛けて剥げたり、強い衝撃で割れたりしたら大変だからね」
「そうですね、気をつけます。とは言っても、あまり長いのはつけないので」
「なら、安心だ」
あれって結構、簡単に剥がれちゃうから、みょうじさんに痛い思いして欲しくないんだ。
予想の斜め上を行く発言に、なまえは目を丸くして自分の指先を見た。確かに自爪を土台としたジェルネイルは乱暴に扱ってしまえば、相当のダメージを受けることだろう。相馬も言っていた通り、自爪もろとも剥がれてしまった場合など恐ろしくて想像出来ない。
「意外でした。相馬さん、詳しいんですね」
「まあ、俺も最近知ったんだけど」
意外な話題に笑みが溢れる。最近の相馬は初めの頃と比べて親しみやすい印象を受けることが増えて来た。それでも、まだ本能が強く働きかける場面の方が多いが、突拍子のない話題になまえの緊張は解けていた。すると、相馬は唐突に真面目な顔、真面目な声でなまえにとある話を持ち掛けた。神妙な面持ちになまえも背筋を正す。
「みょうじさん、犯人の男を俺達で捕まえられないかな」
「私と相馬さんとでってことですか」
「そう。俺とみょうじさんの二人で」
「いえ、私は……」
「本当にそう思ってる?俺に嘘は通用しないんだ、みょうじさん」
だから、みょうじさんがどれだけ黒岩さんのことを大切に思ってるかなんて、今の反応でよく分かるよ。そんなこと……。俺なら、みょうじさんの力になってやれる。黒岩さん程じゃないが、腕には自信がある。でも。
なまえは一人、頼りない手元を見た。出来ることが両手に満たない人間が何をしてやれるのだろう。踏ん切りのつかないなまえに相馬は数枚の紙を差し出した。その紙はくしゃくしゃに丸められたのか、やたらと皺が目立つ紙だった。
「みょうじさんに体張らせるつもりはない。ただ、この筆跡を真似て一枚手紙を書いて欲しい」
「……筆跡を真似て、」
「ニンベン師だったアンタにしか出来ない」
「これは一体、何なんです……?」
「女はコレで犯人の男と連絡をとってた。携帯を使っちゃ足がつくと考えたんだろ」
皺だらけの紙面には、丸みを帯びた文字がつらつらと書き記されていた。これが彼女の『特徴』なのだろう。倣えと言われれば、出来なくはない。だが、気が進まないのだ。今は黒岩の元で一般人として匿われている身で、昔のように仕事を受けるのは出来ればしたくない。それでは、黒岩の厚意を無下にしてしまうと思ったからだ。
「……考えさせてください。今、この場で答えることは出来ないです」
「わかった。こっちから急に持ち掛けた話だ、そりゃあ考える時間もいる」
「もし、引き受けると言ったら、どうすればいいですか」
「俺に連絡してくれれば、必要なもん揃えてまた顔出すよ」
「わかりました」
浮かない顔の彼女に触れる。細い指先をやんわりと包み込むように握り締めると、なまえは一瞬救われたような顔をして視線を逃がした。なまえの思ってることが相馬には、不思議と手に取るように分かっていた。恐らく、彼女は連絡してくることだろう。黒岩の為に。そして、相馬は自分の思い描く結末に近付いたことを内心、喜んでいた。
***
「まさか、こんな場所で見つかるとはな」
神室町郊外にある、とある廃棄物処理場で一人の遺体が発見された。遺体の損傷が激しく、死後二日は経過しているとのことだった。身体には酷い暴行の痕跡があるものの、彼女を拉致したと思われる相手の指紋や凶器は一切見つけられず、犯人の特定は困難であると断定された。
遺体の相手は黒岩がここ数日間で身柄を確保したがっていた、逃走犯の女だった。彼女が経営する店や自宅付近に部下を張り込ませていたのだが、先に何者かによって口を塞がれていたことが明白になった瞬間でもあった。重要参考人として押さえておきたかった人物の死に、黒岩は僅かな不自然さを感じていた。今、こうして彼女の口を塞いで得をする人間が何処にいる?逃走犯も所詮は下っ端のヤクザで、使い捨ての駒同然だろうに。それとも、全く関係の無い人物の可能性もなくはないが、あまり現実的ではないと吐き捨てる。
女の遺体は体の至る所に打撲痕とそれに伴う内出血が見られた。更には殴るだけでは物足りなかったのだろう、両手の爪が根元から剥がされていた。廃棄物処理場の近くにある、廃工場内で彼女のものと思われる爪が十枚ほど放置されていたこともあり、犯行現場はその廃工場で間違いないと推測しているが、黒岩は彼女の死という結果がやけに引っ掛かる。ヤクザの女。口を塞ぐだけにしては馬鹿丁寧な殺し。口を塞ぐのが目的ではなく、女の持っていた情報を聞き出す為の行為だとしたら。突如、現れた第三者である殺害犯との関連性。
今まで自分達が見つけ、紐付けようとしてきた糸を悪戯に掻き乱された気分だった。これでこの捜査は何の手がかりも掴めずに犯人逮捕に尽力しなければならなくなったのだ。黒岩としては見ず知らずの人物に足を引っ張られ、内心怒りで煮え滾っていた。
「ただじゃ済まさねえ」
黒岩は遺体の女を強く睨み付け、勝手に手を出して来た殺害犯への怨恨を滲ませる。これは相馬がなまえに仕事を持ち掛けた時刻と同時刻の出来事であり、ただただ場には不穏な空気が漂っていた。