黒岩満に全てを明かそうと思ったのは、自宅で見知らぬ男の死体が発見されて数日経った頃だった。慣れないホテルの一室に彼を呼び、抱え込んでいたことを何もかも打ち明けてしまおうと思ったのだ。心変わりはこの数日間の内に起きた。きっかけはやはり自分を追ってきたものと思われる男の死体だった。これ以上、何にも脅かされたくなかった。ならば、多少の償いは受け入れる。だから、もう逃げ回る生活に終止符を打ちたい一心だった。
「……今の話は本当なんですね?」
黒岩は信じられないという顔をしていた。まさか、自分が保護した女の語る胸の内が裏社会に通ずるもので、女自身も裏の稼業に手を染めていたとは想像も出来なかったはずだ。動揺しているのか、沈黙が長く続く。しかし、なんとか事実を飲み込んでくれたのか、黒岩は自分に対し、打ち明けてくれたことへの感謝を告げた。初めてのことだった、自分の素性を明かして感謝されることに。なまえは上手く返事が出来ない。切実に逃げ出したいだけだと黒岩に伝えると、黒岩はすぐに判断を下す。
「みょうじさんのお話は分かりました。確かに見過ごしておけないことだと言うことも」
「……もう、嫌なんです。追われて大切にしてきたものが壊されるのが」
「ええ、さぞ辛かったでしょう」
「たすけて、ください」
その言葉を耳にした黒岩は続いて、もう一度口を開いた。なまえは黒岩の話に耳を疑ったが、今まで持ちかけられた提案の中で一番良い誘いだと思えた。黒岩が彼女に持ちかけたのは、こうだ。警察としても裏社会の人間に追われている人を放ってはおけない。だが、なまえが過去に犯してきたことについて、なかったことにすることは出来ない。だからこそ、警察は過去の違法行為を知った上で、なまえを警察への協力者と言う形で自組織に引き込みたいとの事だった。
黒岩は更に協力者となってくれた暁には、なまえの身の安全と静かな生活を保証することを掲げていた。それはつまりなまえを探す裏社会の人間を追い払うことでもあると、黒岩は言う。だが、その代わりに黒岩の管轄内である東京へと戻らなければならないとも突き付けられた。遠方の地まで自分の目が行き届かないことが第一の理由だ。もし、そうなってしまえば、今までと何ら変わらない結末を迎えることになる。なまえの返事は決まっていた。
黒岩は安堵した表情を見せる。なまえの返事が良いものであったとひと目で分かる顔だ。しかし、そうと決まればこれからは慌ただしくなる。なまえが東京に訪れるのは少し先の話になるだろうから、その間の身辺整理はしっかりと済ませておくようにと取り付け、黒岩はなまえと手を取り合うことを選んだ。果たして、これが本当に『手を取り合う』こととなるのかはなまえはまだ知らない。
現状、彼女の周りには他者の思惑が蔓延っている。それは彼女の部屋に男を寄越した組織の人間か、はたまた彼女を遠くからつけ狙っていた誰かなのか。疑問は尽きない。何故、彼女の部屋で事件は起きたのか。何故、あの男は部屋で殺されていたのか。何故、偶然にも東京の刑事が現場に駆けつけることになったのか。一体誰が彼女を奪取しようとしているのかは不透明なままだ。だが、彼女は図らずも深淵から伸びる手に足を掴まれてしまったということだけが、今伝えられる全てだった。
その日を境に二人は頻繁にやり取りをするようになった。なまえが黒岩に自身の秘密を明かした日から、二人の関係が密接なものへと変わっていくのに時間はかからなかった。仕事を辞め、荷をまとめ、引越しの目処が立つまでは意外と早かったが、こまめに行われる事情聴取にぐったりと疲労していた。分かっていることを何度も伝えなければならず、問われる度に部屋で亡くなっていた男の姿を思い出してしまい、悪循環だった。しかし、黒岩はなまえからそのような話を聞くと、何かと献身的な言葉で寄り添ってくれた。黒岩がそう言った男だったからこそ、なまえは黒岩の元に身を寄せることになっても、何ら違和感や疑いの類いを抱かなかったのである。
「みょうじさんはどうしてカタギに?」
なまえに貸し出されたホテルの一室に黒岩の姿があった。黒岩は仕事の隙を見ては、こうしてなまえの様子を見に来ていた。初めは漠然とした申し訳なさに負い目を感じていたが、その度に与えられる黒岩の優しい言葉に、次第に前向きになっていった。まるで恋慕だった、自分のことを考えてくれている黒岩を見ていると胸が騒がしくなる。良くされる義理などないのに、彼はそれを平然と差し出してくれる。ならば、彼の質問に答えることで少しでもいいから恩を返していきたい、そう思った。
「私の家系は誰もが、そうでした。裏社会に身を置くことを当たり前としていて、その為の教育を欠かさない」
「では、みょうじさんも……?」
「はい。おかげさまで食い扶持に困ることはありませんでした」
「じゃあ、尚更どうして」
ただ、真っ当に生きたいと思ったんです。裏稼業からは身を引いて、普通の人のように。
だから、みょうじなまえはニンベン師であることをやめた。何不自由なく依頼の度に舞い込んでくる金や勝手に着いてきた裏社会での名声を捨ててまで手に入れたかったのが、この生活だった。誰かを陥れ、欺く必要のない世界で生きてみたかった。だが、その夢はいつも長く続かない。自分の正体を嗅ぎつけた他者に付け狙われ、何処までも追いかけて来るのだ。もう、終わらせてしまいたかった。
「勇気あるご決断だと思います。更生の道を選ぶのは容易なことではありません」
「……私が逃げたかったから逃げたんです、」
「それでも、私はみょうじさんの決断が間違っているとは思いません」
良くされる義理などない。そのことをどれほど理解していても、損得勘定のない黒岩の行動や言動に肯定される度に泣きたくなる。こぼさぬように密かに目を逸らせば、すみません。踏み入った話を。と気遣われ、首を横に振る。こぼれてしまいそうになると、黒岩は何も言わずに胸のハンカチをなまえの頬に添えた。たった一人、ここまで来るのに心細い夜ばかりを越えてきた。それがやっと報われるような気がしていた。本当にここまで心を預けてしまって良かったのだろうか。疑う余地などない、疑いを持つこともしなかった。
「神室町に来ると言うことは名目上、我々の協力者という形になります。ですから、みょうじさんは私を介して警察の監視下に置かれるでしょう」
差し出されたハンカチを握り締めたまま、頷く。黒岩もどんなに言葉を選ぼうとも、避けられないものがあると苦々しい表情で形式ばったそれを紡ぐ。だが、黒岩がすぐに続けた言葉は彼自身の言葉であるような気がした。私以外の警察関係者による過干渉は拒否してもらって構いません。行き過ぎたものがあれば、私の方でなんとかします。とまで言い切った黒い瞳に目頭は更に熱くなる。瞬きの間に頬を伝っていった涙は一瞬だった。しかし、黒岩はその涙が落ちる前に指先で拭ってみせた。
「我々の役目は助けを求めている人に手を差し伸べることです」
衝動的になれない黒岩の手は拳を作ったまま、膝の上に置かれている。恐る恐る泣き濡れた手を伸ばして、固く握り締めていた手を包み込むように触れる。すると、黒岩は苦笑し、情けない姿を見せてしまったと申し訳なさそうにしていた。なまえは見ず知らずの自分に、ここまでしてくれた黒岩に謝らないでほしいと伝えた。何度も。取り留めのない拙い言葉で繰り返し、何度も。互いに言葉を失った後は静寂に閉ざされ、真っ直ぐに見つめ合う目でしか何も語れなかった。
しかし、そう長くは持たずに視線は逸れていく。目を伏せたのは、なまえだった。黒岩が自分に対して、必要以上の情を抱いてしまわぬようにと考えてのことだったが、手遅れであると本当は分かっている。だが、決して勘違いしてはならないとだけ誓う。黒岩が心を割いてくれているかもしれないが、深い関係になれると思ってはならないと。だから、目を伏せたのだ。遮断された視界の中で何かに触れる。ふんわりと漂う煙草の匂いに紛れて、男の香りがした。
なまえが目を開けられなかったのは、自分に都合のいい白昼夢を見たくなかったから。黒岩がなまえに触れたのは、目を伏せた彼女の横顔がただ綺麗だったからである。