それから、なまえが相馬に連絡をしたのは翌日のことで、相馬からは粗末な紙と封筒を一通受け取った。前日に渡されていた『彼女』の特徴をそのままに、指定した日時、指定した場所に来て欲しいという旨の手紙を綴る。赤の他人が本人そっくりの筆跡で手紙をしたためる光景が珍しいと相馬はなまえのペン先を目で追っていた。
「ニンベン師にかかりゃ、こうもそっくりに書けるもんか」
「この人は字に分かりやすい特徴がありますから、」
「でも、素人が真似したところでここまでそっくりにはならない」
「……そういう仕事だったので」
瞳が過去を覗き始める前に、なまえはひたすらにペンを動かした。そして、書き終えた手紙を三つ折りにして封筒に入れ、相馬に手渡す。手紙を懐に忍ばせた相馬は今日の内に、男と女しか知らない約束の場所に置いておくと告げた。
「はは、ありがと。助かったよ。俺も、黒岩さんも」
「それならよかったです」
「なら、その浮かない顔やめなきゃ」
「……悪い気がしてしまって、」
俺達が企んでること?と相馬が訊ねると、なまえは返事の代わりに黙って俯いた。相馬の依頼を引き受けると返事したものの、手紙を綴って見せた今もまだどこか迷いがあるらしい。良くしてくれた相手の恩義と言うものだろう、裏社会の人間は恩義と信用を同一視する生き物だ。それは足を洗った人間でも本質は変わらないのだと思った。
相馬もかつてはそちら側の人間だったが、正直どうでもいいとさえ感じていた。自分の果たすべき目的の為に動く人間だ。だからこそ、私情を挟んでしまっては掲げた正義が揺らいでしまう。これは正義の為の必要な行為なのだと、相馬はなまえに言い聞かせた。隠してはいるが、自身も黒岩とは似た立場にいる。つまり、黒岩への助けは自分への助けにもなりうるという事だった。
「黒に染まった人間に出来るのは結局、黒いことだと思うんです」
「でも、黒がいるから白側の人間はみんな安穏としていられる」
「相馬さん。これは、この仕事は私じゃなきゃいけないんですよね」
「そう、君じゃなきゃ出来ないことだ」
相馬の言葉を最後に、今日はわざわざありがとうございました。となまえは頭を下げると席を立った。少し風に当たりたいのだと、リビングから通じるベランダの窓に手をかけていた。その小さな背中を見ている内に、良からぬものに触れてしまった男がいた。後から席を立ち、彼女の後を追う。小さな背中はやはり小さくか細いもので、腕の中に閉じ込めてしまおうと思えば、容易だった。しかし、夜風に髪を絡ませた彼女は警戒するでもなく、淡々と口を開いた。
「相馬さん、もうお帰りですよね」
「いや、別に帰らなくてもいい。俺が留守にしてようと、下の奴が上手くやってくれるんでね」
「それなら、あともう少しだけここに居てくれませんか」
「みょうじさんにお願いされちゃあ、帰れないな」
「ごめんなさい、我儘を言って」
いつにもなく控えめな言葉選びだった。まだ葛藤が色濃く見えるのは、彼女と言う人間がいかに黒岩に良くされてきたかを物語っていた。笑みの裏側で苦虫を噛み潰す。自己主張が弱いくせに、善悪の判断だけは真っ当であるべきだとしている。相容れない相手に染まっているなまえを見ていると、衝動的になってしまいたくなった。彼女の中に理性を残しておいたのは黒岩だ。だが、自分ならばそれも取り払って手中に収めるだろうに。彼女には、そうしてしまいたいと思わされる何かがあった。
「大丈夫。黒岩さんに何か言われたら、俺が間に割って入るよ」
「割って入るって、そんなこと……」
「元々は俺が勝手に首を突っ込んでんだ。みょうじさんが責められる謂れはないでしょ」
「……本当はそう言ってもらえて、少しほっとしてます」
二人の関係が長いだけに彼女が抱いている感情に、恐怖も存在しているようだった。今回の一件でその恐怖を助長させてしまうかもしれない。しかし、それで切れる関係なら、切れる繋がりなら好都合でしかないのだ。取り残された人間ひとりを攫うのに困難なことなどない。相馬は待っている。繋ぎ目が綻ぶのを。綻んだそれが切れてしまう寸前まで弱まるのを。そして、その繋がりにヒビを入れるのは自分であり、彼女が書いたこの手紙だけが決定的な一打になると証明する。恐らく、悪影響という括りでは収まりがつかないほどのことになるだろうが、それはそれで悪くないのだ。夜風だけが気ままなベランダで二人は静かに佇んでいた。体が冷えるからと女と共に部屋に戻った男は人知れず、次の段階へ進みたがっている。
***
相馬がなまえから例の手紙を受け取って数日が経った。逃走中の男は相馬と共にあり、数日前に亡くなった女の店で二人と出会した黒岩は顔を顰めた。犯人の男は猿轡を噛まされ、更には失神させられているようだった。床に伏せったまま、ぴくりとも動かない。店内のピンクライトがうざったく目に突き刺さる。黒岩は表情一つ変えずに口を開いた。
「何やってんだ、お前」
「早いね、もう着いたんだ」
「そうか、お前が首突っ込んでたのか」
「最近の黒岩さん忙しかったでしょ?だから、少し手伝ってあげようって」
「それで、アイツにコレを書かせたのか?」
黒岩は懐から一通の手紙を取り出すと、皺だらけの手紙を広げて見せた。これは男がここに呼び出される前に滞在していたとされる公園のゴミ箱から見つかったものだった。黒岩は初めてこの手紙を目にした時、酷い違和感を覚えた。既に亡くなっている女が、何のためにこの手紙を書いたのか。手紙の筆跡自体もあまり古くなく、特に不審に思えたのが、今日この日の、この時間帯に何故自分の店に来るよう、書きつけたのか。
そして、黒岩の元にかかって来た一本の電話。それはこの店に入っていく犯人を見かけたという通報があったというもの。更には署の方に男が公園に滞在しているとの通報も入っており、この手紙を証拠として持って帰ってきた。
「ひと目みただけで分かんだ、その手紙の出処がどこか」
「そうやって、人をおちょくってんのが気に入らねえ」
入れ。とたった一言を口にした黒岩に反応するように店の扉が開く。その隙間から顔を覗かせたのは、浮かない顔をしたなまえ本人だった。口元がどこか腫れぼったく見えるが、店内の照明に塗り潰され、よく見えない。だが、相馬はなまえがある程度の暴力を伴う尋問を受けたところで、取り乱しはしなかった。何故なら、予想すら出来た結果だったからだ。もしかしたら、見えないだけであの服の下にはおぞましいほどの『質問』の形跡が残っているのかもしれない。
「言っとくが、コイツはお前を売ってねえ」
「へえ、そりゃあ嬉しいね」
「お前を売ったのは、お前んとこの人間だ」
「あ〜あ。人が多いと教育が行き届かなくなる典型だね、こりゃあ」
「もっとちゃんと躾ておかねぇとなあ?」
「じゃあ、黒岩さんはちゃんと出来てるわけだ」
わざとらしく悲しい素振りをして見せたかと思えば、今度は獲物を狩るような目で彼女を見る。何年手元に置いてると思ってんだ。と不敵に返す黒岩だが、今回は相馬においても満足の行く結果であったらしく、笑みを浮かべる。なまえが自分を黒岩に売らなかった。その事実に胸の虚空が僅かに埋まったかのように錯覚していた。だからこそ、彼女は口元を腫らしているのかもしれない。何度叩かれたのだろう、何度問われたのだろう、何度。黒岩に命を掴まれたのだろう。
「で、ソイツらは黒岩さんが指導しちゃったんでしょ」
「人聞きの悪いこと言うなよ、善良な市民の協力あっての捜査だからな」
「じゃあ、別に俺が手を下さなくてもいいな。助かったよ、黒岩さん」
「なまえ、てめぇもこんな奴庇って何になる」
「いえ、私は……」
それ以上は言葉に詰まってしまってらしく、なまえは何も言えなかった。その様子に溜め息を逃がした黒岩は、ここからは仕事だ、てめぇらはさっさと出て行け。と相馬となまえの二人に店を出るように指示した。相馬は初めからそのつもりだとあっけらかんとしていたが、なまえはごめんなさいと最後に言い添えて、二人は店の入口に向かっていく。しかし、黒岩はもう一度だけ口を開いた。その相手は相馬だった。
「相馬、今日はソイツ貸してやるよ」
「捜査協力のお礼か何か?」
「なに、お前がずっと貸して欲しそうにしてたからな」
「お気遣い、どうも。それじゃ、遠慮なく」
「次も貸して欲しかったら言えよ。出来るだけ都合してやる」
背中越しに投げ付けられた言葉に、相馬は形式だけの礼を告げ、これだから血の気の多い人は……。と愚痴を零しながら、なまえと共に店を出た。相馬は時折、横目でなまえの様子を窺っていた。自分をあの黒岩に売らなかった彼女だ、今回の一件で相当堪える結果にさせてしまった。彼女の姿は行く宛てのない、野良猫のように見えた。今日ばかりは首輪を外されてしまい、路頭に迷っている。
「みょうじさんはこの後どこへ?」
「いつもと変わりません。ただ……、」
「帰りづらいだろうなぁ。例え、今夜黒岩さんが帰って来なくても」
「大丈夫です。黒岩さんとは長い関係なので、話し合えますから」
「そんな顔して、あの人とお話出来る?」
「それは……、」
だったら、今夜は俺のところに来るといい。
相馬の一言に、なまえは目を丸くし、顔を上げた。それに、君のこと貸してくれるって言ってたし、みょうじさんが良ければだけど。と携帯を片手になまえに答えを委ねる。答えは決まっているような気がした。彼女から発せられる沈んだ雰囲気には微かに恐怖の匂いが混じっている。つまり、彼女は逃げたい筈なのだ。恐怖の檻に戻りたくはないと。
「……あの、今日だけお願い出来ますか」
「なら、早速人払いしておかないと」
「人払い、ですか?」
「今から連れてくのは俺たちのアジトの一つ。そこは下のヤツらの溜まり場みたいになってるから」
なまえに相馬は微笑む。携帯画面に映る相手と通話が始まったらしく、口元に人差し指を添えた後、相馬は通話相手と今日のことを話していた。通話の相手は阿久津という人物らしく、相馬の態度からして親しい相手なのだろう。風俗店の看板のネオンに晒されながら、なまえは冷た過ぎる夜風に身を凍えさせていた。体にへばりつく罪悪感を誤魔化すかのように。