何年ぶりかの雑踏に頭痛がした。なまえが東京の、黒岩の元に身を寄せてもう数ヶ月は経っていた。都会は地方と違い、混雑している。何事にも人が混み合っていて、ぎゅうぎゅう詰めで、所狭しで、息苦しい。保護されているとは言え、それなりの自由は与えられた。新たな職、近場への外出。その二つが許されているだけでも快適な生活だった。実際、カタギの仕事は好きだったこともあり、辛く苦しい現実から逃れられる手っ取り早い現実逃避でもあった。休日には息抜きと称して一人で外出することもある。それほどまでに黒岩の傍と言うのは、居心地の良い場所だった。
警察の激務に追われる黒岩もよく顔を出してくれる。忙しいだろうに、と彼のことを思うと、申し訳なさと嬉しさが混じった複雑な感情を抱かされる。自分のことを思い、考えてくれる黒岩を、時折どうしようもなく思ってしまうことがある。そんな日には自分を寝かしつけるのに苦労するようになった。過去には、もう二度と誰にも身を委ねないと決めていたはずなのに。心変わりの容易さに恐怖を覚える。
数年前、逃れるようにこの街から出て行った。みょうじなまえと言う、新たな自分と共に。しかし、再びこうしてこの街に戻って来てしまった。だが、今回は大丈夫な筈だと自室のベランダから街を見下ろす。黒岩が用意してくれたのは、とあるマンションの一室だった。高層階の一室でなまえは暮らしている。警察の保護下にある自分を脅かすものは何もない、そう思っていた。だが、この完璧に構築され尽くされた逃走劇を疑問視するようになったのは、全ての始まりだったあの部屋での一件を思い出すことがあったからだ。
黒岩は自室で不審死していた男は裏社会の人間だと言っていた。それは当時、その男が身に着けていた組の代紋が物語っている。黒岩は近隣住民からの通報を受けて、現場であるアパートに向かい ────。実を言うと、そこから先は分からず終いだった。取り調べでは何度も時間ごとのアリバイの確認、そして、被害者であるヤクザとの関連性を聞かれていた。その度に取り調べ担当の刑事が他所の人間が関わって来て面倒だとこぼしていたのも覚えている。何故だろう、まだ知らぬ結末に胸がざわついて止まない。裏社会で生きていた頃の習性だ、胸がざわつく時はいつも良からぬことが起きる。自分の身に降りかかる災難に、黒岩の姿が重なるが、そうだとは信じたくない。
「最近のみょうじさんはどこか疲れているように見えます。あまり無理をしないでください」
この日、黒岩満はなまえを保護しているマンションの一室に顔を出していた。細かな面会はこちらに越してきてからも続いている。初めは心細い自分の大切な支えであったが、あの疑問を抱くようになってからは見方が僅かに変わってしまった。至極丁寧である言葉も、立ち振る舞いも、感情の機微。黒岩の見せるどれもがあの事件を思い出させて仕方ない。あの日がフラッシュバックする度、疑惑が強まっていく。裏付けされた根拠はない。だからこそ、無闇矢鱈に彼を疑う自分に嫌気が差していた。
「もうこっちに来てから数ヶ月は経っていますが、それでも心身への負担はあるはずです」
「……ごめんなさい。心配させるつもりは、」
「体を大切になさってください。私も気にかけているんです、みょうじさんが無理されていないか」
黒岩の言葉はいつ聞いても心が揺れる。適切な言葉を適切な時に、適切な分量で与えてくれる。今まではそれに救われていた。だが、今は渦巻く雨雲に目の前を覆われているせいで、全てをありのままに受け取れない。この日、なまえは初めて黒岩満をやり過ごすように接していた。そして、なまえは黒岩への疑惑を晴らすべく、とある手段に出た。
自分がまだ裏社会の人間であった頃、密接に繋がっていた情報屋の存在があった。今もまだ現役であるなら、今回の一件を調べるのは容易いと踏んだのだ。その情報屋は警察内部に潜んでおり、所属は黒岩と同じ神室署だ。警察でありながら、他所に情報を漏らす悪徳刑事と元ニンベン師が繋がっていても、何らおかしいことはない。全てを捨てたはずだったのに、と悔やむ心情はさておき、記憶に朧気な番号に電話をかけた。勿論、最悪のことを考えて足のつかない端末も用意しておいた。
聞きたいのは、自分と黒岩が出会うことになったあの殺人事件についてだ。調査や取り調べは向こうで行われたものの、神室署の黒岩が関わっているのだ。情報の共有は行われているはずだ。それに関する何かを拝借出来ればいい、どのような形であろうとも。呼び出し音は続く。何故だか、沈黙の時間が恐ろしく感じられた。いつまでも続く呼び出し音を終わりのない、無限のものだと錯覚してしまう。
携帯を耳に預けて数分経ち、思うことがある。どうして未だに呼び出しが続いているのだろうか。電話をかけた相手が出られない場合、何かしらのアナウンスが流れるはずだ。携帯の画面を見ても、通話中などの表示は出ていない。胸がやけにざわついたのを機に、電話を切ってしまおうと思った。今日はやめておくべきだと。だが、繋がらない通話に気を取られていたせいで、背後に迫る人間の存在に気付けなかった。
「こんな時間に誰かに電話ですか」
一瞬で肌が粟立つ。一瞬で状況を理解してしまう。一瞬で逃れられないと足が竦んでしまう。恐る恐る振り返れば、そこには黒岩が立っていた。既に帰ったであろう相手が背後に佇んでいた時、人はまともな声が出せないのだと知った。いつもと変わらない柔らかい表情をして見せる黒岩が、途端に恐ろしくなる。特にあの黒い瞳を見ていると、抱かされた恐ろしさが増幅していくようだった。
「失礼ですが、どなたに電話を?」
「手違いでかけてしまって、まだ繋がっていないかを確かめていたんです」
「そうでしたか。なら、早く通話を切った方がいいかと」
「そうですね、切ります」
手にした携帯の画面に触れる寸前、なまえは自分の耳を疑った。黒岩がこう言ったのだ。手違いにしては、随分と長い間電話をかけていたようですが、と。視線が黒岩の誘導に乗せられ、なまえは黒岩を見た。すると、あの真っ黒な瞳に掴まれ、目を逸らせない。そして、黒岩はいつの間にか手にしていたものをなまえに差し出した。それはなまえが手にしているものと同じ、携帯端末だった。それには今も尚、呼び出され続ける着信画面が表示されている。
「もしかして、昔の友人にでも電話を掛けてしまったんでしょうか」
なら、みょうじさんに言っておくべきだった。『彼』は少し前に亡くなりましたよ。
汚職に手を染めたことに対する贖罪として、自ら命を絶ったと、黒岩は言う。果たしてそうだろうか。長年に渡って手を汚してきた、しかも、自ら好んで手を汚した人間が後悔など抱くものだろうか。なまえはその男のことを良く知っていた。金さえ積めば、大抵の事は横流ししてくれる警察らしからぬ人間であると。
「みょうじさんは『彼』に何を聞こうとしていたんですか」
「……私のこと、です」
「みょうじさんの?」
「一体、どうやって私の居場所を知ったのか。私は『彼』に行き先を告げたりはしなかった」
それなのに、突然東京の刑事が現れた。偶然なんかじゃないと言い切ると、目の前の刑事は寂しそうに眉を下げた後、もう一度なまえを見た。じっとりとした視線に萎縮していられないと先を続ける。
「あの、黒岩さん」
「何かありましたか。怯えた顔をしている」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「黒岩さんはどうして私の居場所がわかったんですか」
どうして、と困惑した表情はフェイクだ。気付いてしまったからには、知らぬ存ぜぬでいてはいけない。黒岩の善良な刑事の仮面は間もなく剥がれ落ちるだろう。水底のように広がる深淵から悪意が今にも突き刺さんとばかりにこちらを見つめている。
「勘が良いんだか、悪いんだかわかんねえな。お前」
その男は差し出した携帯を懐に戻すと、剥がれ落ちた善良な刑事の顔を気にせず、距離を詰めていく。壁際まで追い詰めずとも、逃げ出せぬように腕を掴まずとも、下手な真似をしないように拘束せずとも、黒岩は至って余裕だった。次に取り出したものがしっかりとなまえの命を握り締めていたからだ。黒岩の影の中でそれは自分の下腹部に向けられていた。そのまま撃ってしまっても、先に足を撃ってしまっても、事は有利に運ぶだろう。
「やっぱり裏の人間なんだよ、お前は。じゃなきゃ、こんなつまらねえことに気付きやしねぇ」
「もし、私があなたの元を去ろうとしたら」
「そんなもん、出来やしない。この場でお前を撃ち殺せば、それで終わりだ」
今の黒岩は、過去に自分が逃れたかった男と同じ顔をしていた。そこには心を許してしまっても構わないと思った、かつての面影はない。例え、諦めを覗かせようとも、自分に向けられた銃口は別の誰かを捉えることはなかった。