「お前、雰囲気変わったな」
見違えたぞ。と黒岩の肌を這う視線に戦慄する。しかし、どんな理由であろうと決して目を逸らしてはいけない。今は尋問中なのだ、誠心誠意を証明しなければならない。痴情のもつれ?痴話喧嘩?そんな安易なものなどで片付けられない。なまえは椅子に座らされ、黒岩はなまえと目線を合わせるように身を屈めている。決して拘束などされていないのに、声を発することはおろか、黒岩の前から立ち去ることも許されていなかった。今、席を立とうものなら、足を潰されるかもしれない。ものの喩えだ、だが、それに近しいことはやってのけるだろう。今日の黒岩は懐かしい顔をしている。まるでここに来て最初の頃のような顔を。
「よく似合ってるよ、相馬から貰ったんだろ」
黒岩の指先が髪を後ろへ逃がす。晒された耳には今もまだ相馬に着けられたピアスが残ったままだ。相当、優しくしてもらったんだな。と囁き声が耳にこびり付いて取れない。今日は長くなりそうだと黒岩は言っていた。なまえも次第にその理由が分かって来たような気がして、体は震え出す。
相馬によって見せられた悪夢の翌日になまえは自宅のマンションへと帰された。衝撃的な事実に、数日はまともな食事が摂れなかった程だ。特に気にかけていたのは、黒岩の存在だった。もし、この体を見られてしまったら。もし、あの夜のことを知られてしまったら。嫌な寒気が肌の上を走り、感覚を研ぎ澄まされる。しかし、なまえが過ごす怯えた数日間の内に黒岩は部屋に姿を表さなかった。嵐の前の静けさとでも言うように、何故か嫌な予感は日に日に強くなっていく。体の痣はまだ残っている。体からあの男の毒が抜け切っていない。だが、遂にその日は訪れた。仕事から帰宅して間もなく、黒岩が来ていることに気付く。玄関に置かれた革靴だった。
「よぉ、元気してたか」
「……黒岩さん、」
「俺も忙しくしててな。悪かったよ、放ったらかしにして」
椅子にふんぞり返り、なまえの帰宅を待っているかのような素振りをしていた。本当に待ってはいたのだろう。だが、その理由に怒りが含まれていないかと言えば、そうとは言い切れなかった。手紙の件を問い質した時、黒岩は確かに腹の奥底に怒りを隠し持っていたのだ。しかし、ただ単調な会話の中ではその怒りが汲み取れず、黒岩が何を思い、何を感じ、何をしようとしているのか分からずにいた。得体の知れないものに対する恐怖は底なしだ。次から次へとそこから這い上がって来ては、弱くて柔らかな部分を平気で切り付けていくのだ。なまえは黒岩の秘めたる狂気にいっその事、触れてしまいたいとさえ考えていた。生きた心地のしない時を過ごすのは永久より長い。
「流石の俺も申し訳なく思ってんだ。だから、久しぶりに構ってやるよ」
ぴったりと肌に張り付き、滑らかな黒が指先を綺麗に包んでいる。血が、肌が怯えている。肉の記憶に刻まれている装い、そのものだ。なまえが黒岩の元へやって来てすぐの頃は、よくこんな事が頻繁に多発していた。主に『意にそぐわない』ことをした時に黒岩はあの革手袋を嵌め、この肉体に恐怖を孕ませるのだ。ただの殴る蹴ると言った暴力とは違い、意思疎通を図った上で互いに認知のズレがあれば、矯正しに入る。恐怖で相手を飼い慣らす術に長けているのは相馬だけではない。黒岩もまた自身の持つ狂気で相手を染め上げてしまうことが出来る人間だった。
痛みだけで支配するのではなく、的確に部位を見定め、肉体が生命維持機能を著しく低下させない程度に加減を見ながら痛めつけていく。黒岩はそれが出来る部類の人間だった。だからこそ、相馬が残した愛咬の跡に新しい痣を増やすことさえ、簡単にやってのけた。全ての古傷を塗り替えるだけでなく、欲情を煽るように嬲ることも容易く、黒岩は完全になまえの何もかもを握っていた。
肉を打たれれば、鋭い衝撃が体を駆け抜け、鈍い余韻に精神が摩耗する。しかし、その後に宿る嫌な熱に体はぞくりと震えた。甘美的であると頭が、体が錯覚するようになっていた。これは相馬の時の感覚と全く同じで、なまえは自分の悪癖の始まりが黒岩満だったのだと知る。頬の痛みが和らいだ頃には、下腹部をぎりぎりと圧迫され、軽い内出血の痛みに喘ぐ。口に噛まされている猿轡のせいで悲鳴が聞こえない。この部屋で起きたことは誰も知らないのだ。肉を痛めつけている今を、誰も知らない。
辺りの床には血が付着していた。鼻の内部が殴打の衝撃で傷ついてしまったのか、たらりと流れる血すら拭わせてもらえない。それどころか、良い顔してるな。満更でもねえって顔をよ。と煽られるのだから、なまえは悪夢が続いているように感じられた。体を襲うのは適切な痛みだけではない。無理に与えられた痛みのせいで、体が熱を持ち始めた。額に浮かぶ汗は時折、輪郭をなぞって落ちていく。体は自分の血と汗で汚れていった。黒岩はそんな自分のことを見て、愉しそうに笑うのだ。そして、自分もこの状況を悪夢だと忌み嫌っているくせに、甘美的であると錯覚を起こしているのだから、この部屋のどこにも救いなんてものはないのだろう。
前髪を適度な強さで引っ張られた。ぐい、と顔を持ち上げられ、熱を持った両目を愛おしそうに覗き込んでいる。黒岩はよく愛おしげな目で見ていた。こうして、自分の在り方を肉に教え込む時、黒岩は必ず愛おしそうに自分を見た。世の中には様々な『愛玩』が存在する。それは人の数に比例して様々な意味合いを持った『愛玩』が。黒岩と相馬の持つ意味はとてもよく似ていた。そして、自分もまた彼らの『愛玩』に適した人間なのだと気付かされた。視界がぼやけていても、黒岩の姿はしっかりと分かる。
「どうしてこの人は自分をこんなに痛めつけるんだろう、って考えてるか?」
揺れる視界に住む黒岩は何かを見透かしている。この胸を暴かれる気がした。
「いや、お前はそんなこと考えない。そう思うはずがない」
黒岩の手が胸骨をすり抜け、かつてように心臓を掴む。逃れられないと悟った。
「俺とお前は利害関係が一致してる。今までに会ったどの人間よりも」
所詮は同じ穴の狢だ。心臓を掴むだけではなく、ぎゅっと握り締め、圧迫してくる。この言葉は黒岩に矯正される度に聞いた言葉だ。俺が一番、お前を人として尊重してやってる。そうだろ?と不敵な笑みを捨て、無表情で向ける視線はこの目を突き刺す。人として尊重されること、それはなまえがかつて黒岩やその他の人間に望んだことだ。しかし、大半の者は嘲り笑うだけで、なまえの願いを聞くことはなかった。彼ら達は散々自分を利用してきたと言うのに。だが、自身を痛めつけている黒岩だけは違った。彼だけは今までの嘲り笑った者達と違い、唯一なまえの懇願を受け入れてくれた人物だ。そうしなければ、黒岩の元になまえの姿はなかっただろう。
「俺とお前には誰にも言えない秘密がある。それがある限り、こんなのは死ぬまで続く」
呪いがこの体に蓄積していく。黒岩は必ず呪いをかけることを忘れなかった。それはこの特殊な関係のせいでもあった。黒岩が吐く呪いを、なまえが飲み込む。なんてことのない言葉がいつの日か、真実に勝るほどの力を宿す。聖書の一節があたかも悩める自分の為に綴られたのだと錯覚し、信仰心が増すのと同様に呪いもまた、人間に深く影響を及ぼすものだった。
「なあ、今度気に食わねえことがあったら遠慮せず言えよ。また俺がなんとかしてやる」
『また』、黒岩のその言葉にフラッシュバックする光景がある。人型に包まれた青いビニールシート、頭部の包みに手を伸ばした黒岩の姿、よく知るもう一人の男の顔。恐怖は何度でもこの肌におぞましい接吻を施していく。恐れは肌を伝い、首筋を撫で、目を覆う。命が掴まれる度に、気味の悪い恍惚感に苛まれる。自分ではどうすることも出来ない浸食になまえは目の前が真っ暗になった。
すると、突然部屋の扉が開いた。廊下に佇んでいたのは相馬で、こちらの様子を見て怪訝な顔をしていた。筈だったが、なまえが相馬の方を真っ黒に濡れた瞳で見た時、相馬の僅かに表情の機微を捉えた。陰湿な光景に目を伏せるでも、背けるでもなく、淡々と黒岩に一言、二言を話しかける。黒岩も何もなかったかのように振る舞い、相馬もすぐにこの空気に馴染んでいった。
「悪いな、今日は貸してやれない。見ての通り、取り込み中だ」
「いいよ、別に。今日はみょうじさんのこと借りたくて来たわけじゃないから」
「じゃあ、何の用だ」
「顔が見たくなってね、元気にしてるかって」
「なら、もう用は済んだだろ」
はいはい、邪魔者は帰りますよ。そうしてくれると助かる。黒岩は相馬の背を切りつけ、平然となまえに視線を注ぐ。扉の閉まる音がするよりも先に囁きが部屋を支配する。アイツも薄々、お前のことに勘づいてるだろうな。黒岩が言いたかったのは、裏社会の人間であったことではない。人間なら誰しも隠したがる繊細な部分のことだった。表と裏の顔を使い分けられる人間ばかりではないこの世の中で、それは異端視され、疎まれ、忌み嫌われる。近頃になって、大抵のことは個人的嗜好として受け入れられるようになってはいるが、その『大抵』から外れた人間は未だにそう言った影を抱えることになる。
黒岩はなまえの影を受け入れられる側の人間だった。そして、自身の影の一部に取り込んだ人間でもある。恐らく相馬にもその傾向はある。なまえは身震いした。自分の大切な繊細に触れ、好き勝手しようとする相手が二人に増えてしまうことに。なまえは身震いしていた。傷が痛む度に本能にけしかけてくる下賎な欲に。震えていたのだ、恐怖は悦びと共にあるのかもしれない。心臓を掴まれる度、快楽に酔いしれる人間が、この世には存在する。