「あれはお前を尊重してやった結果だ」
満足したか。と廃墟の一室に黒岩の声が響く。この男は『彼』を殺めることで、みょうじなまえが満足すると考えたのだろうか。余計に分からなかった、黒岩満が何を考えているのか。これでもう思い残すことはねぇだろ。と煙草の薄い煙の中で黒岩は言う。自分はと言えば、『彼』の死を受け入れてぼんやりとしているばかりだった。だから、よく分からなかったのだ。醒めた顔をしているのに、どこか憐れんでいるような瞳を向けている黒岩の思惑が。
きっと酷いことをされただろう。想像するのも躊躇われるほどの辛く苦しい境遇にあったことだろう。黒岩の吐き出した薄煙の中で、別人の顔をした女がいた。ぼんやりとしていたのは、死んでしまった事実に呆然としていたわけではない。ぼんやりとしていたのは、真隣にいる男は容易く人を殺める人間であると知った恍惚感のせいだった。人は時に、自身の拒絶していたものをすんなりと受け入れられることがある。様々な要因が複雑に、とても複雑に絡み合い、発症してしまったのだ。それはまるで不治の病のように、体の奥深くに根付いてしまった。
「確かに思い残すことはありません。でも、」
「アイツも所詮、裏の人間だ。いつこうなってもおかしくねえ」
「なら、私もいつかそうなるんでしょうか」
「さあな」
ま、精々、殺されねぇように気をつけねえとな。とまともに取り合っていないような笑みで、自分の首輪を引いた黒岩に連れられ、廃墟を後にする。出口に向かうまでの間、自分に巣食った欲望を宥めようと理性で抑えつけていたのは黒岩も知らない事実だ。そして、自分もまた理性で抑えつけられるものだと過信していたのだ。それが後になって、取り返しのつかない所まで来ていることに気付かされるのだから皮肉だ。
***
黒岩は廃墟での一件から、なまえに裏の仕事を回さなくなった。理由を訊ねれば、そこまで何でもかんでも引き受けてやれるほど、お人好しじゃねえ。と躱されるばかり。かつての仕事に手をつけなくて良くなったのは、なまえにとっては不幸中の幸いだった。だが、時間が経てば経つほど、黒岩の意図が見えずに困惑していた。廃墟での一件は、自分を縛り付けておく為の見せしめだったのではないかと考えている。それなのに、今ではただのカタギと同じように過ごすことを許されている。いつまでも、胸の奥ではあの日の、思い残すことはないかという黒岩の言葉が深く突き刺さったままだ。
「浮かねえ顔してんだな、」
「あの、本当に仕事はないんですよね……?」
「何が言いたい」
「黒岩さんは、その、初めから私を利用する為に匿っていて、それなのに」
仕事を回さねぇことに不信感でも抱いてんのか。と黒岩は一瞬で核心に迫る。なまえもこの時ばかりは素直でいることを選んだ。
「あの日からずっと考えています。どうして、黒岩さんがそうしてくれたのか」
「つまらねえ妄想はやめとけよ」
「あの人が死んでしまった今、好きに動かそうと思えば動かせるのに」
「ただ飼い殺しにされてるだけだ、お前は」
本当に、そうなんですか……?と光さえ吸い込んでしまいそうな黒に問い掛けた。不覚にも黒岩の何かに触れてしまったようで、うんざりと言った溜め息の後に口を開く。
「昔の男チラつかせて半端な仕事されちゃ困んだよ。それに、ソイツらのせいで面倒を被るのも勘弁だ」
ただ、自分の歩く道を綺麗に片付けたかっただけなのだと黒岩は言う。目障りなもの、自身の障害になりえるものを排除する。それは僅かでも脅かされることを良しとしていない人間の考えそうなことだ。ようやく、腑に落ちた。そして、そこまで徹底しているからこそ、なまえは胸の疼きが黒岩に由来するものだと知った。不思議と前より確かな目で彼を見るようになったのは、やはり自身の因縁を断ち切った黒岩に救われていたからなのだろうか。自分の為に手を汚したわけではないと分かっているのに、また心のどこかで生ぬるい感情に触発され、甘ったるいことを考えていた。どうしてか、こんな時に限って心を寄せた黒岩の姿が甦ってくる。
ふと、今の自分が過去の自分と同じ過ちを犯しているような気がした。いつか手遅れになり、逃げ出すことすら叶わなくなるだろう。その意識はしっかりと持っている、いや、持たされているのかもしれない。分かった上で引き摺り込まれようとしているのは、誰か。まさか、黒岩はここまで考えて全て画策していたのだろうか。背筋が震える。恐れではなく、堕落した理性がだらだらと背筋をなぞっているせいだ。良からぬものが勝手に黒岩と結び付き、あの秘密と絡み合う。何かが固く結ばれ、逃げ出そうにもそれを断つことは決して容易くないだろう。
「用があれば、連絡する。それでいいだろ」
「……そうですね、」
自然と唇が震えた。黒岩に向けて、ありがとうと礼を伝えていた。自分でもどうして今更、感謝の気持ちを伝えたかったのかは分からない。ただ利用されているに過ぎない人間が感謝を口にするのは愚かなのか、その答えも分からなかったのだ。僅かに目を丸くした黒岩は目の当たりにした死を悼むことなく、つくづく愚かだと嘲り笑う。その笑みに歪む顔が元々の端正さを露呈させる。
「ここまで殺してよかったと思う人間なんざ、他に居ねえよ」
あとは好きにしてろ。と部屋を出て行く背中を後追いすれば、玄関の薄暗がりで冷めた目とぶつかる。追い払う言葉は投げ付けられなかった。その代わりに手の甲で軽く頬を叩かれる。全く重たいものではなかった、しかし、強く惹かれる何かがある。そして、黒岩は黒岩で、頬を叩いておきながら、病んだ顔をしていると吐き捨てた後、
一人の女を壁際へと追い込んでいく。辺りの薄暗がりが一人の男の顔を覆い隠してしまう。背筋から滴り落ちた堕落がずるり、としがみついて離れない。叩かれた頬が痛くもないのに微量の熱を帯びる。張り詰めた空気が心に影を落とす。膿んだ傷口を綺麗に拭ってくれたのは、紛れもなく黒岩満だ。だが、その代わりに得た傷口が痛い痛いと嘆いている。本当は、どうにかして欲しい。また、あの時と同じように膿を吸い出して欲しい。どうしてか、裏の顔を覗かせるこの男のことが傷口から心に入り込んで来て、掻き出せない。
もう耐え切れないと睫毛が暗闇で一人静かに濡れた。もうとっくに濡れた唇は乾き切ってしまった、ぱっくりと開いた傷口は隙間を埋めたいと新しい何かを求めて止まない。何かが零れ落ちる前に口元を手で押さえた、つもりだった。暗闇の中で人肌の何かが首に巻き付く。人の手、五本の指がついた人間の手。片手のそれは脈だろうが、気道だろうがお構い無しに圧迫を強めていく。首の骨はとても簡単に折れてしまうのだと暗闇が囁く。指の腹が左右の脈に触れる。どくんどくん、と鼓動が鼓膜に響き始めた。指で潰された脈の、徐々に圧迫感がせり上がってくる感覚に、先を覗いてみたいと思うようになった。暗闇の中で触れる黒岩の手が酷く優しいものに感じられたからだ。
一線を越えることはとても恐ろしいものだと知っている。人の命を奪うことも、息絶える寸前の理性を手にかけることも、教え込まれた倫理観に背くことも、悪癖を見つけ出すことも、誰もが喜んで行うことではないだろう。しかし、こう思うのだ。目の前に大きく深い穴が開いていたとして、それがどれほどのものか覗き込んでみたいと衝動的に思うはずだと。賢い者ならば決して容易に近付いたり、軽率に覗き込んだりはしないのだろう。だが、自分は賢い者などではない。浅はかで愚かな人間だ。失くした心臓の代わりを求めて、別の誰かに自分の生きる価値を無意識に重ねている愚者だ。
「……まるで、夢でも、見てるみたい、です」
「へえ、そりゃあどんな」
「それが良いのか、悪いのか、わかりません」
「ただの夢で済めばいいな?」
暗闇の中でせせら笑う深淵の声を聞いた。この日から黒岩となまえの奇妙な関係が始まったのだ。表面上では何の違和感もない二人の重なり合う影の深さを知る者は誰もいない。同じ深淵の住人である相馬を除いては。
きっと、この首の骨が折れてしまえば、夢から覚めることが出来るのだろう。だが、その日まで躾られた病と粗末な首輪を手にした男から逃れられることはないだろう。それでも構わなかった、今こうして安穏と生きていられるのはこの男の、黒岩満が心臓の役目を果たしてくれているからだ。しかし、ならば相馬の存在は何に取って代わるのだろう。毒気の抜けた体は未だに覚えていた。獲物を歯牙にかけ、急所をねぶり、命を弄ぶ毒蛇のような男に、だらしのない理性が体の奥底で疼いている。