相馬に連れられた先は寂れたビルの地下だった。入口には部下と思われる男がパイプ椅子に座っており、相馬の姿を確認すると静かに場を去っていく。なまえはここに連れられるまで目隠しをされていた。組織のアジトであるが故のことだった。連絡を受けた部下の車に乗り、なまえは相馬と二人でここへやって来た。

「クラブ、ですか……?」
「元、ね。俺には分からないけど、みんなこう言うのが好きなんだってさ」

 まあ、少し埃っぽいけど、悪い所じゃないんだ。と怪訝そうな顔をする相馬について行く。自分達のアジトと言うこともあり、迷いのない足取りで巨大なダンスフロアの近くにあるバーカウンターへと向かっていた。カウンターの奥にはずらりと酒瓶が並び、どれも見た目からして高級そうなものばかりだった。相馬はなまえを先に座らせると、自身がカウンターの中に入り、グラスと酒を見繕う。これでもない、あれでもないとめぼしい瓶に手を伸ばし、唸っていた。

「そんな良いお酒、いただけません」
「遠慮しないで。まだ裏にもたんまりあるから」
「ごめんなさい。それにお酒って気分じゃなくて……」
「じゃあ、良い水にしよう。先に出そうか」

 カウンター下にあるだろう冷蔵庫からボトルの水を取り出すと、背後に置いておいたグラスに静かに注ぎ入れ、なまえの手元にそっとグラスを滑らせた。これなら、どう?と問う相馬に礼を言い、グラスに口をつけた。ひんやりとした水がゆっくりと喉を冷やしながら潤してくれる。その水の口当たりの良さになまえは小さく息を吐いた。その傍ら、相馬は自分のグラスに琥珀を流し込んでおり、手元に無造作に置かれたアイスピックをぼんやりと見つめていた。

「あの刑事さんもどういうつもりなんだか」

 ふと聞こえてきた相馬の言葉に顔を上げる。なまえは間を繋げず、再び水を飲む。

「俺ならああは言わない。寧ろ、自分の為に手を貸してくれたみょうじさんに感謝する」
「望んでなかったことでしょうから、仕方ありません」
「それじゃあ、みょうじさんが可哀想だ」

 グラスを片手に相馬もようやく隣に腰掛ける。実を言えば、不安で仕方なかった。自分が足を洗った筈の仕事をするのも、黒岩の為であると自身に言い聞かせていても、どんなに相馬に聞こえのいい気遣いを受けていても、心中は穏やかではなかった。後ろめたさから逃れる度にグラスの水は減っていった。隣で相馬の慰めを聞きながら。
 すると、突然フロアに誰かの声が響いた。男の声だ。人を探しているのか、誰かに呼び掛けるその声に相馬が席を立った。


「おいおい、今日は俺の貸し切りなんだけど」
「……え、あ、す、すいません……!」
「ほら、あそこにお客さん見えてるでしょ」
「いや、あの、本当に……!」
「いいって、別に怒ってるわけじゃない。ただ俺の顔を立ててほしいって話」
「すぐに出て行きますんで……!」
「悪いね、助かる」

 彼は相馬の部下なのだろう、態度や言葉遣いからそれが見てとれた。なまえは二人のやり取りを傍から見ている内に、僅かながら眠気を感じていた。今日一日で起きたことを考えれば、体が疲労を訴えていてもおかしくはない。突然、部屋を訪れた黒岩に今回の事件の関与を疑われ、問い質され、たった一度だけ頬を打たれた。それから質問されたことに対して答え、共に相馬が待っているであろう店まで連れて行かれたのだ。黒岩は心底怒っているようだった、腹の奥に上手く落とし込んで隠してはいるが、自分にだけは分かる。
 それから、それから……、と記憶をなぞっていこうとすると、ぐらりと視界が揺れることが多くなった。眠気が徐々に増してきている気がする。留めておいた思考が柔らかく崩れ落ちていき、脳内が真っ白に塗り潰されていく。眠たい。頭がぼんやりとして、重たい体をどこかに預けてしまいたいと思うほどに。グラスは既に空になっていた。

「みょうじさん、大丈夫?」
「……そ、うまさん、なんか」

 ぼうっとしちゃって。その一言すら上手く言葉に出来ないくらいに眠気に襲われている。瞼を開けていることさえ辛い。相馬は何かを察したのか、なまえの顔を覗き込んだ。
 眠たい?……すこしだけ。少しだけには見えないなあ。ごめん、なさい。めいわく、かけませんから。みょうじさんのそういうところが好きだよ、健気で。相馬は笑いを噛み殺している。今のなまえでは相馬の悪意を汲み取ることは不可能だった。眠たそうに垂れた目尻、スローペースに繰り返される瞬きに、相馬は薬の効果を実感していた。

「今日はここで楽しく飲もうと思ってたけど、みょうじさんが心配だ」

「場所を変えようか。みょうじさんがゆっくり出来るような場所に」

 相馬の弾んだ声を最後になまえは眠りに落ちていってしまった。この眠りが人為的に誘発されたことも、この後自身に待ち受ける現実もなまえは何も分かりはしなかった。カウンターに体を預けるなまえの頭を相馬の綺麗な手が撫でていた。


***


 次に目が覚めた時、なまえは見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上に寝かされていた。部屋に明かりはなく、時折別の部屋から誰かの足音が聞こえてくる。体を起こそうにも、頭はまだぼんやりとしていて思考も反応も鈍いままだった。それでも、何とかして上半身だけでも無理に起こすと、物音を聞いた誰かが部屋へと歩いてくる音が聞こえてきた。

「おはよう」
「……相馬さん、」
「ぐっすり眠ってたから、相当疲れてるんだろうって」
「確かクラブみたいなところに居たはずじゃ……、」
「みょうじさんが眠たそうにしてたから、まともなベッドのある場所まで連れて来たんだ」

 ベッドの端に腰掛ければ、スプリングが軋んで鳴った。相馬はなまえの下りた髪を撫でている。なまえは相馬の属する半グレグループのアジトでただ話し込んでいた。酒の気分ではないからと水を貰い、話をし、そして。そこから先が鮮明に思い出せない。記憶にノイズが走り、電源の落ちたテレビのように真っ黒に閉ざされる。だが、妙な感覚だけが体に残っているような気がしていた。頭のぼやけた感覚に苛まれているのに、体が疼いている。じっとりと湿っぽい感情がまだ体に残留している、気がしてならない。気のせいだろうかと相馬を見た瞬間に、脳裏に何かが甦る。同時に自分から溶け出た理性が何をしでかしたのかを懺悔する。
 例えば、相馬が何気なくこちらに向けた薄ら笑い。ぞわりと肌が粟立ち、心臓が重く脈を打つ。つま先から熱が抜けていく感覚に襲われ、凍えてしまいそうだった。髪を撫でていたはずの指先が首筋をなぞれば、首元に感じた緩やかな圧迫感を思い出し、ぞっとする。肌が触れていたのではないか、この場所で。真下から見上げていたような光景が徐々に鮮明になっていく。もしかしたら、悪夢を見ていたのかもしれない、ただ体ごと蹂躙される夢を。しかし、それを否定するのが下腹部に残った疼きと微熱だった。


「俺さ、てっきり黒岩さんに散々痛めつけられたんだと思ってたよ」
「……え?」
「だから、驚いたね。傷ひとつない、綺麗な体で」

 砂嵐に似たノイズが薄れていく。まだ大部分は不鮮明ではあるものの、本当はこの目で見ていたのだ。この肌で感じていたのだ。この耳で聞いていたのだ。相馬が抱いた悪意の全てを。察しの良い男は再びスプリングを軋ませた。そして、首元から胸元へと指先を滑らせ、何かをなぞってみせた。何度も何度も愛おしそうに指先でなぞっている。女の視線が気になったのか、男は女の手を取ると真っ先に洗面所へと向かった。手を引かれた女は疑問と不安を抱く。恐らく、あの部位に何かがあるのだろうとは気付いてはいたが。
 微かにふらつく足取りで連れ出され、洗面所の前に立たされた。相馬は背面に立ち、もう一度あの部位を撫でる。細い指先が愛でていたのは、肌に薄らと浮かび上がる歯型に似た痣だった。そして、その痣は胸元だけではなく、捲し上げられて無防備に晒された腹部にも数ヶ所残されていた。

「案外、簡単だったよ。そんで、俺も楽しくなっちゃって」

 鏡に映る自分の体には大きな蛇が巻きついており、その蛇は不敵な笑みを浮かべている。好奇心に満ちた目になまえは深く絶望していた。だが、蛇は耳元でこう囁くのだ。俺は嘘を見抜ける人間だと。なまえは相馬の言っている意味が分からなかった。まるでなまえが抱いた絶望が嘘であるかのような物言いに、なまえは鏡越しに相馬を睨みつける。すると、不意に喉元に鋭利な何かを押し当てられた。洗面所の照明を反射させ、ギラギラと光っているそれはナイフだった。いつの日かの再来のようだった。

「確か、前にもこういうことしたっけ」
「……あの時は、」
「そう。あの時は必死でね、恥もへったくれもない顔合わせだった」
「相馬さんは何がしたいんですか、」
「俺?……俺はみょうじさんとよろしくやりたい」

 例え、それがどんな意味合いであってもね。と感情のない笑みを貼り付けたまま、相馬は押し当てたナイフを下ろす。そして、今の一連の流れがなかったかのようになまえの衣服を元に戻し、今夜はゆっくり休んで。と肩を軽く叩いて、鏡の中から出て行った。取り残されたなまえは一人、自分の肌に残されたそれに触れると、背筋がぞくりと震える。狼狽えていた、相馬に悪意の全貌を打ち明けられて。
 顔にかかる髪が邪魔だと耳に掛けた時、更に気付くことがあった。気付いた途端、その肉はじんじんと小さく痺れ始め、痛みを主張する。今までなかったものが、この体に増えていたのだ。それは相馬からの愛咬ではない。耳を飾る小ぶりなプラチナは何だ。知る由もない、なまえはピアスを着けられるような耳ではなかった。知らぬ間に穿たれた部位が発熱していく。なまえの中で焦燥感が加速していった。