なまえは裏社会と手を切ってから、各地を転々としていた。自分の過去を嗅ぎ付けた輩の追っ手を振り切り、別人に成り代わって生きる生活に終わりは見えなかったが、自分が選んだ以上は避けられない運命だと覚悟していた。逃げ続ける人生だと、隠し通さねばならない人生だと。もう何度目の逃避行だっただろうか、その時が一番長く続いた平穏の時だった気がする。そこは都市部ではなく、地方の小さな町でなまえはしがない会社員として勤めていた。
なまえは寂れた景観のアパートの一室を借りており、その日は山積みの仕事を切り崩そうと残業を終えて帰宅した。体にのしかかる疲労感はいつもより多く、帰宅中ですら早く週末にならないかと思ったほどだ。しかし、綺麗な仕事をしている自覚はあった。自分の手を汚さず、誰かの手を汚さず、誰かの為になる仕事はやっていてやりがいのあるものだった。裏と表、こうも居心地の良さが違うとは思わなかった。だが、ふと考えてしまうことがある。いつか自分の周りを覆う闇に連れ攫われてしまうのではないかと。心当たりは一つだけ。不穏な影に怯える夜は幾度となくあった。それでも、自分がこうしていられる間は綺麗な人間になれたようで、どこか救われる思いだった。
寂れたアパートの、軋む階段を昇り終えてすぐの部屋が自宅だ。いつもと変わらない風景に溶け込んだドアノブに手をかけると、軽い感覚に違和感を覚える。まだ鍵もあけていないのに、ドアノブはすんなりと半回転してみせたのだ。まさか、朝から施錠しなかったのだろうか。いや、今朝もしっかりと確認して会社へと向かったのは記憶に新しい。ならば、どうして。そこまで考えてようやく気付いた。中に誰かが潜んでいる。血の気が引いていくのと同時に本能が呼びかける。今すぐここから逃げ出さなければならないと。
しかし、ひとりでに開いた扉の隙間には見慣れた部屋と薄暗い暗闇がどこまでも広がっていた。何度も脳内では都合のいい考えが浮かんで消える。本当に鍵を閉め忘れただけなのかもしれない。だが、それなら何故、今こんなにも恐怖を感じているのだろうか。嫌な予感が警鐘を鳴らす。なまえは自分の本能を信じ、扉の前から離れようと踵を返した。刹那、引き摺り込まれる。闇から這い出た手はこの腕を掴み、抗い難い強い力で女の体ごと扉の隙間へと飲み込んでしまった。
暗転。どこもかしこも薄暗い闇に包まれ、視界は潰れたままだ。引き摺り込まれた衝撃で転倒したものの、膝を着いたのは床であると分かった。人の気配はすぐ近くにある、急いで立ち上がり、廊下を真っ直ぐに突っ切っていく。行き当たりはリビングだ。そこのベランダから下に逃げられないだろうかと、リビングに出た時だった。奇妙な匂いが鼻を突いた。あまり良い気分のしない匂いだ。まるで何か嫌なことが起きた後の一室のような不穏さが闇の中に隠されている。
すると、不意に背後でカチ、と何かが鳴る。僅かな間を置いて、それは照明のスイッチが鳴ったのだと知った。目を潰すほどの闇が途端に払われ、奇妙な匂いの正体が目前にあることを突き付けられたのだ。フローリングに広がる血溜まり、無惨に喉元を切り裂かれた、見ず知らずの男。背後の気配がそっと忍び寄る。不意に口元に手を回され、身動きが取れなくなる前になまえは逃げ出そうとした。したが、それは未遂に終わってしまう。背後に立つ男はなまえの耳元で努めて冷静に事の経緯を話し始める。
「今は私の話を聞いてください」
私は警察の人間です。と告げた男に、なまえもようやく落ち着きを取り戻し、口元に回された手から解放され、恐る恐る背後の男を見た。男は緊張した面持ちでこちらを見ており、なまえもまた警察の人間である彼を見て、警戒を解けずにいた。何故、自宅に警察の人間と殺害された男がいるのか。疑問は尽きないが、それ以前にどうしてこんな場所で事件が起きてしまったのかが分からない。
「ど、どうして、私の部屋で、こんな、」
「通報があったんです。私は別件でこっちに来ていたのですが、現場に急行するようにと」
「この人は、一体」
「胸に代紋があります。見たところ、暴力団の一員でしょう」
でも、何故あなたの部屋にいるのかは分かりません。何か心当たりは?
男の言葉になまえは目を逸らした。心当たりと言えば、いくつかある。自分の生まれ育った家のこと、人には決して明かせない稼業をしていたこと。かつて、自分を囲っていてくれた組の男が逃げた自分を探していること。だが、そのようなことを目の前にはいる男に伝えるべきなのか、判断がつかなかった。下手をすれば、自分の手に縄がかけられるかもしれないと恐れていた。
「ひとまず、ここを出ましょう。もう直に他の刑事達が到着する」
「……私、」
「あなたにはきっと特別な事情がある。なら、無理に吐かせるような真似はしない方がいいと踏んだんです」
「あの、あなたは」
神室署の黒岩です。と端的に答えた刑事に手を引かれ、なまえは自室を後にした。アパートの外に停めてあった車の後部座席に乗せてもらい、黒岩もまたその隣の座席に乗り込む。なまえは正直、部屋で見た男の死体が嘘なのではないかと思っていた。だが、先程の件で平穏だった日常の綻びが自分に迫っていたことを知り、深く絶望していた。俯いた顔は黒岩という刑事の顔を捉えられない。
「あなたは、みょうじなまえさんですね?」
はい。と力なく答えれば、自分をいたわる様な声で黒岩は身元の確認や、なまえの抱えている事情について、いくつか質問を投げかけてきた。まずは部屋で死んでいた男との関連性、顔見知りだったかを問われ、なまえは首を振る。全くの赤の他人だと告げると、再びあの問いかけがやって来た。それじゃあ、あの男に狙われる心当たりは、と。心臓が重たく脈を打ち、唇を縫い付ける。言えなかった、どうしても自分の正体を明かすことだけは出来なかった。その様子から黒岩は何かを察したのか、分かりました。と言い残すとなまえの俯き丸まる背中に手を添えた。
「我々、警察には明かせない事情があると」
依然として黒岩のことは見れなかったが、背中を優しく撫でられる度に込み上げる感情があった。結局、自分は逃れられなかったのだ。裏社会の闇から。呆気なく足首を掴まれ、遂にはここさえも暴かれてしまったのだから。込み上げた感情がいつしか涙となってこぼれ落ちた。
「もしかしたら、あなたは重大な犯罪に巻き込まれているのではありませんか」
もし、そうだとしたら、あなたが頼るべきは警察です。黒岩は真剣な目でなまえの瞳を覗き込んだ。ガラス玉だった瞳に何が見えたのだろう。未だに臆病な自分はガラスの奥に閉じこもったまま、何も明かせないでいる。何も告げられない女を黒岩は理由のひとつも聞かずに傍にいることを選んでくれた。殺人が絡んでいるのだ、たった少しの話を聞いて釈放してやれるほど安易な事件ではない。事件現場となってしまった自宅には暫くの間、入れないと言っていた。代わりに警察の方で用意したホテルに宿泊してもらうと告げられ、なまえは安堵していた。なまえは一人でどこかにいるよりかは、警察という信頼出来る人間の近くにいたいと思った。
「私達にも言えない事情を無理に聞き出したりはしません。ただ、みょうじさんが話せるようになった時には」
私を頼ってください。黒岩の見せた真摯な態度になまえは縋り付きたくなってしまった。僅かばかり、心が揺れた。出来るだけ表に出さないように努めていたが、無駄なのかもしれない。しかし、まだ信用に足る相手ではないとなまえは頷き、その場をやり過ごした。その間、黒岩はなまえの精神的なケアに徹し、臨時で手配したホテルにまで着いていくことを伝え、出来る限りの不安を取り除こうとしてくれていた。
『私を頼ってください』
その言葉に酷くぐらついていた。一人で固めた決心が揺らいで、揺らいで仕方ない。どうすれば、いいのだろう。もし、仮に彼のことも遠ざけてしまったら、今後もこのような出来事に巻き込まれてしまうのではないか。ならば、警察に何もかもを打ち明けてしまった方が自分のためになるのではないか。黒岩は神室署の刑事だ、事が沈静化してしまえば東京に帰ってしまうことだろう。時間はあまりないのだと、なまえは崩れかかった決心をもう一度しっかりと見つめていた。
黒岩はと言えば、神妙な面持ちで俯くなまえの横顔を、薄暗い車内の闇の中で黙ってなぞっていた。そこにあるのは、真摯な態度の刑事ではなく、彼女の足首を掴もうと地中より手を伸ばした、得体の知れない何者かの顔をした黒岩満であった。