押し込められた暗闇の中で輪郭をなぞられた。
這う指先は滑らか、その感触が気持ち良くて、抱き寄せられたように密着する体の事は後回しだった。
触れ合う箇所の体温がゆっくりと溶け合っていく、同じ熱を共有している様で頬さえも熱くなる。
まだ慣れない暗闇の中を見渡す事は出来ない。
お互いにどんな顔をしているのか、順応性の悪い瞳はまだ黒に塞がれたままだった。

息遣いと服の擦れる音、体を蝕むような熱。
それだけが二人のやり取りだった。
言葉は交わし尽くされた、別れ際のあの会話で使い切ってしまった。
なまえに触れる指先の熱は分からない、けれど、遠慮がちにさえ思える優しい手付きがきっと同じだと教えてくれる。

これを温もりと言うのだろう。
燃えるような熱さも無ければ、凍えるような冷たさも無い。
それらを中和した心地良い温かさ、人肌のそれを知ったなまえは自然と手持ち無沙汰の腕を、目の前にいると思われる真島の背中へと回した。

その胸元へ寄り添う、真島の指先は動かなくなった。
何を思ってくれているだろうか、何かが焦がれるよりも先に真島の手はなまえの肩を掴んでいた。
そして、後ろへと体を押し戻した真島は、その手を肩から離さなかった。
目前の闇を払えずにいるなまえはその行動を不安に思った。
まるで、駄目だと言っているかのように、それは曖昧な拒絶のように思えた。
真意は分からない、闇に目を塞がれてしまっては、彼の表情を読み取る事など出来なかった。
しかし、なまえの暗い感情は払拭されていた。


柔らかな感触がした。
熱い吐息とその感触が、なまえの散らかった頭の中を綺麗さっぱりと片付けてしまった。
呼吸が止まる、体の動きも眠気に襲われた時のようにゆっくりとしていて、時間さえも止まってしまうような感覚だった。
触れて、離れて。
たったそれだけが交わされた。
なまえは唇を震わせ、ようやく吐息を零す。
この時、初めてなまえは目の前にいた、真島のその表情を目にする事となる。

見たことの無い、憂う様な表情だった。
唇は真一文字、黒目はこちらに焦点を定めつつも微かに左右に揺れていた。
なまえは再び吐息を千切ると、足りない身長を補うように背伸びをしては、見上げる視線を自ら閉じ、唇に吸い付いた。
真島の腕が不安定な足元を支えるように体に回される。
唇が焼けるように熱い、時折零れる吐息と声が体を芯から熱くさせた。
長く持たない口付けは何度目かの別れを迎える、それでも構わなかった。
未だに燃える唇は真島の暖かな舌先で宥められた。

「…なんちゅう顔してんねん。お姉ちゃんもえらい積極的やのぉ。」
「だって、真島さんが、」
「全部俺のせい、なんか?」
「いいえ、…私もしたかったから、」

そないな事言うたらあかん、と革の指先が燃え続ける唇に触れる。
彼にもこの火照りが移ってしまえばいいのに、となまえは革手袋を勝手にその手から外してしまった。
なまえはどきりとした、革に遮られていた手のひらの暖かさ、いや、既にそうとは呼べない熱に驚いていた。

「俺は辛抱強い男ちゃうんや、お姉ちゃん。」
「真島さん、」
「…あかんなァ、こう言う時ばっかり、歳がしゃしゃり出てくんねや。」
「歳、ですか、」
「せや、分かんねん。今のお姉ちゃんに対して、こうするべきやない!って、よう出来た自分がな。」
「あの、わたしは…、」
「ホンマはこのまま押し倒したいところやが、今日は帰るわ。…帰らなあかん。」

そう告げる真島をなまえは引き止めなかった。
真島のなまえを見つめる瞳が真剣な光を帯びていたからだろう。
情欲も今はただの熱だと誤魔化して、なまえは頷く。
しかし、言い出しっぺのくせに残念そうな顔をして見せる真島に笑いが込み上げてくる。

「…お姉ちゃん、ホンマにいけずやな、」
「だって、真島さん、自分で帰るって言ったじゃないですか。」
「何言うとんねん、せやけど、せやけどや!」

もう私、こんなに火照ってるです。真島さんがおらんとおかしなってまう…。くらい言わんかい!と、革を外した手がなまえの髪を雑に乱暴気味に撫でた。
なまえは意外な一言に吹き出すように笑いながら、その行動を受け入れていた。

「真島さんって、えっちなんですね。」
「俺に限らず大体はそうや、」
「そうですよね、こういう事には慎重にならないと。」
「…せや、安売りしたらあかん言うんはこういう事や。」

未だに残念そうな表情をしている真島に、なまえはもう一度その身を寄せた。
抱擁くらいはしてもいいのだろうと真島の背後に腕を回す。
どくんどくんと同じ鼓動が聞こえる、真島も再び腕を絡めてきた。
不思議と離れたくなさそうに感じてしまうのは、まだ酔いが覚めないからだろうか。

「なぁ、お姉ちゃん。一つお願いがあるんや。」
「はい、なんでしょう…?」

抱擁の解かれたなまえは真島の突然のお願いに首を傾げた。

「なんや難しい事やない、」

真島は革の外れた指先で自分の左頬を、とん、とん、と触れて見せた。
なまえは既に答えが分かっていた、お願いの全ても。
彼より先に、と爪先立ちになって、左頬へ口付けを落とした。
小さなリップ音を残して、なまえの背は低くなっていく。

「ちゅう、したって、って事ですよね、」
「分かっとるやないか、」
「忘れられないですよ、あの日の事ですから。」

せやな、俺もそうや。と見せた笑みがやたらと大人びていて、なまえはそっと自分の唇に触れた。
忘れられない記憶がまた一つ、今この瞬間に増えていく。
唇が今を記憶する。
真島への思いも、触れた時の感触も、二人で感じているこの雰囲気も、交わした言葉の響きも。



「それじゃあ、また。」
「おう、はよ寝るんやで。」

ぶっきらぼうに手を振る様が、まだこの続きがあるのだと教えてくれていた。
控えめに開いたドアの隙間から、真島が先に外に出た。
なまえも見送ろうと続いて出ようとしたが、真島に止められてしまった。

「ここでええ。ほなまたな、お姉ちゃん。」
「はい。おやすみなさい、真島さん。」
「おやすみさん、」

玄関先に流れ込んだ月明かりは、真島によって閉ざされた扉の影で見えなくなってしまった。
扉の前から革靴の鳴る音が次第に遠ざかっていくのを聞き、そしてようやくその扉に鍵をかけた。
とりあえず、と玄関の明かりをつけ、玄関と廊下の境目であるフローリングに腰を下ろす。
物思いに耽る訳じゃない、なまえは胸にしまったばかりの唇の記憶を取り出して眺めていた。
明日が休みで良かったと思う、きっと暫くはこのまま、この場所でその記憶を大切に見つめている事だろう。
だから、この後に待ち構える着替えだとか、入浴だとか、睡眠なんてものを相手にする余裕が無い。

あの、憂う表情が瞳に映る。
脈打つ心臓がそれに共鳴する、鼓動の騒がしさが正にそうであった。
それと共にぼんやりと、『好き』では無いが、それによく似た何かを思い浮かべていた。
なまえはその名前を知らなかった、けれど、それは『好き』に当て嵌められるものではなく、もっと深く大きな何かだと言う事は分かった。
名も知らぬ、空白の感情を抱えながら、なまえはまだその場から動けそうになかった。
真島も同じように、夜空の下で唇の記憶を取り出している事を知らないまま、日付の変わる本当の今日の終わりを迎えるまで。