何度思い出しても恐ろしいと思った。背筋が凍りながらも、悴む体の芯の部分に熱を持たせる何かを持っている人間なのだと思った。みょうじなまえはどこにでもいるような、平凡な女性ではない。冷めた照明の下に映る、青白い肌には自分の噛み跡を塗り潰すように痣が浮かんでいた。恐らく、黒岩は全てを塗り潰したことだろう。しかし、その様が酷く映えるのは何故だろう。黒岩が彼女に施したのは、自分の比にならないような暴力だ。声を上げられぬように猿轡を噛まされているのに、その瞳は鈍い輝きを放っていた。見た者の心を掴むような鋭い輝きではなく、網膜に焼き付いた光の残像のようにこびり付くような鈍い輝きだ。傷付いた鼻から垂れる血も、衝撃で切れた下唇も、肌に浮かぶ痣も、乱れた髪でさえも相手を惹き寄せる力を持っていて、彼女はそれを抑える術を知らないのだろう。
 今日、なまえの部屋に相馬が訪れたのは偶然ではなかった。事前に黒岩からそのような指示を貰っていたのだ。自身が彼女に毒を飲ませたことを咎められるのかと思いきや、そうではない。驚きを隠しながら、あの部屋を訪ねてようやく意味が分かった。黒岩は毒を飲ませずとも、彼女の喜ぶことをしてやれる。彼女の爛れた姿を見て、やっと理解したのだ。みょうじなまえには少なくともいくつかの秘密があり、黒岩はそれら全てを把握している唯一の人物なのだろう。そして、黒岩はそれを見せびらかしたかったのではない。自分に訴えかけていたのだ、所詮は俺もお前もこの女に抱く感情は同じであると。


***


「そろそろやめとくか、なあ?」

 黒岩は床に横たわるなまえを見下ろしていた。肌を自分の血で汚し、隠し切れないほどの痕が残された彼女を見て、行為の終わりを告げるように両手の革手袋を外していく。そして、彼女に噛ませ続けていた猿轡を外してやり、体を起こしてやる。乱れた髪を手早く整えてやり、切れた唇の血を親指で拭う。大丈夫か?と何を問うているのか分からない言葉をあてがわれた。なまえは酷く穏やかな心境だった。苦悶の時間は過ぎ去り、目の前には狂気を飲み込んだ黒岩がいる。吐いた吐息は震えていた。体を包み込むような熱に、結露してしまいそうだった。熱に濡れた唇を粗末に撫でられ、なまえはその指に歯を立てる。力いっぱいにではない、ただ咥えるように歯を立てていた。

「噛み付きたい気分か?」

 指に立てられた歯は衝動の引き金を引けず、黙って口を閉ざせば、もう一度唇を撫でられた。その気は無いと首を左右に振れば、あの頃とは違うもんな、お前も。と機嫌の良さが顔から滲み出ていた。あの頃、と過去と比べられるのには理由があった。今と昔ではなまえの在り方は大きく違っており、今の状況は昔とよく似ているのだ。だから、黒岩は痛め付けた自分を見て懐かしんでいるのだろう。ならば、余計に噛み付きたい気分は膨れ上がって行った。過去と見比べられるのは好きじゃない。例えそれが自分を痛め付けた相手であろうと。
 すぐ近くにある、それに噛み付いた。歯を立て、がぶりと肉を噛んだ。瞼を開き、目の前にある瞳を見て愕然とした。黒岩は何一つ微動だにしていない。恐れ戦き、離れた唇は震えている。口唇の肉は微々たる傷口から血を流し、黒岩はそれを手の甲で拭うと、がっつくんじゃねえ。もうこれ以上はしてやれねえっつってんだ。とあしらわれ、なまえは痛む体で黙って黒岩を見つめていた。

「お前はそうされるのが一番気に食わねえって分かってる」
「……それじゃあ、黒岩さんはどうして、」
「なまえ、お前を見てると気分がいい」

 お前は自分に素直でいられない。だから、その引き金に手を添えてやると、お前はよろこんで引き金を引く。
 相馬の時もそうだったろ?と赤らむ唇が突き刺す。心臓が不吉な音を立てて、脈に血を流し込む。黒岩の言葉に耳を疑った。どうして、どうしてこうも自分を見透かすような人物ばかり現れるのだろう。それじゃあ、自分は一体何のためにここで過ごしてきたのだろうか。『愛玩』の為だけならば、忌まわしい過去と対面していることと何ら変わらない。理由を問おうとすれば、先に黒岩に釘を刺された。

「さっきも言っただろ、俺が一番お前を人として尊重してるってな」

 だから、俺はお前が胸糞悪い趣味を持っていようが関係ねえ。俺だけがお前の望むものを持ってこれる。例えば、と続けた黒岩は爛れた唇でなまえの痛々しい唇に触れた。即座に手首を掴まれ、抵抗を許さない。酸欠を誘うように貪られ、なまえは徐々に理性の紐を解いていった。掴まれた手首の圧迫感、塞ぐキスの余裕のなさ、黒岩の手の上で転がされているに過ぎない愚かな劣情。どれもがなまえの気分を高揚させる。
 しかし、浅はかであるが故の欲は破滅を招く。黒岩の素手が皮膚をなぞった。そして、赤紫の痛々しい跡に触れると、ぐっと力を込めて肉を押し込んだ。体に鈍い痛みが響く。内出血している箇所を力強く押されているせいだ。黒岩は視線を逸らさず、なまえの目を見ている。痛みに呻けば、黒岩の暗闇を映した瞳は細まっていく。自分が噛んだ黒岩の唇が三日月のように裂けた。

「お前の正直なところが俺は気に入ってんだ」

 嘘じゃねえ。と囁かれ、なまえは背筋を震わせた。そして、温もりの抜けた指先で黒岩の手を掴んだ。痣を圧迫している手を今度は、自分の首に触れさせ、なまえは飢えた唇を濡らしている。黒岩にも多少の衝撃が走り、しかし、もう慣れたことであると、両手で彼女の首を包み込んで直ぐに圧迫し始めた。苦痛に歪むべき顔は恍惚な表情を浮かべている。黒岩の手に自分の手を重ね、生を実感していたのだ。死の匂いが強くなって初めて、人は生を実感する。失われる寸前に喜びは芽生えるのだと知っていた。
 数秒後の呼吸は浅いものから徐々に深いものへと変わっていった。力任せに首を絞めていた訳じゃない。左右の血管を圧迫するようでなければ、事故が起きてしまう。黒岩も、なまえも両目の暗闇に光を宿していた。掴みどころのない、怪しげな光を。抗い難い強い光に身を委ねた結果がこれである。自分の健全であった何かが一瞬で真っ黒に染まっていく。そして、その黒の中にいる心地良さを知ってしまっては容易に抜け出すことは出来ない。なまえは黒岩に引きずり込まれた人間だが、それ以前から秘めているものはあった。

「……黒岩さんはなんで、」
「何だ」
「どうして何も教えてくれないんですか。私ばかり翻弄されて、」

 ──── こうやって、私の体には消えないようなものを残していくのに。
 拙い言葉で毒を吐いた。黒岩は初めてなまえから吐き出された毒に考える素振りをして見せた。しかし、結局は鼻で笑われてしまい、何を言っても黒岩満という男には響かないのだと思っていた。だが、そうではなかった。鼻で笑ったのを最後に、黒岩は更にもう一枚仮面を剥がした。仮面の下では見たことの無い、どす黒い目をしていた。今から事が起きる、それも闇の中で行われるだろう惨たらしい事が。そう思わせるほどの威圧感が漂っている。命を握り締めていたのをやめ、今度こそ本当に握り潰してしまうような、嫌な気配がした。

 なら、教えてやろうか。お前の知りたいこと、知りたくなかったことまで。胸骨にヒビが入る。だが、それを知っちまったら、もう安穏とは生きていけない。ヒビがより深くなっていく。それでも、お前が知りたいなら話してやる。今にも胸骨は脆く崩れ落ちてしまいそうだ。
 不意に黒岩の指が喉仏を圧迫し始めた。ぐ、とやんわりと押し込まれただけで息苦しい感覚に陥る。更に圧迫すれば、反射で咳き込みたくなった。胸骨は崩れ落ち、黒岩の前には無防備な心臓が晒されている。それはただの真っ赤な肉塊に過ぎない。繊細で大切なそれはたった一つの傷も許しはしない。何故かと問われれば、死に至ってしまうからだ。

「殺してやろうか」

 そんなにも辛いなら、俺が殺してやろうか。全部、綺麗に始末してやる。黒岩は心臓に爪を立てた。表面の皮膚を乱暴に掻き毟る。なまえは体が殺意に震えるのを感じていた。逃れられない、黒岩の内面に渦巻いているものの強大さに初めて気付いた。自分と黒岩を繋いでいるのは契約や色めき立つ感情などではない。執着だった。黒岩が何かと自分の命を掴んでいたかった理由を知り、それと同時に自分が黒岩に執着心を抱いていることを知らされた。そして、相馬も黒岩と同じ執着を自分に抱きつつあると気付かされた。大人しく目を閉じる。抵抗に意味は無いと自ら目を閉じれば、嘲笑う声が聞こえた。


「冗談だ、冗談。本気にすんなよ」

 喉仏にあった指は圧迫を緩め、黒岩は剥がれた仮面を付け直していた。しかし、恐怖に麻痺した体は機能不全のままだった。一人取り残された自分を見た黒岩は何を思ったのか、なまえの体を起こすとそのまま浴室へと連れて行った。こんな状態じゃ、明日の仕事に障るだろ。と気遣いを添えてくれた黒岩になまえは掻き毟られた心臓が血を流している気がした。