黒岩の向けた銃口から逃れる術はひとつしかなかった。抗うことをやめること。しかし、抵抗を捨て去っても、黒岩は一度で満たされはしなかった。容易に手に入れた女が警察内部に探りを入れようとしたのが面白い反面、気に食わないと今まで隠し持っていた凶暴性を露わにする。見下す視線は冷たいのに、浮かべた笑みは心底愉しそうで、黒岩という男の見せる感情の複雑さを理解出来ない。複雑な感情表現をしては、単純な痛みで感覚を麻痺させていく所業は黒岩だからこそ、出来たものなのだと思う。躾にも似たそれは繰り返される度に、意識を従順なものへと変えていった。しかし、自我を奪い去ることだけはしなかった。黒岩の目的は支配ではなく、自分を配下として抱え込みたいだけなのだろう。
 そして、それを見せつけるように黒岩は時折、裏の仕事を持ち込むようになった。データの改ざん、物的証拠の偽造から特定の人物における死の偽装など、かつての自分が行っていた仕事そのものを回すようになったのだ。結果は常に満足の行く出来だった。そうでなければ、黒岩は自身の手で容易にこの命を掴もうとする。生命を脅かされることがいかに恐ろしいことか、黒岩によって教え込まれてしまった。複雑な構造の爆弾の絡み合う配線を遊び感覚で断つのと同じなのだ。人体における弱点を心得ている黒岩は、どうすれば命の灯火を吹き消せるのか熟知している。


「お前、やっぱりこの仕事に向いてるかもな」
「……ありがとうございます」
「なんだよ、そんなつれねえ顔することねえだろ?」

 この日も黒岩の姿はなまえの部屋にある。ローテーブル前のソファーにふんぞり返り、机上には自分が偽造したばかりの書類が置き去りにされたままだ。なまえは罪悪感の抜け切らない顔で黒岩を苦々しく見つめていた。黒岩は正体を明かしたあの夜以降、二度と善良だった刑事の仮面を着けることはなかった。だからこそ、余計に恨めしかった。結局、自分は利用されるだけの人間で、手足のように扱う相手も同様の認識でいることが。

「何が気に食わねえ、言ってみろ」
「いえ、黒岩さんの手を煩わせるだけですから」
「それでもいい、聞いてやる」

 なまえが話し始めたのは、自身の過去に関わるとある男の話だった。その男は東城会系の三次団体である組の若頭補佐で、仕事に不慣れだった頃のなまえの面倒を引き受けてくれていた。初めは懐疑心から始まった付き合いだったが、男の面倒見の良さからなまえが心を開くのに時間はかからなかった。自分が生きていく為だけの仕事が、彼の為になるのならとなまえは努力を厭わなかった。より緻密に、より精密に、より正確に。人を欺く為の力を身につけたのも、全ては彼の為だ。だが、次第に募っていく恋慕はやがて苦悩をもたらした。このままでいいのだろうか、と。
 とある日、胸に宿した苦悩に耐えきれず、なまえは本心を打ち明けることを選択した。男と二人きり、初めてのことだった。裏社会の人間に酷く入れ込んだのも、自分の在り方を問い掛けたことも。何と言ってくれるだろう、いつもと同じで困ったように笑って飲み込んでくれるだろうかと。しかし、迎えた結末はなまえを裏社会から遠ざける主な理由に繋がってしまった。嘲笑、拒絶、利用価値の有無。まざまざと見せつけられた現実に、なまえは男と手を切ることにした。そして、裏社会からも存在を抹消し、遠く離れた街で新たな人生を送るつもりだった。

「そりゃあ、こんなに使える奴を易々と逃がしてやれねぇだろうよ」
「……逃げた先々にあの人の追っ手が姿を現しました。どこへ行っても、何度逃げても」
「なら、今と何も変わってねぇってことか」

 皮肉なもんだな?と黒岩は退屈がてらに懐から煙草を取り出すと、一本に火を灯して口元に寄せる。そう、何も変わっていないのだ。ただあの男が黒岩にすり替わっただけで、現状は何も変わってはいない。目を伏せたくなる現実になまえはあの頃と同じ苦悩を抱えていた。半ば八つ当たりのように黒岩にぶつけてみれば、咥えていた煙草を手に逃がし、神妙な顔をしてこちらを見ていた。黒岩の鋭い視線に背筋が震える。

「ソイツの何が気に入らねえ」
「何もかもです。アイツからしたら、私はただの道具なんです。……ただ、使い勝手が良いだけの」

 わたしは、と続けたかったが、それよりも先に感情が自然に出て行くのを止められずにいた。悔しいとまでこぼしてしまえば、後は惨めな時間が流れていくだけだった。涙を拭くのはこの両手だ。誰かを欺くことしか出来ない、薄汚れたこの両手だけなのだ。黒でいることが常であることに何の疑問も持たず、受け入れてしまった哀れな女が部屋で一人取り乱している。黒でいることが常であると受け入れた男は黙って女の話を聞いている。
 ただ、人として尊重され、時には必要とされたい。誰もがそう願い、求めるものを口にして、ようやく諦めがついた。無駄である、誰にそれを明かそうとも叶うことの無い戯言でしかない。なまえは涙を拭うと、突然取り乱したことを黒岩に詫びた。そして、気分転換に外の空気を吸いたいとベランダに出て行ったなまえの後ろ姿を黒岩は未だに黙ったまま、見つめていた。


***


 果たせぬ望みを吐露し、数日が経った頃。黒岩から呼び出しを受け、なまえは神室町から離れた場所にある廃墟を訪れていた。かつてはホテルなどの宿泊施設だったのだろう、その名残りが残るフロアを進んでいくと、照明の光が漏れている一室を見つけ、中へ入って行った。『302号室』、黒岩はここで話がしたいと言っており、この照明も呼出人が既に到着していることを表しているのだろう。傷み、剥がれた壁紙。床には正体不明の染みがいくつも出来ており、不気味な雰囲気の漂う一室では、自分を呼び出した男が古びた椅子に腰掛けていた。

「遅せぇぞ」
「ごめんなさい。まさか、こんなところに呼ばれるとは思ってなくて」
「長居するつもりはねえ」

 埃っぽい空気に気を取られていたのだが、ふと黒岩を見るとその足元に奇妙な物が横たわっていることに気付く。青いビニールシートに包まれた何かはまるで人の形をしているように見えた。心臓が今までにないほどに騒ぎ立てている。胸騒ぎも同様に発症し始める。嫌な予感が目の前に横たわっている気がした。ビニールシートの包みから目が離せない。一度でもそう思ってしまうと、その思考がこびり付いて離れない。一体、誰が包まれているのだろう。いや、まだ人であると断定出来ないのに、何故誰が包まれているのかと探っているのだろう。嫌な思考から逃れたい、不吉な悪夢を見ているようだ。視線で黒岩に訴えかける、今すぐにここを出て行きたいと。

「やっぱりどっちだかよく分かんねえなあ、お前」

 黒岩の端正な顔が笑みで歪んでいく。笑みが尾を引く黒岩は中々話し出そうとしない。なまえばかりが焦燥感に駆られていた。最悪の結末がすぐそこに転がっているのに、平然としていられない。それが当然だ、例え裏社会にいた人間であっても、『死』や『殺し』に慣れていない者は少なからず存在する。なまえもその一人だった。

「お前の言ってた通り、俺の手を煩わせるだけだと思ってな」
「なにがですか……?」
「見て分からねぇか?足元にある、コイツのことだよ」

 黒の革靴がビニールシートの包みを足蹴にする。『コイツ』と黒岩が発したことで、不意にビニールシートの中身が何かを知ったなまえは恐怖に錯乱してしまいそうだった。胃袋の中で渦巻く気持ちの悪い吐き気に深く息を吸う。顔面蒼白ななまえとは対照的であるかのように、黒岩は顔色一つ変えることはしなかった。黒岩がこのような事態に慣れているのは一目瞭然だが、その動機が分からない。仮に、ビニールシートの中身が本当に『彼』であるなら、黒岩とは何の接点もないはずだ。ただでさえ、現状が理解出来ていないのに、黒岩という存在が思考を掻き乱していた。

「俺にとって殺しはこんなもんだ。良心の呵責にもなりゃしねえ」

 体に取り込んだ煙を吐き捨てるように口を開く。

「だが、お前はどうだ?」

 平気じゃいられねぇだろ。と黒岩は再び口元を歪ませる。どうして笑っていられるのか、理解が追いつかない。焦燥感は増していく。

「……なんだ、お前。怯えたフリして、嬉しそうな目してるじゃねえか」

 焦燥感は確かにあった。予想もしていない現実に直面し、何を考えていいかも分からずにいた。しかし、僅かに胸のつっかえが取れたのも事実だった。心の抉られた古傷を埋めるように、黒岩は新しい血肉を注いで塞いでくれた。断ち切れなかった縁がたった今、断たれたのだ。なまえは無性にビニールシートの中を覗いて見たいと思うようになっていた。『彼』の最期を見届けるだとか、そんな立派な理由ではない。ただ、自分の為に見ておきたかった。
 何を言わずとも黒岩の手が伸び、人型の頭部と思われる箇所のビニールシートを乱雑に剥がす。そこにあったのは、想像通りの『彼』の遺体だった。咄嗟に嘔吐く衝動を抑えているものの、なまえはその死に顔から目が離せない。何度も恐怖が肌を撫でては背筋へと駆けていく程、いつしか感覚は人知れずに麻痺していた。目の前に横たわる『死』が心を掴んで放さない。恍惚感が体の奥底から湧き上がる。やがて恐怖が快楽へと変化を遂げているとは知るはずもなく、なまえは黒岩に許されるがまま、男の遺体を凝視していた。